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Literacy, Culture and contemporary learning

善意の暴走と「心理学化」~『「発達障害」とされる外国人の子どもたち』

2月末に発売されたばかりの、金春喜(2019)『「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』(明石書房)をさっそく入手して、読みました。

 

 

 

本書が発売される少し前に、明石書房のTwitterで本書が発売されることを知ったのですが、その時期ちょうど、外国につながる子どもたちに関連する論文を書き始めていた頃でもあったため、「これは…!」と思い、さっそく予約注文。

 

本書では、あるフィリピンから来日したきょうだい(やその家族)の抱えるさまざまな問題が、いかに、「発達障害」という個人の問題へと回収されていくのか…を、きょうだいにかかわった10人の大人たちの語りから浮かび上がらせています。

それはまさに、この記事のタイトルにも書いた通り、「善意」が暴走し、その善意の暴走がひとつの圧力になって、一気呵成に「心理学化」が行われていくような…そんなプロセスに、わたしには見えました。

 

本書では、まるで芥川龍之介『藪の中』の世界がそのまま現実に出てきてしまったような、きょうだいの「発達障害」化(と特別支援学校への進学の決定)にかかわる、少しずつズレた語りが展開されていて、そのひとつひとつの「ズレかた」、その重なる部分と重ならない部分が、とても興味深いと思いました。

個人的に、もっとも考えさせられたのは、森先生(小学校6年生から日本語指導を担当している先生)と、寺田先生(中学1年生のときの担任の先生)との語りの間のズレでした。

カズキくん(兄)は、中学1年生になって、「発達障害」ということになり、特別支援学級に通うことになるのですが、そのときのことについての、二人の語りがかなりズレているのです。

 

【4】森先生 中学校で、もう、進路決めていかねばならないし。私としては、様子を見ながら、特別支援の方のクラスであったり、ま、クラスまでいくのか、なんらかの支援は必要だなっていうふうに、思っていたんです。でまぁ、カズキくんが入学して、担任の先生の方(寺田先生)も、特別支援学校で働いた経験もある方だったんですよね。で、すごく、熱心やし、そこらへん、冷静に判断する方だったので、「いや、そうですよ」と

 

【5】寺田先生 カズキくんの場合は、発達障害」ってなってるけども、ほんまにどうか言ったら、微妙です。ライン的には。ただ、その「発達障害」かどうかっていう、ま、教室やから診断はできひんのですけども、その可能性を考えたときに、どうしてもやっぱ、本人とちゃんとコミュニケーションがとれへんことで、ほんまに「発達障害」かどうかってとこで、すんごく悩みました。お母さんの話を聞いたり、そこらへんから、行動的にはあり得るなっていう、超グレーな状態特別支援学級に回した経緯はあります。

(以上、金春喜、2019『「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』明石書房、p192。傍点省略。下線は引用者)

 

ここに、特別支援学級の先生による提案が加わったり、「知能検査」という人工物の利用が加わることによって、「発達障害」であるという「事実」が創り上げられていくわけですが、そのはじめのはじめのきっかけに対する「見え」がここまでズレていることに、問題の根の深さを感じざるを得ません。

 

ここには、一人ひとりの教師の「判断」や「評価」といったものを超えた、集合的なパワーがあるように思えてならないのです。

1対1のインタビューでは、「微妙です」「超グレーな状態」と語る寺田先生が、なんの迷いもなく「いや、そうですよ」と「判断」しているかのように森先生に「見えて」しまうようなパワー。

「ま、クラスまでいくのか、なんらかの支援は必要だな」くらいにしか考えていなかった森先生が、「いや、そうですよ」と言われたくらいで、すんなり納得させられてしまうようなパワー。

それは、本書で論じられているような、ふたりのきょうだいのおかあさん、対、日本の学校の先生たちという対立構造を超えた、もっともっと大きなパワーであるように思います。

わたしには、そのパワーこそが、「善意の暴走」を導いているように見えます。

 

もちろん、本書ではそこまでの分析はなされていません。

本書でなされているのは、この「藪の中」の語りに共通する「現実」としての問題性をあぶりだすことです。

本書では10人の語りに見られるひとりひとりの「現実」とそのずれから浮かび上がってくるものついて、あまり多くを語っていません。

おそらく、これらのズレから何かを見出そうとすることは、今後の課題として残されているのでしょう。

 

残された課題も含めて、本書を読みながら、私たちひとりひとりが考えていくこと、それによって、日常的なやりとりの中で頻繁に顔を出してくる「心理学化」のパワーと距離をとれるようにしていくこと。そのことに、意味があるように思います。