こども×アート×ワークショップの原点~「ブルーノ・ムナーリ」展@神奈川県立近代美術館葉山
先週末まで、神奈川県立近代美術館葉山で開催されていた、「ブルーノ・ムナーリ こどもの心をもちつづけるということ」展に行ってた。
「ブルーノ・ムナーリ こどもの心をもちつづけるということ」展:神奈川県立近代美術館<葉山館>
神奈川県立近代美術館葉山での展示は終わってしまったのですが、「かなチャンTV」の展覧会案内動画で、《読めない本》、《旅行のための彫刻》、《見立ての石》が紹介されていて、うれしい。
神奈川県立近代美術館 「ブルーノ・ムナーリ こどもの心をもちつづけるということ」展 2018/04/27Fri.
展覧会のホームページの方では、もっと、いわゆる「芸術作品」らしい(?)作品の写真が多く掲載されているように見えるのに、こちらの案内動画では、どちらかというと「子どもの遊び」っぽい方の作品が取り上げられていて、うれしい。
ブルーノ・ムナーリは、『ファンタジア』の中で、「未来の社会はすでに私たちの中に、つまり子供たちの中にある」…と言っているそうだけれども、子どもたちとのワークショップはもちろんのこと、本の装丁、デザイン・ワーク、そして初期から続くアート作品まで、「みんなの創造性のきっかけ」を創出することに、大きな関心を抱いていた人なんだろうな…ということが、ひとつひとつの作品から伝わってくる。
本展の担当学芸員である高橋雄一郎さんは、ムナーリが、本の雑誌や装丁を多く手がけけていることについて、次のようにコメントしている。
これを読んで、あらためて、ブルーノ・ムナーリの一連の仕事が、ワークショップやデザインやアートや教育や…いろいろなところで行われている、「みんなの創造性のきっかけ」をつくりだすプロジェクトの原点になっているんだなぁ…と実感した。
装丁の仕事は晩年まで手がけていました。ムナーリは、「芸術のための芸術」のようなものを目指した人ではないんです。自身の作品がいかに大衆に広く触れ、創造的なきっかけになるかということのほうが、むしろ関心があったのでしょう。だから、装丁のような仕事はバランスが取れたいい仕事だと、ムナーリはとらえていたのではないでしょうか。
(ブルーノ・ムナーリって、何者?学芸員に聞く、ユーモアを忘れないマルチ・アーティストの創作の裏側|美術手帖)
展示室の最後には、ムナーリの制作した遊具で遊べるコーナーがあり、そこの解説で、ムナーリにとって、アートは、ラテン語の「芸術(ars)」と日本語の「遊び(asobi)」との二つの側面を持つものだというようなことが書かれていた。
いま、まさに学習における「play(ful)」に関心をもって、いろいろな研究や実践を行っているわたしとしては、「プレイ(play)」ではなく、日本語の「遊び(asobi)」がここで持ち出されていることに、興味を惹かれた。
「プレイ(play)」という英語を用いて議論することで、演技(play)、演奏(play)、遊び(play)を連続して議論していけるという面白さは確実にある。
たとえば、ミッチェル・レズニック『ライフロング・キンダーガーデン』において展開されている議論の面白さは、まさに「play」に関する議論にこだわったところから生み出されている、と思う。
一方、「遊び(asobi)」という日本語の言葉にこだわることによって、見えてくるものもありそうな予感がするのも、たしか。
ブルーノ・ムナーリによる子どもたちとのワークショップの映像を見ていると、これは「プレイ(play)」ではなく「遊び(asobi)」だという気がしてくる。
もちろん、レズニックが語っている「レゴ・マインドストーム」や「スクラッチ」をいかに子どもたちが遊び、学んでいるか?を具体的に見てみると、そこには、ここに見られるような「遊び」の要素も多分に含まれているのだけれども。
これについては、もう少し自分自身でも考えてみたい。
「ブルーノ・ムナーリ」展は巡回展で、このあと、北九州市立美術館、岩手県立美術館での展覧会が開催され、11月17日からは、世田谷美術館で見られるようになるとのこと。
