kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

一人称代名詞という主戦場――スーザン・クークリン『カラフルなぼくら』

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私を呼ぶときの代名詞には、本当は〈彼ら〉を使ってもらいたいんだ。男と女の両方が自分の中にいると思うから。でもそれを理解できる人はほとんどいないので〈彼〉でいいよ。長い間ずっと〈彼女〉だったから、そろそろ交代してもいい時期だ。女子でいるのは好きじゃない。彼女とはお別れだ。しっくりこなかったしね。

―――ナット(「ナット 第三の性」『カラフルなぼくら』p.220)

 

2015年のラムダ賞(LGBT文学に与えられる賞)児童・YA文学部門に入賞しているノンフィクション『カラフルなぼくら: 6人のティーンが語る、LGBTの心と体の遍歴 (一般書) 』を読みました。

2015年にラムダ賞を受賞したばかりのLGBT児童文学作品が、すでに邦訳で読めるってすごいことだな、と思います。
はじめは、ノンフィクションあるいは、リアリスティック・ファンタジーのようなかたちで、リアルなセクシュアル・マイノリティを描く児童文学・YA文学に関心があったのですが、この本はそれ以上のパワーがありました。

セクシュアル・マイノリティに対してそれほど理解が進んでいるわけでもない日本で、こんなに即座に邦訳が出ているのもうなづけます。それほど、人間としてとても普遍的なテーマに迫っている作品だと思いました。

たとえば、「著者あとがき」には、次のように書かれています。

 

『カラフルなぼくら』の基本構想は、文章と写真を組み合わせて、セックスと疎外感をテーマにしたナラティブ・ノンフィクションを作ることだった。このふたつの普遍的テーマは、生活、文学、美術などの分野において常に深く結びついている。私が目指したのは、性的傾向の基本的特徴を探ることで、特に、若者が自分のセクシュアリティジェンダーを認識しはじめる決定的時期に興味があった。つまり本書は、自分が女であることに気づいた少年と、自分が男であることに気づいた少女についての本になる予定だったのである。しかし、調べを進めていくうちに、この計画が次第に形を変えていった。(「著者あとがき」『カラフルなぼくら』p.289)

 

「調べを進めていくうちに、この計画が次第に形を変えていった」とはあるけれど、著者の普遍的な問題へのまなざしは、この本をまっすぐに貫いています。

だからこそ、私たちは、たとえ自分自身がセクシュアル・マイノリティでなくとも、また自分自身のジェンダーアイデンティティセクシュアリティに迷ったり悩んだりした経験がなくとも、本書で紹介される6人の声に、どこか共感するところを見いだすことができるのだと思います。

とはいえ、この本のタイトルだけを見て、「セクシュアル・マイノリティのことだから自分には関係ない」と思って通り過ぎる人は多いでしょう。それはとても残念なこと。だから、このことはいくら強調しても、強調しすぎることはないと思います。

 

この本は、セクシュアル・マイノリティの本ではない。

なんらかのジェンダーアイデンティティをもち、なんらかのセクシュアリティをもつ、あなたのことが描かれた本です。

 

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生物のユートピア――遠野りりこ『マンゴスチンの恋人』

「児童文学におけるセクシュアルマイノリティについて考える」ための読書プロジェクトの一環として、遠野りりこ『マンゴスチンの恋人』を読みました。

www.shogakukan.co.jp

 

左から、単行本版、文庫版、マンガ版になります。

 

表だって「ヤングアダルト」を掲げているわけでもないのですが、小学館文庫小説賞を受賞して、マンガ化もしているというあたり、実際の中高生の読書環境にかなり近いところにある本なのではないか、と思ったからです。

ヤングアダルト文学とライトノベルの境界に関心があったこともあり、ライトノベル的でもあり、YA文学的でもあるような、セクシュアル・マイノリティ文学が読んでみたいと思い、この本を手にとってみました。

ちなみに私が読んだのは、文庫版です。

 

これまで、如月かずささんのYA文学を読んで感想を綴ってまいりましたが、セクシュアル・マイノリティが登場する如月かずささんの2作品と、今回読んだこの作品、かなりタイトルの付け方が似ていると思います。

並べてみましょう。

 

『カエルの歌姫』(如月かずさ)

『シンデレラウミウシの彼女』(如月かずさ)

マンゴスチンの彼女』(遠野りりこ『マンゴスチンの彼女』所収)

『テンナンショウの告白』(同上)

『ブラックサレナの守人』(同上)

ヒガンバナの記憶』(同上)

 

すべて「生物(動物あるいは植物・カタカナ表記)」+「二字熟語」なんです!

