kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

高校生ウィーク アーカイ部「ひと・こと採集2017」

2017年4月9日。

早いもので本年度も水戸芸術館の「高校生ウィーク」が最終日を迎えるということで、今年も「高校生ウィーク」に参加された皆さまの生の声を、その場で「採集」すべく、カフェ会場(水戸芸術館現代美術ギャラリー内ワークショップ室)まで行ってきました。


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「高校生ウィーク アーカイ部」とは?

「高校生ウィーク」は、水戸芸術館現代美術センターの高校生無料招待月間から始まった、一連の教育プログラム。

高校生と同年代の人たちをメインターゲットにしたイベントやワークショップを開催していた期間を経て、2000年代後半からは、この1カ月の期間中、高校生や大学生を中心としたボランティア・スタッフによるギャラリー内カフェ(!)が開催されています。

 

私はちょうどカフェ・プログラムが始まって数年経った頃に、「高校生ウィーク」の存在を知り、初めは大学院生としてフィールドワーク調査のために、現在は、フィールドワーク調査で得たことなどを現場とつなげていく可能性を探るために、「高校生ウィーク」と関わり続けています。

 

「高校生ウィーク アーカイ部」は、私にとっては、フィールドワーク研究者としての私と、現場(フィールド)そのものをつなぐ試み。

「高校生ウィーク」30周年、カフェ・プログラム始動20周年を記念して始まった、記録と記憶のためのプロジェクト。

 

インタビューやアンケートなど、いろいろな「みんなの手と声で記録と記憶をつくる」活動を提案しながら、それを実現してきたわかですが、「高校生ウィーク」最終日に、現場での生の声を残そう!というこの試みも、「アーカイ部」メンバーの中から提案され、続けられてきたものです。

 

「開く」と「閉じる」のバランス

今年、はじめて「ひと・こと彩集」のインタビュアーを体験してみたのですが、はじめて体験してみて、わかることがたくさんありました。

 

今年度のカフェは、現代美術ギャラリーで行われている企画展「藤森照信ー自然を生かした建築と路上観察」との結びつきが強く、いつもはカフェ会場として区切られているところに、展覧会企画の一部である「たねや」の出張販売所があります。

また、その販売所が、水戸芸術館のテラスからも入れるようになっているため、外から一般客も来場できます。

 

「ひと・こと彩集」のインタビューの中では、このような状況で開催された「高校生ウィーク」について「いつもとちょっと違う」といったかたちで違和感が表明されることもありました。

 

社会人ボランティアの人たちや、たまたま来場していた「高校生ウィーク」OB・OGの人たちからは、「変わらないなぁ」「戻ってきた感じ」というような言葉のほうが多く聞かれたので、おそらく、「高校生ウィーク」に高校生や大学生として関わっている人たちのほうが、その“違い”を敏感に感じとっていたのかもしれません。

 

私は以前、「アーカイ部」のインタビューで、「高校生ウィーク」のこの場所のことを、「開かれつつ、閉じられつつある場所」

と表現しましたが、その意味でいえば、今年の「高校生ウィーク」は、“開く”方向にバランスが傾いていたのかもしれません。

 

閉じつつ開く。開きつつ閉じる。新しいコミュニティのかたち | 水戸芸術館 高校生ウィーク

 

 

しかし、“開く”方向にあったからこそできた、新たな試みのようなものもありました。

その象徴ともいえる存在が、この漆喰の作品。


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これは、「高校生ウィーク」カフェ会場が開かれたあと、会期の最後の方で制作されたようですが、カフェ会場の設えをみんなで作っていく…みんなの手で会場ができていくという試みは、初めての試みであったようです。

 

このような試みも、企画展との関係で行われていたことを思うと、あらためて“開く”ことでできる可能性を感じます。

 

“開く”ことと“閉じる”ことのバランスの取り方について、あらためて考えさせられます。

 

「高校生ウィーク」から離れたカフェのゆくえ


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“開かれた”カフェは、「高校生ウィーク」終了後も、展覧会会期終了まで継続して開かれるそうです。

 

