kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「Tokyo Art Research Lab」初年度成果レポートに寄せて(2011年3月)

「東京アートポイント計画」のスタッフの方々より、インタビューの依頼を受け、アーツカウンシル東京ROOM302まで、行ってきました。

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わたしは、2009年度~2010年度、東京文化発信プロジェクト(公益財団法人東京都歴史文化財団)だった頃の、「東京アートポイント計画」立ち上げメンバーだったので、「東京アートポイント計画」草創期の話を聞かせてほしい、というご依頼でした。

 

とはいえ、かつての一緒にデスクを囲んでた大内さんも、坂本さんも、「東京アートポイント計画」で働いていらっしゃるし、アートプロジェクトのための評価のフレームを一緒に考えてきてくれた(と、わたしは思っている)佐藤李青さんもいらっしゃるので、わざわざわたしが出向いて話せることなんて、ほとんどなかったように思います。

 

そんなわけで、ただただ、楽しかっただけの時間で終わってしまいましたが、ひとつ、とてもうれしいことがありました。

 

「Tokyo Art Reserach Lab」の独自サイトへの移行や、東京アーツカウンシルHPへの移行の中で、消えてしまったと思っていた、わたしのテキストを、見つけていただくことができました。

このテキストは、香川秀太・青山征彦(2015)『越境する対話と学び:異質な人、組織、コミュニテイをつなぐ』(新曜社)に掲載されているわたしの論文「密猟されるオープンソースとしての「共通言語」─「Tokyo Art Research Lab」における実践のデザイン」 の考えのもとになったテキストであり、わたしが、「東京アートポイント計画」スタッフ時代に、自分自身の名前で書いた数少ないテキストのひとつだという意味で、とても大切なテキストなんです。

この他には、『アートプロジェクトを評価するために:評価ゼミ|レクチャーノート』に書いた1頁の原稿と、ブログ(笑)のみだったと思います。

 

  

 

そして、何よりも、2011年3月に起きた東日本大震災の直後に、自分自身の生活も、引っ越しの準備もままならない中、混乱を極める他のさまざまなコーディネーションをこなしつつ、その空き時間を見つけながら、「今、自分にできることは、自分が見てきたことを残すことだけだ」という必死の思いだけで書いた原稿なんです。

 

それが、こうして、またわたしの手元に戻ってきてくれたことが、うれしい。

そして、そのときのわたしの言葉を、こうして、皆さんにまた開いていけることが、うれしい。

 

もちろん、5年以上前のわたしは、研究者としても中途半端である上に、アートプロジェクトの世界についても、ようやく初級の言葉がわかり、なんとかコミュニケーションができるようになった…という段階なので、この原稿も、その未熟さをそのまま、反映している。

 

それでも、実践の現場に関わりながら、研究者としての視点を忘れないでいようとし続けたわたしの言葉には、意味がある、といまでも思う。

 

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動物たちとクリスマス~東武動物公園クリスマス・イベント~

お題「Merry Christmas!」

何年かぶりに、まったく仕事のない12月24日を確保できたので、「行ってみたい」と言いつつ行ったことのなかった東武動物公園に行ってきました。

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この時期の東武動物公園といえばウィンターイルミネーションが有名(?)らしく、「東武動物公園ウインターイルミネーション2017-2018:東武動物公園」の特設サイトができ、イルミネーション用の特別チケットが発売されたりしているようです。

 

たしかに、広大な敷地をあますところなく使ったライトアップ&イルミネーションは、なんともいえない味わいがあります。

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個人的には、やはり、遊園地のライトアップが好きですね。

あまり新しくない…見方によっては、多少、"廃墟"的な雰囲気すら感じられる遊園地なので、幻想的な雰囲気が味わえます。

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そして、クリスマスの日には、動物園エリアでもいろいろなイベントが開催されていたのに、東武動物公園のページを見たところ、まったくそんな情報が掲載されていなかったので、残念!

