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愛とは分け隔てること――趣向『The Game of Poliamory Life』

 KAAT(神奈川芸術劇場)で行われた、趣向『THE GAME OF POLIAMORY LIFE』を見てきました。www.kaat.jp

The Game of Polyamory Life

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「ポリアモリー(Poliamory)」とは、合意のうえで、複数の人々と誠実な愛の関係をもつ恋愛スタイルのこと。・・・いや、恋愛スタイルというよりも、より広くライフスタイルそのものであるといったほうが正確かもしれません。

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)』の著者である、深海菊絵さんは、『日刊ゲンダイDIGITAL』のインタビュー記事のなかで、次のように説明しています。

 

「ポリアモリーとは、最もシンプルに言えば、『複数のパートナーと誠実に愛の関係を築くスタイル』です。ただし定義は人それぞれ。『合意の上で複数の人と性愛関係を築く』という人や、『結婚制度にとらわれず自分が愛する人の人数を決める』という人もいます」

 

「恋人や伴侶に嘘をついたり、隠すのはポリアモリーではありません。自分の交際状況をオープンにし、合意の上で築く人間関係です。『2人の彼女を誠実に愛 しているが、その状況を彼女たちに伝えていない』男性がいたら、それはポリアモリーではなく『彼なりに誠実な二股』です」

「複数の愛を生きる」深海菊絵氏 | 日刊ゲンダイDIGITAL)

 

おそらく、ここでポイントになるのは「合意」でしょう。

今回の公演に行く以前に、「ポリアモリー」について調べていたときに、わたしの中で引っかかっていたのが、まさに「合意」という言葉でした。もちろんあらゆる恋愛関係において、「合意」は必要なのかもしれないけれど、あまりに相手との「合意」的な関係を強調するあまり、恋愛にともなう(と、通常考えられている)感情的な機微があまり考慮されていないのではないか、と思えたのですね。

 

「愛」について真剣に、深く、哲学的ともいえるほどに考え、自分自身の感じていること、考えていることをオープンに伝え、話し合いを続けていった結果として、「愛」がどんどん抽象化していって、人間の感情から離れていってしまう・・・それって本当に「愛」なのだろうか。

よく、恋愛マンガを読み過ぎて、「恋愛すること」そのものに憧れてしまう少女たちのことを、「『恋』に恋している」というけれど、ポリアモリーの人々は、相手を愛しているのではなくて、「(ポリアモリー)という『愛』のかたちを愛している」のではないか、と思ったのです。

 

そんな疑問を持ちつつ、今回の公演『THE GAME OF POLIAMORY LIFE』を見てみて、ひとつわかったことがありました。

それは、ポリアモリーがあくまで「複数愛」であって、「人類愛」ではないということ。

そんなの当たり前じゃないか、と言われるかもしれませんが、嫉妬や束縛を乗り越えようとすればするほど、「愛」の理想的なかたちを哲学的に考えようとすればするほど、その発想が「人類愛」的なものに近づいていくのではないか、と思っていたのです。

 

でも、そこには明確な一線がある。そのことがわかりました。

ポリアモリーはあくまで「複数愛」であって、人類全体を分け隔てなく愛する「人類愛」ではないので、愛する人/愛さない人との間を隔てる明確な一線があるのです。

 

これは、よしながふみ愛すべき娘たち (Jets comics)』の中に描かれる、「莢子(さやこ)」の物語と比較してみるとより明確になります。

莢子は、自分よりも他人のことを優先する配慮あふれる女性で、しかもとても美しい人物として描かれます。それにも関わらず、結婚していない彼女のことを、主人公をはじめとした彼女の周囲の人々が心配するわけですが・・・その理由が、物語の最後に明かされます。

幼い頃から、祖父から「分け隔てなく人と接するように」と教ええ諭されてきた、それを突き詰める莢子は、人と恋愛することができない。

そのことを主人公に語るシーンが非常に印象的で、莢子は主人公に次のように言います。

 

「恋をするって 人を分け隔てるということじゃない」*1

 

最終的に莢子は、カトリックの修道女として生きる道を選びます。つまり、自分自身が人を愛するスタイルとして、「人類愛」を選ぶわけです。

 

一方、『THE GAME OF POLIAMORY LIFE』では、愛する人とそうでない人の間に明確に一線が引かれるシーンが描かれます。

これについて、ポリアモリーとして生きる女性「アリス」に恋をし、告白をした結果、彼女から一線を引かれる「ガンダム」役を演じた松崎義邦さんは、インタビューで次のように述べています。

松﨑:辰巳さんが言ったように、登場人物みんなが他者をリスペクトしてるのはぼくも感じるんですけど、あまりに上手く行きすぎてて、正直ぼくは現実味がないなとも感じているんです。

それをどうやってお客さんに見せれば受け入れてもらえるのかなぁって考えたときに、ガンダムっていうのは、そういう意味では人間味が一番あるかなと思っていて。

この作品のなかでガンダムをやるうえで、幸せに暮らしている人もいれば、そうではない人もいるということ は大切にしたいです。(The Game of Polyamory Life )

ここでは、「ガンダム」という登場人物について「人間味」があると述べられています。が、むしろ、「ガンダム」の存在によって、ポリアモリーの人々の「人間味」が描きだされているように思います。
 
愛とは、分け隔てること。
分け隔てるというシーンによって、はじめて、ポリアモリーが「人間味」のある愛のひとつとして、描かれてうるのではないか、と。
 
そう考えてみると、人生ゲームとしてつくられた「The Game of Poliamory Life」のなかで、「嫉妬(ジェラシー)」の存在が、とても重要視されていることに気づきます。
 

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 この画像だと見えにくいのですが、この人生ゲームの左下のほうには、紫色のモコモコした生物(?)がいます。それは、「ジェラさま」というジェラシー(嫉妬心)の化身で、この人生ゲームのなかでは、ジェラシー(嫉妬心)との戦いの道程が、ゲーム中の大切な要素として組み込まれているのです。

 

もちろん、その他にも、さまざまな要素がこのゲームには盛り込まれているわけですが、そのなかでも、ジェラシー(嫉妬心)とのつきあい方に関わるイベントは、それなりの比重を占めているに思います。

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ジェラシー(嫉妬心)や束縛したいという心を乗り越えるべきものと捉えながらも、それが、ポリアモリーとしての人生のなかでとても重要なものであるとされていること。

・・・この矛盾した状況こそが、ポリアモリーがあくまで「人類愛」のような抽象化されたものではなく、やはり人間らしい(人間くさい)「愛」のスタイルであることの証であるのかもしれません。

 

折しもつい先日、『COURRiER Japon(クーリエジャポン) 2016年 02 月号』に関連するブログ記事のなかで、「セクシュアリティ・フルイド(sexuality fluid)」が紹介されていました。

courrier.jp

 

「好きになる相手が男性だったり女性だったり、行ったり来たりする。かといって、男女どちらもOKというわけではない」という、「セクシュアリティ・フルイド」(「男女の営み」が過去の遺物になる日 « クーリエ・ジャポンの現場から(編集部ブログ)

)。

 

私たちは、いま、さまざまな意味で「プラトニック・ラブ」を乗り越えようとする、さまざまな「愛」の試みに出会おうとしているのかもしれませんね。

*1:

こちらの記事で、ページ画像がご覧いただけるようですので、気になるかたはこちらをチェックしてください→

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