「高校生ウィーク」が終わっても続く、同じ場所で開かれるカフェ。

それは、「高校生ウィーク」でカフェ・プログラムをはじめた初めの世代の人たちにとっては、まさに、当時、望んでも得られなかった当のものであるように思います。

その世代のOB・OGたちが、「高校生ウィーク」期間終了後のカフェをどのように思っているのか、そして、実際に「高校生ウィーク」から離れたカフェがどのようなものになるのか。

 

そのことに、今、とても興味があります。

少なくとも、今年、「高校生ウィーク」はいろいろな意味で、転換点を迎えていたように思います。

 

来年はついに、「アーカイ部」も5周年。

この機会に、この転換点がどのようなものだったのか、をみんなで考えられる企画ができるといいですね。

『〈教師〉になる劇場』:教師教育×演劇のこれまでとこれから

 ようやく、川島裕子(編)『〈教師〉になる劇場—演劇的手法による学びとコミュニケーションのデザイン』(フィルムアート社)を読み終えました。

 

学術書の中には、「これだけの人たちが集まってひとつの書籍の中に論考を収めていること自体がすごい!」と思わせるような本があるけれど、これは間違いなく、その中のひとつ。

 

こちらの出版社のページで目次を見ることができるけれども、「教師教育×演劇」(あるいは「学校教育×演劇」)というテーマで、これだけ多くの研究者(演劇学、音楽学から演劇教育、教科教育など多岐にわたる研究者が集まっているというだけでなく、それぞれの研究者の方の専門分野も幅広い)が集まり、それぞれに論考を書き、それがひとつの書籍の中におさめられているということが、まず、すごい!と思いました。

 

filmart.co.jp

 

多岐にわたる研究分野の研究者が集まり、ひとつのテーマに関わって寄せた論考をすべて読み通して、あらためて、この分野の研究がまだ始まったばかりで、未整理な部分が多いことがわかりました。

 

特に考えさせられたのは、中島裕明「演劇とコミュニケーション」。

 

この論考では、まず、パーソナル・コミュニケーションからマス・コミュニケーション、そして近年のデジタル・コミュニケーションまで、「コミュニケーション」には様々な領域・レベルがあること、また、「演劇」も同様に、舞台上での役者同士の演技におけるコミュニケーションから、社会文化的なレベルでのコミュニケーションまでさまざまなレベル・領域でのコミュニケーションがあることが確認され、その上で、現在、学校教育において涵養されるべきとされる「コミュニケーション(能力)」やそれに対して用いられる演劇的手法が、かなり限定されたものであることが述べられ、広大な広がりを持つ「コミュニケーション」「演劇」の全体像のなかで、演劇的アプローチによるコミュニケーション教育が捉えられるべきであるという主張がなされています。

 

この論考では、さらに、現在までに行われてきた「教育の場における演劇」にどのようなものがあったのかが示され、そのうえで、下記のような、演劇研究への問題提起がなされています。

 

学校教育の中で演劇的活動を採用しようとする場合、演劇実践の具体的内容がどのような特性を持っているのか、どのような活動を構想した場合、そこに関わる者たちがどのような時間を過ごすのか、ということを説明する責任は、演劇研究の側にある。(中島, 2017, p106)

 

ここで、演劇研究の責任として述べられていることは、演劇と教育に関わる実践に関わってきた研究者の責任に敷衍しても良いのではないか、と考えます。

 

私は、演劇と教育に関わる理論や実践を俯瞰して述べられるほど、その分野に精通しているわけではありません。

でも、少なくとも、これまで私の研究の中で必要とされる範囲でいえば、以下の2つについて十分な情報を得ることのできる実践報告や調査研究は、またまだ不足しているように思います。

 

①その実践の具体的内容がどのような特徴を持つのかを、その場に居ない者が議論できる程度に十分な質をもった記述

 

②その実践に関わる者たちがどのような経験をしたのかを知り得るような質的・量的な調査

 

しかし、本書に収録されている論考の中には、この①の方向性での記述を開拓しようとする試みも見られ、このような試みの記述のありかたを考えるための、大きな示唆を得ました。

 

演劇と教育に関わる実践の記述のあり方の検討も含め、本書が導き出した課題、今後さらに議論すべきポイントは多々あるように思います。

その課題や論点を引き続き、議論をはじめ、継続し、蓄積していくことは、本書の読者である私たちの役割でもあるのでしょう。

 