 

なんだかうまくプログラムを組めば、タイトル・ジェネレーターが作れてしまいそうです。

もちろん、たった2人の作家の作品を読んだだけなので、セクシュアル・マイノリティが登場する日本のすべての児童文学が(あるいは、ほとんどの児童文学が)、人間以外のなんらかの生物にその理想を象徴させる傾向にあると言えるわけではありません。

ただ、日本で現在発行されている児童文学のなかで、物語のなかにセクシュアル・マイノリティが登場する作品のひとつの流れに、このような傾向を認めることはできるのではないか、と考えました。

 

ヒガンバナの記憶』で主人公として登場するレズビアンの生物教師は、物語のなかで、このような言葉を生徒たちに投げかけます。

 

「動物だけじゃなく植物にも色々な性別のあり方があります。大きくはチューリップや桜のように、ひとつの花にオシベとメシベを持つ両性花と、どちらか一方のみを持つ単性花に分かれる。銀杏に雄の木と雌の木があるのはよく知られているわね。銀杏のようにメシベだけを持つ雌花とオシベだけを持つ雄花が別の個体につくものを雌雄異株と言う。同じ個体に雌花と雄花が付くものは雌雄同株と言って、柿やスイカがそう。高山植物クロユリは雄花と両生花が咲く。群生したクロユリは一見同じ姿をしているけれどひとつひとつよく見ると、花弁の中が違っているものを見つけられる。あとマンゴスチンって東南アジアのフルーツがあるでしょう。あれは花粉を持たない花を咲かせて実を付ける。単為生殖と言って雌だけで繁殖できるの。また、サイトモ科のテンナンショウ属は栄養状態によって性転換するの。若くて小さいうちは雄で、ある程度の大きさになると雌になる。このように自然界の性は本来多様であって、それは人間だって同じ。とは言っても、人間は単為生殖できないけど」(文庫版p.133。『テンナンショウの告白』より)

 

マンゴスチンの恋人』に所収される4つの短編では、「自然界の性は本来多様であって、それは人間だって同じ」という理屈が、さまざまな意味でセクシュアル・マイノリティであることに悩む主人公たちを支えています。

その構図はとてもシンプルだけど、とても美しい。

この作品が評価をうけるのは、そのシンプルな美しさなのだと、思います。

 

如月かずささんの作品『シンデレラウミウシの彼女』と『カエルの歌姫』において、セクシュアル・マイノリティであることに悩みはじめた主人公たちは、「自然界の性の多様性」を知るのですが、あくまでそれは、自分たちでは到達できない「理想」として描かれます。だからこそ、『シンデレラウミウシの彼女』では、神様のマジカルパワーでその不可能性が超えられてしまう。『カエルの歌姫』では、到達できない「理想」であることを認めつつ、「現実」と「理想」のあいだで、主人公が自分のあるべき姿を模索していくという意味で、一歩進んでいるといえます。

 

一方、『マンゴスチンの恋人』では、「自然界の性の多様性」は「理想」ではなく、みんなが知らないだけで本当はある「現実」として描かれ、そこから物語がスタートします。

そのような意味で、同じような構造をもつタイトルを持ちつつ、2人の作家の描くセクシュアル・マイノリティの世界は異なる方向性を持っているように見えます。

 

しかし、そのような違いが存在するもののやはり、なんらかの「生物(動物あるいは植物)」が<いま・ここ>には実現されていないなにか、として描かれ、その「生物」との関係性のなかで、主人公自身や主人公をとりまく関係性が変化していく・・・という点では共通している。

この共通性のなかに、日本の児童文学におけるセクシュアル・マイノリティの位置づけが見えてくるような気がします。

 

これについては、現在読んでいる、LGBTの若者をとりあげた米国のノンフィクション『カラフルなぼくら: 6人のティーンが語る、LGBTの心と体の遍歴 (一般書)』を読んでから考えてみたいと思います。

「悪書」とされる児童書

本日、ニュージーランドで児童文学賞を受賞した作品が、発禁処分を受けたというニュースが報道されていました。

www.afpbb.com

 