 

この日には、スペシャル・イベントとして、動物のパレードがあり…

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動物園の夜間開放ありで、動物園のクリスマス・イベントとしては見どころ満載でした。

 

こちらは、ライトアップされる皇帝ペンギン(王者の風格)。

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そしてこちらは、夜になってようやく動き出したビーバー(夜行性)。

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はじめて行ってみましたが、大人でも一日楽しめるなかなかステキなところでした。

最後に、今回一番ショックをあたえた、ジレンマのないヤマアラシ

ヤマアラシのジレンマ」とはいったい何だったのか…。

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思考によるリフレクション/身体によるリフレクション~上條晴夫『実践・教育技術リフレクション あすの授業がうまくいく〈ふり返り〉の技術(1)身体スキル』~

東北福祉大学の上條晴夫先生から、『実践・教育技術リフレクション あすの授業が上手くいく〈ふり返り〉の技術 (1) 身体スキル』(合同出版)をご恵投いただきました。

 

 

「あすの授業が上手くいく」という、教育技術のマニュアル本によくあるフレーズと、「リフレクション」「振り返り」という言葉が共存していることの奇妙さに、違和感を感じつつ、一方で、そういったディスコースの矛盾の中に、未来の可能性を見出してきた者の一人として強く興味を惹かれ、さっそく読んでみました。

 

すべてを読み通してみて、この書籍自体が、試行錯誤のプロセスの中にあるものだという印象を受けました。いただいた添書の中にも、本書が実験的な試みとして作られている旨が記載されていたけれども、まさに、ひとつの試行・実験として、世に出された本だという感じがします。

 

そんな本書の実験の中で、興味を惹かれたのが、読者自身に、自身の実践の「リフレクション」を促そうとする部分。

本書の中では、教師に求められる「身体スキル」を8つに分類し、それぞれのカテゴリーに分類された各スキル(例:「共犯関係をつくりだす」「フォローの技を磨く」など)に対して、

「思考でリフレクション!」

「身体でリフレクション!」

…という、2つのタイプの「リフレクション」が求められるようになっています。

 

面白いのは、後者の「身体でリフレクション!」があるというところ。

これまでも「振り返り」「リフレクション」の大切さは何度も繰り返されてきたけれども、そのときに重視されるのは、どちらかというと認知的な部分(「思考でリフレクション」)であったように思います。

それに対して、身体的な感覚や感情を用いて振り返ることを、このような教育技術マニュアル本の中に入れ込んできた(!)ところが面白いです。

私は以前、コルトハーヘン『教師教育学:理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ』学文社)を読んだ際、「ALACTモデルにおける第2局面で有効な具体化のための質問」に、「あなたはどう感じたのですか?」「生徒たちはどう感じたのですか?」という、感情について振り返りが入っていることに、とても感銘を受けました。

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今回の本書の試みは、そのような感情についての振り返りを、教育技術マニュアル本の中に盛り込んでいこうとする試みなのかもしれません。

 

一方、せっかく「身体でリフレクション!」として紹介されているにも関わらず、認知的な振り返りにとどまるような問いかけになっている(と思われる)ものもけっこうあり、それが残念なところでもありました。

それは、もちろん、身体的・感情的にリフレクションをする、ということが、マニュアル化しにくいことの証でもあるように思います。そういう意味では、身体的・感情的にリフレクションをするための問いのありかたについて、本書から考えさせられる部分は、とてもたくさんありました。

 

たとえば、「一緒にゲームを楽しむ(スキル5-4)」(pp.72-73)の「身体でリフレクション!」は次のようなものです。

 

① あなたは、子どもと一緒に学ぶことを十分に楽しんでいますか?

② あなたは、子どもと一緒に学びの「フロー体験」をしていますか?

③ あなたは、子どもと一緒に学びの達成感を得ていますか?

 

これらの問いは、自分が授業のなかで感じていた自分の身体のありかた、感情の動きのようなものを見つめなおすきっかけとして機能してくれるように思うのです。

授業後に、自分を振り返ってみたときに、「今日の授業は、(子どもたちは楽しんでいたけど)私は完全にサーバント(servant)だったな」とか、「今日は、みんなで一緒に学んだー!って感じがしたな」とか、考えるときがあるけれど、まさにそれを引き出してくれる問いだという感じがする。

 

一方、その直前にある「チューニングをする(スキル5-3)」(pp.70-71)の「身体でリフレクション!」には、次のように書かれています。

 

① あなたは、子どものファッションに関心を向けていますか?