今回ご覧になれなかった方は、ぜひ世田谷美術館での開催の折に、足を運んでみてほしい。
2018年6月23日~8月26日 北九州市立美術館
2018年9月8日~11月4日 岩手県立美術館
2018年11月17日~2019年1月27日 世田谷美術館
(「ブルーノ・ムナーリ こどもの心をもちつづけるということ」展:神奈川県立近代美術館<葉山館>)
それにしても…
まだこれから展覧会が巡回していく予定だというのに、すでに図録が売り切れていて、(出版社在庫もなく!)プレミア価格で売られている状況になっているのは、どうにかならんのですかね…(汗)
わたし自身の「安心からの脱出」~TPPGフェストークショーで司会を務めることになりました
昨年夏、「いただきダンジョンRPG」開発者のひとりである加藤浩平さんと、偶然、お知り合いになるという僥倖に恵まれました。
おかげさまで、東京学芸大学で行われているTPRGの活動を、実際に見させていただいたり(詳細はこちら→コミュニケーションとゲーム研究会(コミュゲ研) )、その場にいらっしゃった遊学芸の保田琳さんご紹介いただけたりと、ラッキーなことばかりが続き…、
そんな幸せな偶然の出会いの連鎖の中で、ななななんと!
TRPGフェス2018のトークショーの司会を努めることになりました!
口頭発表パネル 9月2日(日)
タイトル:「教育研究・発達支援研究・メディア研究から見たTRPG・LARPの可能性」
発表者:
加藤浩平(東京学芸大学、TRPG、コミュニケーション支援論、発達支援方法論)
ビョーン=オーレ ・カム(京都大学、パフォーマンス教育論、LARP教育論)
デニーズ・パシェン(ミュンスター大学、メディア教育論、LARP教育論)
司会:石田喜美(横浜国立大学、読書教育論、メディア・リテラシー教育論)
時間:90分
このトークショー自体がむちゃくちゃ面白そうなのに…
さらにその司会ができるなんて…
これが夢でないことが、すごい!
そんなわけで、これまで「司会」「モデレーター」なるものをするたびに酷評をいただいていたので、「もう絶対、司会なんてやらない!」と言い続けてきたのですが、そんなことも言ってられなくなりました。
さらに…!
まだきちんとお打ち合わせしていないので、どんな感じのことをやらせてもらえるのかワクワクドキドキ(!)なのですが、トークショーの前日に行われるLARP(ライブ・アクションRPG)セッションでもNPC(ノンプレイヤー・キャラクター)を努めさせていただけることになったりして、今から8月末が楽しみでたまりません。
LARPセッション 9月1日(土)
「安心からの脱出・Village, Shelter, Comfort」
主催者:ビョーン=オーレ ・カム(京都大学)、加藤浩平(東京学芸大学)
テーマ:
北欧などのヨーロッパでは、娯楽としてのLARPの他に、社会問題などを題材にした芸術的・教育的(Nordic & Education)なLARPが数多く取り組まれています。
このLARPは、「慣れ親しんでいる安心で安全な生活世界に弊害が起きた時、未知で不安を伴う外の世界へ出るか、それとも弊害のある元の生活世界に留まるか」というジレンマを体験するそのような芸術的・教育的LARPです。
ジャンル: 抽象的な、または不条理なリアリズム
時間: 6時間
実際のプレイ時間: 3時間半
参加者人数: 3~7人 (必ず奇数にする)
プレイスタイル: 現実的だが、即興が多い
対象者:LARP初心者〜ベテラン
NPCをお引き受けするお返事をしてから、あらためてLARPのタイトル「安心からの脱出」を見て、「わたし自身が、安心からの脱出だよ!!!!」とつい叫んでしまいました。
自分が行ったことのない世界に行ってみたり、やったことがないことにチャレンジするのは、いつだってワクワクするし、楽しいです。
わたし自身は、TRPG経験者ではあるのですが、関東地方の片田舎に住み、さらに僻地の高校に通うオタク女子として、友人らが開催してくれる「ロードス島戦記」や「フォーチュン・クエスト・コンパニオン」に、プレイヤーとして参加するくらいでしたので、今から、TRPG道を極めていきたいと思います!