問題となった作品は、先住民マオリの少年を描いたもので、少年は奨学金を得て名門寄宿学校に入学するものの、人種差別や薬物問題の中で苦闘するという物語だそうです。

問題となったのは、この物語のなかにいじめやセックスの描写が含まれていることだそうで、保守派のロビー団体が同作品のなかのこれらの描写に抗議し、発禁という流れになった模様。

以前、このブログの記事にも書きましたが、児童文学において性(セックス)はタブーとされていて、ここでもそれがひとつの問題になっていたことがわかります。

 

さて、この問題に興味をもち、「悪書」として発禁にされたり公共図書館などから児童書が撤去されたりするニュースについて調べていたところ、昨年の7月にシンガポールの国立図書館が、同性愛を題材にしたことを理由に3冊の児童書について破棄処分を決定していたことを知りました。

www.afpbb.com

その後、この処分に対して抗議活動が行われ、最終的には、「児童から一般の書架に移され、親が子どものために借りることは可能になった」そうなのですが、このような問題がいまだに(1年前です!)生じていたということに驚かされます。

 

シンガポール国立図書館が「破棄処分」を下そうとした児童書3冊のなかのうち1冊は、『タンタンタンゴはパパふたり』は、ニューヨークの動物園であった実話をもとにした絵本で、ペンギンの同性愛カップルに育てられたペンギン・タンゴのお話です。

 

 

実話にもとづいた動物絵本で、もちろん過激な性描写があるわけでもありません。それでも、この本が「破棄処分」にされかかり、最終的な判断としても「児童書コーナーには置けない(=子どもが自由に手にとれない)」とされているわけです。

しかしこれは、シンガポールだから特に問題になったというわけではなく、『タンタンタンゴはパパふたり』の原作本は、2006年から2010年まで、毎年9月下旬に米国で開催されている「禁書週間(Banned Books Week)」の際に発表される、前年度に撤去要請が多かった本ベスト10の常連さんだった・・・どころかトップ独走状態だったようです。

www.nypl.org

 

昨年度の「禁書週間」で発表された、“撤去要請の多かった本”ベスト10には、さすがにランクインしていませんが、それでもまだまだ「同性愛」を理由に撤去要請のあった本がランクインしている状況のようです。

セクシュアル・マイノリティをあつかった児童文学としてはかなり先進的であり、LGBTをあつかった文学賞「ラムダ賞」まである米国ですら、このような状況ですから、この問題の根深さを感じてしまいます。

 

なお、今年(2015年)のラムダ賞・「LGBT Children’s/Young Adult(LGBT児童文学/ヤングアダルト)部門」の受賞作品のなかには、すでに邦訳されている文献もある模様なので、さっそく入手して読んでみようと思います。

 

 

サロンパスのようなナプキン:川島誠「電話がなっている」

以前の記事にも書きましたが、児童文学におけるセクシュアルマイノリティの問題を考えていると、どうしても、児童文学におけるセクシュアリティの問題にぶつかります。

 

だれかを好きになった日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)』の中の「解説」にも、そのことについて触れられていた部分がありました。

 

  児童文学は、あまり恋愛と犯罪を書きません。性(セックス)と悪は、人間の本質をなすものですが、本質であるがゆえに、児童文学にとってはタブーとなってしまうのでしょう。(pp.186-187)

 
「解説」では、このような前置きがあったうえで、「タブーを超える試みとして、『電話がなっている』は果敢なものだと思います」と書かれてします。本書所収の川島誠『電話がなっている』を、児童文学における性(セックス)のタブーを超える試みとして、解説者である石井直人さんが高く評価されていることがわかります。

 

『電話がなっている』の作者である川島誠さんは、以前の記事で紹介した論考「気持ちいいものとしての女の子の性」(『飛ぶ教室』(光村図書)所収。日本児童文学者協会編『転換する子どもと文学 (現代児童文学論集) 』所収)の著者でもあります。

実はこの論考のなかでも、(作品名こそ出さないものの)本作品のことについて触れられていて、川島さんご自身が本作品のなかで、「気持ちいいものとしての女の子の性」にチャレンジしていたことを知ることができます。

 

さて、そんな作者ご本人にとっても児童文学研究者にとっても、「タブーを超える試み」とされた『電話がなっている』ですが、物語のエンディングが、あまりにグロテスク(?)なせいか、タブーを超える性描写はあまり読者の記憶に残っていないことが多いようです(例えば、こちらの記事)。