② あなたは、子どもの「エンタメ」行動に関心を向けていますか?

③ あなたは、子どもの人づき合いの仕方に関心を向けていますか?

 

たしかに、子どもの表現に「チューニング(同調・調律)」していくために、これらのようなことを普段から意識しておくことはとても大切だとは思うのですが、これらが「身体でリフレクション!」するための問いかけになっているだろうか…と考えると、少し疑問です。

「チューニングできた!」「チューニングがうまくいかない!」という感覚は、身体的・感情的な現象なので、その部分にフォーカスしないで、それがしやすくなるための条件の部分を問いかけても、「チューニング」の経験には迫れないような気がするのです。

逆にいえば、子どもたちのファッションや「エンタメ」行動、人付き合いの仕方に関心を向け続けていたとしても、〈いま・ここ〉の場で、チューニングしようと意識し、身体を意図的にオープンな状態にしないと、チューニングはできないのではないか?と思うのです。

 

上條先生には、今年の8月20日に、夏休みお試し版「即興×リフレクション体験会」を横浜国立大学にて開催していただいました。

 

aosenn.hatenablog.com

ameblo.jp

 

その時に、「即興×リフレクション」体験会での、リフレクションの際のポイントを実行委員の皆さんが考え、言語化されていたのですが、このようなポイントの提示のありかたが、身体的・感情的な振り返りを促していくためのひとつのヒントになるような気がしています。f:id:kimisteva:20170820094358j:plain

そのような意味では、同じく8月に行われた国際ワークショップ「パフォーマンス心理学の未来」を踏まえてこの日に行うことになった、「演じるリフレクション」が本書の中で紹介されているにもかかわらず(p.121)、この日に共有されていたこれら3つのリフレクションのポイントが触れられていなかったのは、ちょっぴり残念でした。

 

① 学び手としての自分の実感を語りましょう。

② 生まれたての言葉で語りましょう。

③ 一緒に意味を作ってみましょう。

 

「即興×リフレクション」体験会では、さまざまな「即興」や「リフレクション」の在り方が紹介されていましたが、その多様な「リフレクション」に通底するポイントとして、これら3つのポイントが導き出されていたのだとしたら、私たちはこれをもとに、「リフレクション」のありかたを考えていくことができるのではないか?とあらためて思いました。

 

たまたま噂で耳にしたのですが、現在ふたたび、「即興×リフレクション」のイベントの企画が動き出しているようです。

次回の開催も楽しみにしています!

アイデンティティのブリコラージュ―横浜吉田中学校DSTプロジェクト

お題「最近気になったニュース」

*1

 

2017年12月19日の東京新聞に、横浜吉田中学校でのDST(Digital Story Telling)プロジェクト記事が掲載されたとのお知らせをいただきました。

www.tokyo-np.co.jp

横浜吉田中DSTプロジェクトは、横浜国立大学で学んでいる留学生や日本人学生がサポーターとなり、横浜吉田中学校に在籍する外国につながる生徒たちの語りをともに生成し、彼らのストーリーを、映像作品(=デジタル・ストーリー)にしていくプロジェクト。

このプロジェクトの作品上映会が、12月9日に、横浜吉田中学校にて開催されたのですが…

このたび、私、幸運にも、その上映会に参加することができました!*2に、共同研究メンバーとして参加しているためです。上映会は広く公開しているわけではなく、学校の関係者やプロジェクト関係者、保護者の方のみをお呼びして小さなかたちで行われているようでした。))

 

DSTについては、これまでも、メディア・リテラシー教育の観点から関心をもっていたのですが、今年度に入って、小川明子(2016)『デジタル・ストーリーテリング:声なき想いに物語を』(リベルタ出版)を読んで、あらためて、自分自身の研究的な関心との接点を見出したり、

 

環境学習と創作支援グループ「耕す人々」で、DSTプロジェクトに取り組んでいる池田佳代さんによる研修会に参加させていただき、その「市民メディア」としての可能性について考えたり…といったことがあり、

tagayasuhitobito.jimdo.com

今回の横浜吉田中DSTプロジェクトでどのような作品が制作されるのか、上映会はどのような雰囲気の中で行われるのかに、とても関心がありました。

 

そんな期待を膨らませながら、当日、横浜吉田中学校に行ってみたわけですが…

上映会は、わたしが想像していたものとは、まったく異なっていました!