うっす!!
(写真は、「たのしーのひ」のまちあそび「人生ゲーム」より。「人生ゲーム」もまたやりたいなぁ…!)
プロパガンダ映画における美しさへの敬意~『人生はシネマティック!』
BBC(英国放送協会)フィルムズ他製作・ロネ・シェルフィグ監督の『人生はシネマティック(Their Finest)』のDVD&Blu-rayレンタルが開始したというニュースを聞きつけたので、さっそくレンタルしてみてみました。
執筆経験ゼロの女性が、「ダンケルクの戦い」で力を貸した双子の姉妹のエピソードをもとに、戦意高揚のためのプロパガンダ映画の脚本を執筆することになり、役者のワガママはもちろんのこと、政府によるプロパガンダ映画(!)なので、「これは戦意喪失につながるからダメ!」とか、「米国との関係を良好にするために戦地で活躍したイケメン兵士を役者で使え!」とか、戦時中ならではの無茶難題がいろいろ出てくる…というお話。
よく考えてみると、いずれの無理難題も、戦争やそのためのプロパガンダ、というバックグラウンドを考えると、笑えないものばかりなのだけれども、それをコメディ・タッチで描ききったところが、この作品が高く評価されている理由なのだと思う。
戦時下の言論統制の中で、脚本家が政府関係者からの無理難題を附きつけられ、それに知恵で対応していく姿をコメディ・タッチで描いた作品といえば、三谷幸喜の『笑の大学』を思い出す。
『笑の大学』の場合、書かれるべき脚本は、けして、戦意高揚のためのものではないし(検閲官から、そうなるよう求められる場面はあるけれど)、基本的には、検閲官との戦いが描かれている。
一方、『人生はシネマティック!』では、はじめから「プロパガンダ映画」を製作しようとしている点が異なっており、それが、本作のもっとも面白いところだと思う。
「プロパガンダ映画」といえば、この映画の製作に関わっているBBCは、1992年12月に、3回シリーズのドキュメンタリー番組『We Have Ways of Making You Think』 (日本では、日本経済新聞社より「メディアと権力」シリーズとして発行)を制作していて、そのシリーズの第1回で、ドイツのプロパガンダ映画を取り上げていた。
その名も、『Goebbels, master of propaganda (邦題:大衆操作の天才・ゲッベルス)』。
私は、このドキュメンタリー番組は、収録されている当時の映像や、関係者へのインタビューが相当貴重なものだと思っていて、以前、「言語文化論:メディア・ことば・社会」という授業を担当していたときには、かならず、学生たちと一緒にこの映像を見ることにしていた。
このドキュメンタリー番組のすごいところは、プロパガンダ映画のために人々を楽しませるためのあらゆる技法が開発されてきたこと、そのため(映画そのものとしては)非常に精緻で完成度の高い、美しいものであるということが、ある意味での敬意をもって表現されているところだと思う。
まさに、「本当に恐ろしい大衆扇動は、娯楽の顔をしてやってくる」(『たのしいプロパガンダ』)ということ。そのことを、当時の映像とインタビュー映像を通して、淡々と描きだしているところが、個人的には、とても好きだった。
このドキュメンタリー番組を見た上で、『人生はシネマティック!』を見てみると、そこには、共通して、戦時中のプロパガンダ映像に対する敬意のようなものが見られるように思う。
事実、『人生はシネマティック!』のロネ監督は、映画に対するメッセージの中で、「…また映画産業の歴史的遺産も盛り込んでいる。敬意が伝わるといいなと思います。脚本を読んで魅了された点は登場人物やトーンだけではありません。戦争中の映画の重要性というテーマも気に入りました。映画史の中のこの短い期間には、多くの名作が撮られ、映画が大事な意義を担っていました。それがストーリーの元を流れるテーマになっています。…」(『人生はシネマティック!』監督メッセージ&メイキング写真 「映画への敬意が伝わるといい」|Real Sound|リアルサウンド 映画部)と述べている。