本書を読み終えて、あらためて、この本を関心あるメンバーで集まって読み、議論することの意義を感じました。

 

インプロで遊ぶ、リフレクションと遊ぶ―インプロ×リフレクションの可能性

あるといいながある!横浜share's主催のインプロ×リフレクションのワークショップに参加してきました。

yokohamashares.hatenablog.com


上條晴夫先生によるレクチャーの後、インプロパーク・「すぅさん」こと鈴木聡之さんによるインプロワークショップ。

そしてそのあとに50分~1時間近くをかけて「金魚鉢」方式でのリフレクション。

私にとっては、午前午後と、インプロ→リフレクションを2回繰り返すことで、インプロ×リフレクションの組み合わせによって実現しうる学習のありかたを探っていく時間となりました。

 

 

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今回のワークショップを通じて、あらためて、「リフレクション」ついてあらためて考える機会になりました。

 

正確にいうと、自分自身がこれまでにぼんやりと抱いていた「リフレクション(省察)」やそれをベースにしたアプローチへの違和感が、自分の中ではっきりしてきたように思います。

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教育情報化のための政治的・法律的環境

先日、8月末に文部科学省初等中等教育局長から、各教育委員会に向けて「教育情報化の推進に対応した教育環境の整備充実について(通知)」と題した通知が発信されました。

ictconnect21.jp

 

本通知では、8月26日に中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会から、次期学習指導要領に向けた審議のまとめ(案)が出されたこと、本案のなかで、「ICT環境も含めた必要なインフラ環境の整備を図ることが重要である」とされていることに触れながら、その一方で、地方公共団体間の整備状況の差がますます拡大しており、このままでは教育格差が生じかねないという懸念が示されています。

 

事実、同じく8月に公開された「学校における教育の情報化の実態に関する調査:平成27年度結果概要」では、①学校におけるICTの整備状況と、②教員のICT活用指導力について、各自治体ごとの取り組みの実態が数値化して示されているのですが、概して、人口規模の小さな自治体では比較的取り組みが進んでいるのに対し、人口規模の大きな自治体では、あまり取り組みが進んでいない状況が見てとれるように思います。

ictconnect21.jp

もちろん、「1人1台タブレット」「1人1台教育用コンピューター」の理想を考えれれば、小規模な自治体ほど、その実現に手が届きやすいということもあるのかもしれません。

ハード面の整備についていえば、大規模な自治体、大規模な学校ほど、児童・生徒全員をカバーしうるような教育環境の整備が難しいという現状はあるでしょう。

 

しかし、問題になっているのは、果たしてハード面だけなのでしょうか?

今回公開された速報値からは、ハード面のみならず、ソフト面の問題も見えてきているように思います。

特に、②教員のICT活用指導力に関する項目が、①と連動するような状況であることは、教育情報化の取り組みにおける格差が、単に、予算等の関係からハード面の整備が「行き届かない」という問題のみではないことを物語っているように思います。

 

その根底には、教育の情報化に関する想像力の欠如、

あるいは、想像しようとすることそのこと自体への忌避感があるように思います。

 

このことについて、今年の8月、ある高校の校内研修会で、「授業におけるICTの利活用」についてお話しした際に考えることがありました。

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教員免許更新講習「やってみよう!国語科におけるICT教育」

本年度から、教員免許更新のための講習として、「やってみよう!国語科におけるICT教育!」という科目を担当することになりました。

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小学校・中学校の先生方を対象とした講習で、「授業でICTを利活用すべし」という声があることも知っているし、なにか使ってみたいとは思っているけれど、具体的にどのように使っていけばいいのか手がかりが得られない…という方に向けた講習(のつもり)でした。

 

しかし、実際に講習がはじまってみると、そこにいらっしゃる方の「ICT活用度」は本当にさまざま。「なんでこの講座を受けようと思ったんだろう…?」というくらい、ICTを使いこなしていると思われる方もいれば、キーボードの文字入力ひとつひとつにも困難を覚えていらっしゃる方までいらっしゃいました。

 