 

たとえば、東京新聞の記事中には、次のような上映作品のエピソードが紹介されています。

制作した映像は二分程度。大学生と一緒にストーリーを考え、それに合った写真を探したり、新たに撮影したりした。写真はタブレット端末に取り込み、生徒がナレーションを吹き込んだ。一月に中国福建省から来日した林盛(リンセイ)さん(14)は「最近あまり連絡を取れないから」と、中国に残る友人の写真で映像を作った。「日本語は苦手。でも大学生と交流でき、楽しかった」と笑顔だった。

この記事だけ読むと、林盛(リンセイ)さんが、自分がすでに持っていた友人の写真(とそれに関連した写真)を使って、デジタル・ストーリーを構成したように読めますよね。

わたしも、実際に、そういうイメージを持っていたんです。

ストーリーの語り手がすでに持っている写真や、語り手の思い出に関するモノを新たに撮影したものを中心に、デジタルストーリーが構成されるんだろう…って。

 

でも、全然、違いました。

いや、もちろん、そういう写真も使われてはいるのですが、それと同じくらい…いやそれ以上に、ポピュラー・カルチャーや、デジタル・カルチャー系の画像が多い!!

自分の写真、友達や家族の写真にしても、写真加工アプリ「SNOW」で撮影された、加工写真だし。

toyokeizai.net

東京新聞の記事にも紹介されていた、林盛(リンセイ)さんが、離れ離れになってしまった中国の友人との"距離感"を表すために使われた画像は、Google Mapだし。

おそらく著作権に配慮してのことだと思われますが、「いらすと屋」ワークが炸裂していたものもあり、個人的にはそれも面白かったです。

matome.naver.jp

そしてもちろん、ゲームや、マンガ、アニメ、アイドル(K-POP!)などの、ポピュラー・コンテンツもたくさんあり、作品上映後のディスカッションでは、参加者たちが、自分たちの「推し」を語り合う場面も…(むろん、わたしも参戦!)

 

そんな中学生たちのデジタルストーリーの作品群を見ていると、

彼らが、今、生きている日本の横浜という場所で、自分の「好き」を見つけたり、そこから自分の立ち位置を見出したり、自分のルーツや未来とのつながりを思い描いたりしている様子が、わたしにも、なんとなく伝わってくるようで、

「わかる、わかる!EXO、サイコーだよね!」などと、ウンウンうなづいたり、大笑いしたりしながら、とても幸せな時間を過ごしました。

 

最近読んだ、『ニュースウィーク日本版』の記事「「見た目外国人」の日本人親子を苦しめる誤解 」では、日本の「単一民族神話」のなかで、受け入れられない、外国にルーツをもつ子どもの現状が報告されていました。

また、『WIRED』の「多言語の家庭で育つということ:シリーズ「ことばとアイデンティティ」]の記事では、「自分らしく生きていくための言語」という小見出しで、次のような文章がありました。

 

自分らしく生きていくための言語


国籍もばらばら、家族のかたちもばらばらの4組。どこへ行っても「どこから来たの?」と問われる彼らの心中は計りしれない。どの家族も、家庭環境に応じていちばん見合う言語を家族間の共通言語にしている。また、家族間に言語の壁を生じさせないように、意識的にバイリンガルトリリンガルになっているようだ。彼らの証言からわかることは、幼いころから「国籍」と「言語」と「アイデンティティ」を考えざるをえない状況のなかで、言語とともにコミュニケーション能力を身につけ、日本にいながらその枠にとらわれずに生きているということだ。 

 

どちらも、今年12月に入ってから発表された記事です。

そして、横浜吉田中DSTプロジェクトの記事が、東京新聞に掲載されたのも、12月19日。

 

今年に入ってから、5月に行われた全国大学国語教育学会での公開講座「インクルーシブ教育とアクティブラーニング~多言語・多文化と授業づくり~」を皮切りに、多言語・多文化と関わる機会がますます多くなりました。