日本では、「プロパガンダ映画」というと、それだけで忌避されたり、「当時はこんなヘンテコな映画が作られていたのかw」というような、嘲笑の対象として扱われることの方が多いような気がする。
そういう意味では、「プロパガンダ映画」そのものに対する距離感や価値づけといったものが、日本と欧米では、異なっているのかもしれない。
「プロパガンダ映画」を制作した人びとの努力やその中で開発されてきた多くの重要な映像制作のための技法。そして一方で、それによって、大衆の心が動かされてきたという事実。
その両者を見ていこうとすることが、(クリティカルな)メディア・リテラシーの第一歩なのだとすれば、まさに、その第一歩としてみておくべき映画なのではないか。
日本のプロパガンダ映画に対しても、同様のアプローチの映画が見られると良いのだけれど。もしそのような作品があるのであれば、ぜひ観てみたい。
プログラミング学習と言葉(記号)の学び~「レッツ!ピクトグラミング」~
青山学院大学相模原キャンパスで開催された、「レッツ!ピクトグラミング第1回: プログラミングを学んでみよう」に、行ってきました。
相模原市は、「ICT環境がなくてもできるプログラミング学習」を合言葉に、全国に先駆けて、小中学校でプログラミング教育を推進している自治体として知られていますが、学校外での取り組みも数多く行われているのですね!
「ピクトグラミング(Pictogramming)」は、青山学院大学の伊藤一成先生が、昨年12月に公開したアプリケーション。
「ピクトグラミング」とは、「ピクトグラム(Pictogram)」と「プログラミング(programming)」を合わせた造語で、このツールを使うと、いろいろなピクトグラムのイラストが作成できたり、さらには、ピクトグラムをアニメーションで動かせたり(!)できるてしまうという、すてきアプリ。
内海慶一(2007)『ピクトさんの本』を見て、「これは…!」となりそれ以来、「ピクトさん」との出会いを心のどこかで探し求めてきたわたしには、まるで夢のようなアプリです。
「Pictogrammingとは?」の説明には、次のように書かれています。
Pictogrammingは,Pictogram(ピクトグラム)とProgramming(プログラミング)を合わせた造語です.
プログラミングを学び始めるためのツールとして作用するかもしれませんし,ピクトグラムをつくるためのツールとして作用するかもしれません.
社会の諸問題を知ったり,解決するためにピクトグラムを活用してみませんか?
人型ピクトグラムはあなたの分身にもなります.自分を振り返り,自分の内面にある何かを表出してみませんか?
「プログラミングを学び始めるためのツール」であり、「ピクトグラムをつくるためのツール」でもある「ピクトグラミング」。
単に、プログラミングを学ぶためのツールではなく、なにか新たな作品(デザイン、アート...etc.)や新たな記号としての意味を創造できるというところが面白いですよね。
言葉の学習に関心がある者としては、やっぱり、学習者とともに新たな言葉(記号)の意味を創造していくような学びの場をデザインすることに関心があり、そういう意味でも、「ピクトグラミング」というツールによって創り出される学習環境に、とても興味がありました。
そこでさっそく伊藤先生に(突然)コンタクトを取ってみたところ、なんと幸運なことに、「レッツ!プログラミング」第1回に、ファシリテーターとして参加させていただけることになりました!
