kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

インプロで遊ぶ、リフレクションと遊ぶ―インプロ×リフレクションの可能性

あるといいながある!横浜share's主催のインプロ×リフレクションのワークショップに参加してきました。

yokohamashares.hatenablog.com


上條晴夫先生によるレクチャーの後、インプロパーク・「すぅさん」こと鈴木聡之さんによるインプロワークショップ。

そしてそのあとに50分~1時間近くをかけて「金魚鉢」方式でのリフレクション。

私にとっては、午前午後と、インプロ→リフレクションを2回繰り返すことで、インプロ×リフレクションの組み合わせによって実現しうる学習のありかたを探っていく時間となりました。

 

 

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今回のワークショップを通じて、あらためて、「リフレクション」ついてあらためて考える機会になりました。

 

正確にいうと、自分自身がこれまでにぼんやりと抱いていた「リフレクション(省察)」やそれをベースにしたアプローチへの違和感が、自分の中ではっきりしてきたように思います。

その違和感とは何か。

 

それは、「リフレクション」をベースにしたアプローチが、「リフレクション」を、活動の外側に置いている(ように見える)ことへの違和感です。

 

もちろん、リフレクションに基づくすべてのアプローチがそうだというわけではないでしょう。

 

現在いたるところで謳われている「反省的(省察的)実践家としての教師」の理論的根拠となっているのは、ドナルド・ショーンの著作(『省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行為と思考』、『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』)だと思いますが、それらの著作を見る限り、ショーンは、むしろ、活動の中での即興的なリフレクションに焦点を当てているように見えます。

 

けれども、コルブの「経験学習サイクル」論に基づいてワークショップ等の学習の場がデザインされる場合、そこで求められるリフレクションは、活動の中での経験の外側に置かれる傾向にあると思うのです。

 

(これら経験学習についての、いくつかの潮流については、中原淳研究室のブログ記事「経験学習の中身を探る」がわかりやすかったです)

 

 わたしは、「リフレクション」そのものもひとつの活動に過ぎず、どちらかが「俯瞰的(鳥瞰的)」で、どちらかが「状況的」であるという分け方には、あまり意味がないという立場です。

以前、ブログに書いたこともありますが、現場で行われている状況的な実践を俯瞰し、鳥瞰的な視点から見ると思われている実践も、実はとても状況的なものであった…というサッチマン&グッドウィンの「コーディネーション・センター」の分析がとても大好きで、この知見がいまだにわたしの根幹にあるのだと思います。

 

kimilab.hateblo.jp

 

今回のワークショップについていえば、「インプロ」もひとつの状況的実践だし、「リフレクション」もひとつの状況的実践である、とわたしは思います。

その2つの状況的実践が組み合わされたときに、さらにすべての参加者がそれら2つの実践を横断するときにどのような学習が生起するのか…という点には、もちろん関心がある。

だけど、「リフレクション」があたかも「インプロ」での経験の外側にあるもので、そこでの経験を俯瞰的に見るものなのだという位置づけであるように見えたので、そこに大きな違和感を感じたのでしょう。

 

「リフレクション」もひとつの状況的実践だと捉えれば、個人の発達・学習につなげるようなリフレクションではなく、みんなで発達・学習する場を作り出すためのリフレクションのありかたが追及されていくべきでしょうし、おそらく、そうなったときには、「理論(大文字の理論)」の位置づけも、まったく異なるものになっていたのではないか、と考えます。

 

昨年、キャリー・ロブマン&マシュー・ルンドクウィスト『インプロをすべての教室へ 学びを革新する即興ゲーム・ガイド』が発売されたときに、たまたまわたしが翻訳にあたっていた第4章の下記の文章を読み、(翻訳しているときに読んでいるはずなのに)あらためて触発されました。

 

一方、私たちは、教師たちがより広い意味でいうところの即興能力を発達させることで、読み書きの指導が有益なものとなるであろうとも信じています。

新しいカリキュラム、教育方法、子どもたちに読むことを教えるための最善な方法に関する指示が、しばしば教師に突きつけられます。私たちは、子どもたちに読み書きを教える、ある特定の指導技術に賛同するわけではなく、教師が行うよう求められていることに対するインプロ的な応答が存在すると信じているのです。(p.76)

 

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教育に関わるさまざまな「理論(大文字の理論)」というものが、ここで述べられているような、「新しいカリキュラム、教育方法、子どもたちに読むことを教えるための最善な方法に関する指示」と同等のものであるとするならば、私たちはそれと遊ぶ(play with)ことができるはずです。

リフレクションが、「理論(大文字の理論であれ、小文字の理論であれ)」と「実践」とをつなぐものとして想定されているのであれば、その2つの境界を反転させたり、融解させたりするような「遊び」の場としてのリフレクションを作り出せないか。

そんなことを考えました。