12月に入ってから目にするこれらの記事は、今後、ますますこの問題が大きな問題となっていくことを予測しているような気がします。

 

*1:f:id:kimisteva:20170830143105j:plain写真は、宮城県石巻市街地にあったグラフィティ

*2:私が上映会に参加できたのは、今年度から、横浜国立大学の学内プロジェクト「外国に繋がるこども・若者との共生社会教育研究モデル『ヨコハマ−神奈川モデル』の確立に向けたネットワーク構築」事業

相鉄グループ100周年「いま、むかし、みらい大相鉄展」

12月16日から12月25日まで、横浜高島屋で開催されていた、相鉄グループ100周年記念展「いま、むかし、みらい大相鉄展」に行ってきました。

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相鉄といえば、12月中旬に、相鉄・JR直通線の新駅名称「羽沢横浜国大」駅が発表され、話題になったばかり。

trafficnews.jp

「羽沢横浜国大」駅という名称だからなのか、なんなのか、完成イメージ図に、横浜国大生らしき人が描かれている!という噂があったりなかったり…

そんな未来の新駅を思い描きつつ、相鉄社員さんによる「いま、むかし、みらい」を合体させたジオラマ(!)を観に行ってきました。

www.sankei.com

www.tokyo-np.co.jp

 

ジオラマのみ撮影可能ということだったので、撮ってきた写真をいくつかご紹介します。

 

まずは上星川」の7号踏切

私たちが日常生活を行っている、その土の下で未来への胎動は始まっているのです。

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こちらは、「星川」駅の高架化工事ですね!

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これは…未来なんですかね。

未来にあると、そうニャンが人間界に侵食してくるよ、という警鐘なんでしょうか…恐ろしいですね。

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産経新聞の記事によると、終点の海老名駅周辺のジオラマが、まだ未完成で、「次は小田急線と並んで海老名駅に車両が入る光景を作成したい」とおっしゃっているとのこと。

海老名駅のどのようなシーンを、空想的(妄想的?)に表現してくださるのか、今からちょっと楽しみです。

ラブマネージャー研修会@よりみちベース

横浜国立大学&処デザイン学舎「外国に繋がるこども・若者との共生社会教育研究モデル『ヨコハマ−神奈川モデル』の確立に向けたネットワーク構築」事業の協働企画として、横浜・関内にある「よりみちベース」で、下記の企画を行うことになりました。


わたし”と“あなた”が出会うという冒険~ポリアモリー(複数愛)から「愛すること」と「家族」について考える~

日程:2018年2月18日(日)(予定)

会場:よりみちベース(JR関内駅南口徒歩2分)MAP

横浜国立大学&処デザイン学舎による協働企画では,国籍を問わず「学び合う」環境を創出することにより,自分たちの文化や自分とは異なる文化について新たな視点から考えるためのきっかけとなるような学びの場を作り出すことをねらいとしています。(前回のイベントの情報はこちら
このたび本企画のひとつとして,米国・ロサンゼルス在住のポリアモリー生活者のフィールドワークに基づいて制作された2つの作品をもとにしたイベントを開催することになりました。戯曲『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』のリーディングと,人生ゲーム「THE GAME OF POLYAMORY LIFE」のゲームを通じて、自分とは異なる「愛」や「家族」のありかたと出会い,自文化における「愛」や「家族」について考えていきたいと思います。

リーディング会を聞いてみたり、自らリーディングをしてみたり、ゲームに参加してみたり…ご自身のお好みのスタイルでご参加いただけます。ぜひおいでくださいませ!

 

KAAT(神奈川芸術劇場)で上演された『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』については、以前、このブログでもレポートしました。

kimilab.hateblo.jp

 

この上演を 見た直後、会場で販売されていた戯曲『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』を入手。

「性の多様性」について研究している学生がいることもあり、研究室で、学生たちとたまにその戯曲を読んだり、それについて話題にすることが多かったのですが、ついにそのリーディング会を開催できることになりました!

 

また、リーディング会の他に、長島確のつくりかた研究所・「エスノドラマ研究室」の研究成果(?)として、「だれかのみたゆめ 展示と実演」(2014年12月20日・21日)にて展示・実演されていたゲーム「THE GAME OF POLYAMORY LIFE」のゲームプレイ会を実現できることに!