プログラミング教育は、まったく専門ではないうえに、「ピクトグラミング」では、2次元イラストを作成するところだけで満足してしまって(←「ピクトさん」ファンの限界)、アニメーション作成で遊び慣れているような段階ではなかったので、不安でいっぱいでした。
が、「プログラミング学習では、『先生』なんていない!みんなが、『学習者』だ!ピア・ラーニングだ!」と、自分が以前どこかで言ったようなことを、自らに言い聞かせて、ファシリテーターとして参加してみることに。
とはいえ、実際参加してみると、当たり前ですが、子どもたちはひとつ何かが達成できると、「あれも」「これも」といろいろ「やりたいこと」の妄想が広がっていくので、ファシリテーターとしては子どもたちの「やりたいこと」を一緒に実現したり、さらに遊び方の可能性を広げられるくらいには、遊び慣れていないとダメだったな…と反省。
次の機会までには、もっとアニメーションで遊んでおきたいと思います。
ファシリテーターとしては、自分の無能さをただただ実感するだけの時間でした。
が、そのようなかたちで関わらせていただいたおかげで、十分すぎるほどに、「ピクトグラミング」というツールによってひらかれる学習の姿を見ることができました。
続きを読む「Yes, and」と「Creative Disagreement」とネガティブな感情と~「ワタリーショップ×学びのリフレクション」
2018年3月30日に、横浜国立大学にて、教育×即興×省察 春の体験会「ワタリーショップ×学びのリフレクション」が開催されました。
6dim+(ロクディム)の渡猛さんによるワークショップ(「ワタリーショップ」)と、上條晴夫先生(東北福祉大学)と井谷信彦先生(武庫川女子大学)による「協働的な授業リフレクション」のコラボレーション企画。
上條先生によるリフレクションについては、以前、上條先生のご著書『実践・教育技術リフレクション あすの授業が上手くいく〈ふり返り〉の技術(1) 身体スキル』のレビューも書きましたので、そちらも御覧いただけるとうれしいです。
「ワタリーショップ×学びのリフレクション」は、定員を超える方々に参加申込をいただき、当日のワークショップおよびリフレクションも大変盛り上がりました!
ワークショップ後、SNSのグループなどで盛んにコメントのやりとりがなされ、参加者の方々の興奮冷めやらぬまま、新年度へと突入した感じがしています。
私自身、ちょうど、諏訪正樹(2018)『身体が生み出すクリエイティブ』(ちくま新書)を読んだばかりだったこともあり、本書に記載されている「からだメタ認知」に関する議論、クリエイティブになるための道筋などが、まさに、このイベントの中の、「ワークショップ(ワタリーショップ)」→「学びのリフレクション」の往還のなかで、ぎゅぎゅっと凝縮して体現されいる気がして、あらゆる瞬間が「ああ!これこれ!」という感じで、とてもエキサイティングでした。
一方、そんな中、ある参加者の方から、個人的に、ワークショップやリフレクションの中で生じる、ネガティブな感情の行く末、それとの接し方についてお問合せをいただきました。
わたし自身、今回のイベントの中で、そのことに少し違和感を感じていたこともあり、あらためて、インプロ・ワークショップやそれをめぐるリフレクションでの、ネガティブな感情の扱い方について、考えさせられてしまいました。
続きを読む性とか愛とかのカテゴリーと、それに戸惑うわたしたち―『恋とボルバキア』
本日、横浜にあるシネマジャック&ベティで公開中の、小野さやか監督『恋とボルバキア』を見てきました。
この映画、昨年12/9から公開されているのですが、ドキュメンタリ―映画であることもあって公開されている映画館が少ない。今回(たった1週間とはいえ)シネマジャック&ベティで上映され、それを観ることができたのは本当にラッキーでした。
『恋とボルバキア』には、「カラフルにトランスする恋とか愛とかのドキュメンタリー」というキャッチコピーが付けられているけれども、まさに、「カラフルにトランスする」とか「恋とか愛とか」としか言いようがないような…そんな、「何ものか」に括りきれない、わたしたちの性や恋や愛…そしてその遠くに見え隠れする家族のかたちを、ぎこちないままに見せてくれる映画だったと思いました。
2017年は映画レビュー記事の中でも、「2017年はLGBT映画が興隆」であることが話題になったり、日本でも、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」が登場する映画をいくつも見た実感があります。