いろいろな意味でチャレンジングな作品なんですね・・・。

 

というわけで、『電話がなっている』における性(セックス)に着目して見てみたいと思います。以下、ネタバレなうえに、きわどい言葉が並びますので、いろいろな意味でご注意ください。

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セカイ系児童文学――『だれかを好きになった日に読む本』

「本当にだれかを好きになった日に読んだら恋愛どころじゃなくなる本」との評判高い(?)現代児童文学研究会(編)(1990)『だれかを好きになった日に読む本』(偕成社)を読みました。

 

本の表紙画像を見て、「そんなおおげさな」と思われた方もいらっしゃると思いますが、そういう方は「だれかを好きになった日に読む本」でGoogle検索してみれば良いと思います。いかに多くの方々が、少年少女たちへのトラウマ化を懸念されているか(そして実際にトラウマ化しているか)が実感できるかと思います。

たとえば、こちらでも紹介されています。

matome.naver.jp

 

とはいえ、この児童文学アンソロジーに収録されている作品のすべてが、トラウマ系だというわけではありません。

「トラウマ系児童文学」として名高いのは、本アンソロジーの最後に収録されている以下の2つの作品です。

 

(1)川島誠『電話がなっている』

(2)那須正幹『The End of the World』

 

川島誠『電話がなっている』は、「電話がなっている(川島誠) | 後味の悪い話まとめサイト@2chオカルト板」で紹介されているところが、なんかすごいです。

 

これらの作品が、『だれかを好きになった日に読む本』という児童文学アンソロジーに入っていることについて、「なぜこの作品を小学生向けの児童文学アンソロジーに入れたんですか?」「少年少女にトラウマを植え付けようとしたとしか思えない!」という声を見かけました。

これらを収録した意図について、本書の最後の「解説」に石井直人さんが下記のように記されています。

 

さて、児童文学が、もっとも得意とする恋愛は、初恋です。はじめて異性の存在を感じたときのとまどいが、あざやかです。・・・

(中略)

・・・反対に、二人のあいだに割り込んでくるものもあります。貧困、戦争、近未来の管理社会、核戦争後にやってくる核の冬とよばれる死の世界。だれかを好きになる。わたしをわかってもらいたい。あなたにそばにいてほしい。本気で思う。それなのに二人を邪魔するものがある。だれかを好きになるということは、いままで気づかなかった世の中の仕組みに直面することでもあるわけです。ですから、どの作品も、恋愛という一つのテーマから読めばすべてということはありません。「観音だんご」「電話がなっている」「The End of the World」は、読み応えのある複雑なものですが、どうか作品が逆説のかたちでしめそうとする人間のほんとうの姿を考えてください。恋愛というテーマをつきつめていったとき、はげしく切実な人間と人間のつながりのありかたがしめされるでしょう。(pp.187-189)

 

あれ。これってもしかして、「セカイ系」みたいなお話ですか?

 

もちろん、主人公をとりまくごく狭い人間関係が世界の行く末を決めてしまう「セカイ系」と、だれかを好きになる(=主人公をとりまく人間関係が変化する)ことで、いままで気づかなかった世の中の仕組みに直面する(=元来問題をはらんでいた世界とつながる)ということは、まったく逆のことを言っているようにもみえます。

 

事実、『電話がなっている』でも『The End of the World』でも、終末期的な世界はまったく変わらず、むしろ、主人公をとりまく人々はそのなかで翻弄され、世界とともに終末へと向かっているようにすら見えます。(結果として作品に救いがなくなり「トラウマ系」と呼ばれるのでしょうが。)

でもやっぱりどこか、「セカイ系」くさい。

セカイ系」のにおいがする。
2年前に話題になったこの記事のなかで、ボカロ小説の「セカイ系」くささが指摘されていましたが、すくなくとも、私にとっては、同じくらい「セカイ系」くさいお話です。

www.n11books.com

 

『だれかを好きになった日に読む本』が1990年出版ですから、そこに掲載されている作品そのものが発表されたのは、1980年代。

そう考えてみると、「セカイ系」的な物語というのは、児童文学のなかですでに先取られていたということでしょうか。

そしてそれと同じような物語の構造が、ボカロ小説のなかにも引き継がれているのだとすると、・・・なんだかそこに、現代の児童文学(YA文学)に共有されたテーマや問題性のようなものがあるような気がしてきます。