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先日、12月9日には、2月のイベントでゲームプレイ会を実現すべく、「ラブマネージャー」(「THE GAME OF POLYAMORY LIFE」のゲームマスター/ファシリテーター)の研修会を開催いたしました。

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「評価」と「批評」―『グローバル化時代の教育評価改革:日本・アジア・欧米を結ぶ』

大学院の授業で、田中耕治(編著)『グローバル化時代の教育評価改革:日本・アジア・欧米を結ぶ』(日本標準)を読んでいます。

 

今週の授業では、渡辺貴裕先生(東京学芸大学)の英語圏における芸術教育の評価の新展開」(第3章第4節)を読みました。

芸術教育において、「スタンダード」に基づく評価が広がる中で現れてきた「スタンダード」路線に対する批判。そして「スタンダード」とは異なるオルタナティブな評価のありかたを探ろうとする試み。

整理されたそれらの議論は、他ならぬ私自身が、水戸芸術館・高校生ウィークの中で「アートライティング」や「書く。部」に関わる中で考えてきたこと、2010年に「Tokyo Art Reserach Lab」の立ち上げに関わる中で考えたことに重なる部分が多々あり…、自分自身がこれまで行ってきたことと、これから行おうとすることをつなぐための道標を与えられたような気がします。

 

授業の中で、議論の中心になったのは、「批評(curitique; criticism)」「評価(evaluation)」の違い(あるいは,教育評価の文脈においてそれらは異なるのか、ということでした。)

本論文では、以下のようなアイズナーの議論が紹介されています。

「スタンダード」に関してアイズナーは、デューイ(Dewey, John)の『経験としての芸術』における、「スタンダード」は期待を固定するもので、「クライテリア(criteria)」は重要な質を効率的に探るためのガイドラインであるという区別を踏まえ、評価において重要なのは「スタンダード」ではなく「クライテリア」であるとしている。(p.203)

またその上で、アイズナーが、教師自身がこのような「鑑識眼」を持つべきとするこのようなアプローチとは別に、生徒自身の「鑑識眼」を育てようとするアプローチにも着目していたことを示す事例として、生徒同士による相互批評活動である「クリット(crit)」を取り上げています。

 

言葉の役割に注目した評価は別の形も取り得る。アイズナーが生徒による相互評価の一例として取り上げている、「クリット(crit)」と呼ばれる、教室で生徒同士が行う相互批評の活動もその一つである。

アイズナーは、芸術教育における評価について、教師が「鑑識眼」をもつことの重要性を述べていた。「クリット」は、生徒自身も「鑑識眼」を育てる必要があること、その際に言葉を用いた交流が有効であること、こうした活動そのものが評価という観点で捉えられていることを示していると考えられる。(以上、p205) 

 

ここで、「評価(あるいは、相互評価)」と「批評(相互批評)」という2つの用語が用いられていることが、議論の焦点になりました。

「スタンダード」と「クライテリア」の区別に関する議論を引き継ぐのであれば、「評価(evaluation)」と「批評(critique)」には重要な違いがあり、生徒たちの「鑑識眼」を育てるためには、(いわゆる「相互評価」ではなく)「相互批評」が重要だと理解できる。

一方、「クリット」に関する議論だけを見れば、「評価」「批評」が互換可能な用語として用いられているようにも見える。(もしかしたら、広義の「評価」と、狭義の「評価」があるのかもしれない。)

そうだとすると、教育評価の文脈において、私たちは「評価」「批評」との関係をどのように考えたら良いのだろうか…というのが、議論のポイントでした。

 

「『レビュー』と『批評』は異なるもの。『レビュー』は鑑賞者に向けて書かれるもので、『批評』は作家(や、作品全体をとりまくアートワールド)を育てるために、作家に向けられるもの」、

「地域アートへの『評価』はこんなにも議論されているのに、地域アートには『批評』が育っていない」…などの言葉を社会人として駆け出しの頃にたくさん聞いてきたわたしとしては、「評価」と「批評」を同じものとして考えるという発想がそもそもなかったので、この論点はかなり斬新でした。

 

