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Literacy, Culture and contemporary learning

「正しい」ジェンダーの演じ方を求める世界のなかで~『息子のままで、女子になる』

日本質的心理学会第18回大会(10/24国内大会)のなかで、いくつか、「ジェンダーとパフォーマンス」が話題になりそうなシンポジウムに参加することになったこともあり、『シアターアーツ 3:演技・身体の現在』(晩成書房)に掲載されていた、ジュディス・バトラー(吉川純子訳, 1995)「パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成」を読んでいます。

現在の自分自身のコンテクストを踏まえながら、あらためて丁寧に1つ1つの文を解釈しながら読み直してみると、以前にも出会ったかもしれないキーフレーズがふたたび新たな輝きを見せてくれたり、以前には気づかなかったものに気づくことがあります。

 

表現と演技/推敲の区別は非常に重要である。と言うのは、もしジェンダーの属性、行為/演技、すなわち身体がさまざまなやり方でその文化的な意味作用を示すこと、作り出すことが遂行的であるなら、行為/演技や属性を判断する基準となるアイデンティティは、前もって存在しないことになるからだ。ジェンダーの行為/演技や属性には、本物もにせものもなく、現実味のあるものもゆがんだものもなく、真のジェンダーアイデンティティなるものは、規制力を持つ虚構なのだとわかるだろう。(バトラー, J. 吉川純子訳, 1995, p68)

 

バトラーは、「表現(expression)」と、「演技/遂行(performativeness)」を区別して考えることを提案し、ジェンダーとは前もって存在する何かを「表現」するものではなく、ジェンダーとは「演技/遂行」なのだと述べます。

ここでは「真のジェンダーアイデンティティなるものが「規制力を持つ虚構」であることも述べられています。

 

自らのジェンダーの演じ方を誤れば、露骨に、かつ遠回しなかたちで処罰を受けることになり、うまく演じれば、やはりジェンダーアイデンティティという実体があるのだと安心させることになる。(同上, p69)

 

こんな論文を読んでいた矢先に、サリー楓さんが「世に出る」までのプロセスを追ったドキュメンタリー映画息子のままで、女子になる(英題:You decide)を鑑賞しました。

 

 

この映画についてはいくつもの紹介記事・レビュー記事があるけれども、私がなによりもこの映画を観よう、と思ったきっかけになったのは、朝日新聞GLOBE+のインタビュー記事「LGBT理解の「同調圧力」超えて トランスジェンダー、サリー楓さんが父親に見た希望」でのサリー楓さんの以下のコメントが、とても印象的だったからだ。

 

「私はまだ理解できない」とはっきりと言ってくれたことが、何か父親としての責任を果たしているような気がして尊敬したし、うれしかったです。

でもそうはっきり言ってくれたことで、学び合える面もあると思うんですよ。私も色んな情報を提供したり、自分の気持ちを言えたりするので。

そこは何か、父親としての責任を果たしているような感じがして、うれしかったです。もちろん、受け入れてもらえるのが一番ハッピーエンドなんですが、でも世の中の「認めてあげないといけない」みたいなある種の同調圧力に乗っかって、表面上だけ親子を取り繕うよりはよかたったです。私にとってはかけがえのない財産になりました。(朝日新聞GLOBE+のインタビュー記事「LGBT理解の「同調圧力」超えて トランスジェンダー、サリー楓さんが父親に見た希望」

 

このコメントを見て、この映画はいわゆる「LGBT映画」みたいなものではなく、いろいろな意味で――企業への就職、トランスジェンダーとしての出発、そして「ミス・インターナショナル・クイーン」へのエントリーー今から「世に出よう」とするプロセス、社会という複雑に編み込まれたテクストの中に自分を位置付け、誕生させるプロセスを追った映画なのだろう、と思い、映画館に足を運ぶことにしました。

globe.asahi.com

 

想像したとおり、この映画を鑑賞したあとの印象は、私のなかで、朝井リョウ監督・脚本の『何者』に近く、「LGBT映画」というよりは「就活映画」でした。

 

『何者』をはじめ、「就活」をモチーフとした作品のなかでは、「何者かになること」「社会のなかで自分の位置を見出すこと」への苦難や葛藤が描かれるように、このドキュメンタリー映画のなかに描かれるサリー楓さんの葛藤や苦悩も、徹底的に「何者でもない/何者にもなれない」自分に向けられている気がします。

 

そしてその「何者でもない/何者にもなれない」自分が、「何者か」になる方法を求めて、とにかく必死で藻掻きながら、それでも、画面上にあらわれるサリー楓さんの表情は、いつも、同じ写真を見続けているかのように、ピッタリと変わらない同じ笑顔のままで、そのギャップに終始、ぞっとさせられました。

アニメーション《就活狂走曲》では、まさにピッタリと変わらないままの笑顔が、「就職活動」への皮肉として用いられ、その恐怖を描き出しますが、私には、映画中のサリー楓さんの笑顔が、そのようなものに見え続けていました。

 

 

 

それで、思い出したのが、本記事冒頭にも示したバトラーの言葉でした。

 

自らのジェンダーの演じ方を誤れば、露骨に、かつ遠回しなかたちで処罰を受けることになり、うまく演じれば、やはりジェンダーアイデンティティという実体があるのだと安心させることになる。(同上, p69)

 

本映画の英題は「You decide」です。

これは映画中、サリー楓さん自身のスピーチの中でも出てくる言葉で、自信を表明するような力強い言葉でもあるのだけれど、映画全体の文脈のなかでの「You decide」という言葉の意味を再度考えてみると、それは、「自らのジェンダーの演じ方は誤っているのではないか」という不安に裏打ちされた言葉なのではないか、と思えました。

決めるのは「わたし」ではなく、あくまで「あなた」なのだというメッセージは、そういう意味で、とても不安定です。

 

本映画の終盤に出てくる、はるな愛さんとサリー楓さんの対談は、それまで映画中に登場するさまざまな強さと弱さの揺らぎを、一息に貫きつつ、それすべてを包摂してしまうような、ものすごいパワーに溢れていて、まさに「圧巻」です。

そこに、答えがあるというわけではないのだけれども、少なくとも、ジェンダーを正しく演じることで既存のジェンダーアイデンティティを承認し続けること、でも、ジェンダーの演じ方を誤り処罰を受けることでもない、別の「第三の道」を探し求めることは可能であることを、示唆してくれるような気がします。

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塩田千春《記憶の雨》(金沢21世紀美術館