 

もしかしたら、これを切り口にしながら、児童文学(YA文学)とサブカルチャーとのつながりを見ていくことができるかもしれないですね。

なんとなく性別越境したいボクら・その2

児童文学におけるセクシュアルマイノリティについて考えるため、引き続き、如月かずささんのYA文学『カエルの歌姫』(2011年)を読みました。

前回読んだ『シンデレラウミウシの彼女』は、講談社YA! ENTERTAINMENTシリーズということもあり、装丁からして「ヤングアダルト向け」(!)という感じがしましたが、『カエルの歌姫』は、一般書と同じ装丁のため、一見して「ヤングアダルト向け」かどうかはわかりません。

しかしながら、本作品は、第45回日本児童文学者協会新人賞受賞作であり、「児童文学」として高い評価を得ていることがわかります。

 

 

この作品、Amazonのレビュー(『カエルの歌姫』)からもお察しいただけるように、なによりまず、『電車男 』や石田衣良アキハバラ@DEEP (文春文庫) 』につらなる(?)「オタク文学」(そんなものがあるのかどうかわかりませんが)として面白かったです。

 

最近は、ゆるゆるまったりな文化系サークルや部活動をテーマにした小説も増えてきて、物語の登場人物にオタクが登場したり、はたまた主人公になったりするケースもしばしば見かけるようになりました。が、主人公(とその友達集団)もオタクで、好きになる相手とその家族(姉のみですが)もオタク(!)の恋愛ストーリーってはじめて読んだ気がして新鮮でした。

もちろん2010年代の中高生向けに描かれる物語での「オタク」なので、「オタク」といっても深夜アニメ見てたり、ニコ動のボカロソングが好きで「歌ってみた」をよく見ている・・・という程度です。(主人公は、「歌ってみた」に自分で投稿もしてますが。)

 

そして、この作品の面白いところは、そういうオタク・カルチャー的なものが、ジェンダーセクシュアリティーにおける「他者」へのまなざしを、やわらかなものにしている点だと思います。

『カエルの歌姫』では、主人公の男子生徒が自分自身のジェンダーアイデンティティに違和感を持っている。その違和感に対して彼がとった一連のジェンダー越境的な行動に対する辛辣なまなざしを、オタク・カルチャーが見事にやらわげる。

もちろん、これは、理想を描いたファンタジーに過ぎないけれど、主人公がジェンダーに対する違和感に対してアクションを行う場も、それを受け止めるための価値観の枠組みも、オタク・カルチャーのなかにある、という点は、今後の可能性を考えるうえで、とても面白いと思います。

 

さて、では、本作品におけるセクシュアル・マイノリティの描かれ方について感想を述べたいと思いますが、あいかわらずネタバレになりそうなので、以下をお読みいただく方はご覚悟ください。

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なんとなく性別越境したいボクら・その1

「セクシュアルマイノリティと児童文学について考えること」で書いた決意表明にしたがって、セクシュアルマイノリティが登場する児童文学・ヤングアダルト文学を読みはじめています。

 

まずはじめに手にとったのは、如月かずさ(2013)『シンデレラウミウシの彼女』。

 

ガクとマキは兄弟のように育った幼なじみで中学の同級生。
部活も一緒のバスケ部という仲良しコンビ。
だが、二学期初日、教室にマキの姿はなく、心配したガクが放課後にマキの家に様子を見に行ってみると、なんとマキが女子になっていた!しかもガクとマキ以外誰もマキが男だったことを覚えていない。
マキがとつぜん女子になってしまった理由は、実はご近所の祠の恋の神さまのある思惑が関わっていて……?(講談社ブック倶楽部より)

 

講談社ブック倶楽部の本文紹介の最後の文が、「ずっと、そう思っていたはずだった。」で終わっていたので、「そんなこと最後に書かれたら、あとはやることはひとつですよね!?」という謎の確信(?)をもって、つい、この本を手にとってしまったわたしです。が、そこはさすがに児童文学。けして「やることはひとつ」ではありませんでした。当然です。

中高生向けの図書という意味では、YA文学もライトノベルもそんなにターゲットは変わらないはずなのですが、それでもやはり、YA文学は児童文学の一種であるということなのでしょう。

 

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