確かに、本書を読み進めてみると、本章の「小括」で、次のようなまとめがなされていたりもして、やはり教育評価の文脈では、「評価」と「批評」の違いを分けて議論することには、あまり重きが置かれていないのではないか…と思ったりもしました。

この実践においては、ルーブリックの各レベルの「記述語」をきっかけとして、子どもの学習のリアルな姿が現れ、「共通のつまずき」が表れている。また、子どもの意識は「次のレベルに達するにはどうしたらよいのか」という学習改善の方法に集約される。この事例は、日本では総合学習の評価法として注目を浴びた「ポートフォリオ評価」における「検討会」の1つでもあり、まさしくアイズナーが示した「クリット(相互批評)」と軌を一にするものである。ここに、評価と学習改善をつなぐ1つの策が提示されているのではないだろうか。(p 213)

 

ポートフォリオ評価」における「検討会」が、「相互批評」として成り立つかどうかかは、その「ポートフォリオ」がどのようなもので、どのような学習活動の中で、どのように創り出されるのか、にもよると思うのですが、ポートフォリオ評価の検討会というものすべてが、芸術教育における「相互批評」と軌を一にするのかどうか、なぜそう言えるのか、が私にはわかりませんでした。

 

水戸芸術館・高校生ウィークのなかで、生徒たちの「鑑識眼」を育てるための「批評」の芽となるような活動を、何度か目にしたり、自分自身も企画運営をしたりする中で、やっぱりそれは「評価(evaluation)」というものとは、異なるのではないか、と感じています。

 

例えば、2007年に茨城県水戸第一高校の美術部の皆さんと一緒に行った、《夏への扉―マイクロポップの時代》展のギャラリーガイドの作成

この活動では、みんなでそれぞれ下書きを書いてきたあとに、その下書きについて、お互いにいろいろコメントしあったり、最終的にどういう「ギャラリーガイド」を作ろうか、という話をしました。

私が、有馬かおるさんの作品について紹介するために書いてきた原稿がこちら。

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この原稿について、「これは、このままの感じがいいから、このまま載せたほうがいいんじゃないか」と提案してくれたのは、参加してくれた高校生たちでした。

高校生たちが、「これはこのまま載せよう」と言ってくれたので、他の作品紹介文が、すべて活字化されてホームページで載せられるなか、これだけはいまだに画像ファイルでそのまま見ることができます。

 

このときの、私たちは、たぶん、「(相互)批評」をしていたんじゃないかと、今になって思います。

「批評」とは、「事物の美点や欠点をあげて、その価値を検討、評価すること」(『日本大百科事典(ニッポニカ)』)。つまり、まだ価値が定まっていないある対象に対して、その価値を見出したり、創り出したりあるいは対話によってその価値を交渉し見定めていくことであるともいえると思います。

これに対して「評価」は、その価値を判定すること、判断することに重きが置かれているように思います。

私たちが行っていた活動が、「(相互)評価」だとしたら、この原稿はそのままのかたちで残されていなかった気がします。

この原稿から提起される何か、価値のようなものに対して、対話の可能性が開かれている「批評」だからこそ、この原稿の価値が交渉される可能性が残されていた。そしてこの原稿の価値が交渉されるなかで、新たな価値が見出され、その結果として、素朴でありながらどこか本質を突いたような多くの言葉たちが、そのままのかたちで「ギャラリーガイド」となり、それがいまでも、このようなかたちで残されているのだと。

そしてこのときは、幸いなことに、《夏への扉》展の共同キュレーターでもあった美術批評家の松井みどりさんに、このギャラリーガイドをご覧いただき、松井みどりさんご自身から、ギャラリーガイドに対するコメントをいただくという僥倖にも恵まれました。

 

考えてみれば、高校生ウィーク「写真部」を含む、松本美枝子さんの写真ワークショップで起きていた、高校生や大学生、大人たちのやりとりも、それぞれに何らかの「批評」性を持っていました。

ピア・グループ型ワークショップによるメディア・リテラシー学習の支援:高校生対象の連続ワークショップ「写真部」を事例として

 

そこで起きていたさまざまな「学び」とその「学びのみとり」をめぐる相互行為を、あらためてきちんと見直し、「評価」の視点から言語化し、論述することが必要なのかもしれません。