そんな「ICT活用度」に大きな差がある参加者をお迎えした講習でしたが、それでも、やっぱり、皆さんと一緒に、なにか、ICTを使った表現・交流活動を行ってみたい!ということで、「NHKクリエイティブ・ライブラリー」を活用したICTによる表現活動とその交流を行ってみることにしました。

今回とりあげたテーマ活動はこちら

www1.nhk.or.jp

 

5~6人のグループになって、グループで「百人一首」の歌を一首選んでいただき、グループのメンバーそれぞれに、百人一首動画を作成してもらいました。

反転する「イチゴの日」-筒井康隆×いとうのいぢ『ビアンカ・オーバースタディ』-

2016年5月に、筒井康隆×いとうのいぢビアンカ・オーバースタディ (角川文庫) 』が文庫版で発売されました。

www.matolabel.net

ビアンカ・オーバースタディ (角川文庫) 』といえば、『ファウスト Vol.7 (2008 SUMMER) (7) (講談社MOOK) (講談社 Mook) 』(2008年)に本小説が掲載された際、表紙に文学史上の“事件”が発生」という文字が踊るほどのインパクトを残した作品。 

 

2012年には、星海社から『ビアンカ・オーバースタディ (星海社FICTIONS) 』が発売され、発売1ヶ月を待たずに3刷を重ねる売れ行き(!)であったことがちょっとした話題になりました*1

matome.naver.jp

こんな話題のライトノベルですので、2013年に発売された『ライトノベル・スタディーズ 』にも「文学史上の“事件”ー筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』」と題されたコラムも掲載されています(265-266頁)。

もちろんオンライン上でも、さまざまな書評やレビューをみることができ・・・、そのような意味ではまったく、今さら述べるところのないライトノベルなのですが、ここでは少し違った観点から、この作品についてレビューを書いてみたいと思います。

book.asahi.com

www.excite.co.jp

*1:もちろんもともと何部印刷してあったのか、という疑問は残ります。星海社ですし、もともと1刷でそれほど多くの部数を印刷したわけではないのではないでしょう・・・と推測。

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クィアなテクストをクィア読みして「ストレート」にする―谷川俊太郎「きみ」―

 昨年の夏頃、「児童文学におけるセクシュアル・マイノリティ」について考えたいと宣言し、その後、さまざまな方がたと、「児童文学における性(セクシュアリティ)」や「児童文学に登場するセクシュアル・マイノリティの描かれ方」についてお話する機会がありました。

 

kimilab.hateblo.jp

そのような時、ある方から、『はだか―谷川俊太郎詩集』(筑摩書房)に収録されている詩「きみ」をおすすめいただいたきました。

www.chikumashobo.co.jp

その方によると、どうやら思春期におけるホモホモしい気持ち(?)が描かれている詩であるとのこと。そしてそのことについて、谷川さんご詩人が『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』の中で語られているとのことでした。

…それは、すごい!

 

というわけで、遅ればせながら『はだか』と『ぼくはこうやって詩を書いてきた』を取り寄せて、読んでみました。

谷川俊太郎きみ」は、中学・高校の合唱曲にもなっているようで、オンライン上で動画を見ることもできるようです。

 

冒頭にある…

きみはぼくのとなりでねむっている

しゃつがめくれておへそがみえている

ねむっているのではなくてしんでるのだったら

どんなにうれしいだろう

 

…を読んだ時点で、ぐっと「少年愛」的世界*1に引き込まれるのはわたしだけではないはずだ!…と信じたい。

 

そしてラスト!

 

ふたりとももうしぬのだとおもった

しんだきみといつまでもいきようとおもった

きみととともだちになんかなりたくない

ぼくはただきみがすきなだけだ

 

…に至っては、もう圧巻すぎて言葉を失いました。ジルベール!!

 

*1:もちろんこの時点では(というかこの詩全体として)性別はわからないという読み方もできると思います。

わたしは、冒頭の「きみ」「ぼく」だけで、少年同士の関係性を想起したということです。これについて谷川俊太郎さん自身が「だって『きみ』って、男の子のことでしょう。」(『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』402頁)と言っているので、おそらくそんなに外れていなかったのだと思います。

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