しかし、その一方で、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」という言葉から零れ落ちてしまう生き方やアイデンティティ、関係性のありようから、かえって目がそらされていくような、そんな印象をありました。
政治的なカテゴリーとしての「LGBT」「性的マイノリティ」が着目されていく中で、その人自身の「こうありたい自分」の表現や権利の問題がクローズアップされている感じがあったのも事実だと思います。
もちろん、「こうありたい自分」を表現していくことも、自分が「こうありたい」と願うライフスタイルを実現するために権利を主張していくことは、とても重要なこと。
すべての人たちが、自分らしく生きていくためのエンパワーメントを、できるだけサポートしていきたい、とわたしも思う。
でもその一方で、「こうありたい」という願いばかりがクローズアップされたときに、その人をとりまく他の人たちとの関係性や、その人自身が他の人との関わりで変わっていくことのできる可能性を閉じてしまったりはしないのだろうか…という点が気にかかっていて、そのことが、自分のなかに、違和感として存在していました。
『恋とボルバキア』は、そんな違和感をそのまま、掬い取ってくれた映画だったように思います。
本映画の監督である小野さやかさんは、『i-D』のインタビューに次のように答えています。
——トランスジェンダーは、性別規範・役割を押しつけられたり、男性あるいは女性としての身体的特徴に違和感を持ち、服装や生活に切り替えたり、身体レベルで性別を移行する人もいる。しかし、そういう在り方が受け入れられる土壌は、例えば(男性から女性に性別を移行する)トランス女性なら「ニューハーフ」として水商売・風俗の世界が主だったりしますよね。だからこそ、「プロパガンダ」のような空間では、見られる自分を消費される代わりに華やかな自分こそを見てほしい、という意識に傾きがちなのかなとも考えました。そのあたりの強い自意識はアイドルの在り方に通じるとおもいます。
まさにその通りだとおもいます。ですが、私が撮りたいと依頼した出演者のみんなは、他者への関心がちゃんとあった人たちなんですね。撮られることはもちろん、他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける気概が感じられた。本人たちとちゃんと話したわけじゃないんですけど、「こう見せたい自分」という自意識から一旦離れて、やりとりができる人たちでしたね。映画っていう枠の中で、こちらがこんなふうに撮りたいって言うと、もっとおもしろい代案が出てきたり。( 恋と性の振る舞い:『恋とボルバキア』 小野さやか監督インタビュー - i-D)(太字は引用者)
映画鑑賞後、この記事を読んで、「ああ、なるほど。そういうことだったのか」と、納得してしまいました。
このドキュメンタリ―映画に出てくる人たち―その人たちの生きる性や愛のスタイル、性や愛の問題との関わりかたは、実にさまざまだけれども―、あの人たちに共有していたのは、「他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける」ことができるという…そういうことだったのだな、と。
「愛」も「性」も、そして「家族」も、誰かとの関係なしには成り立たないし、そうであるとすれば、そこに、他人との関わりが生じないはずがない。
だけれども、「LGBT映画」といったときに登場する他者のありかたは、どこか固定されていて、極端な言い方をしてしまえば、「アライ」か「非-アライ」かの二分法でくくられてしまっているように見えるときすらある。
「当事者以外」(と括られてしまっている人たち)にできることは、「当事者」の要求や表現を「受け入れるか」「受け入れないか」のどちらかで、当事者はほとんど変わることがない。
もしかしたら、わたしが感じていた違和感は、その「変わらなさ」なのかもしれない…とあらためて思いました。
もちろん、マイノリティに対して、マジョリティが「お前が変われ」と要求することは暴力でしかない。でもだからといって、「変わらない」ことを要求するのも、同じように暴力なのだと思う。
私たち皆の中に「変わりたい」と思える部分、「変わりたくない」と思える部分が存在していて、そしてそれは私たちの生活や人生の流れのなかで、流動的に変わっていきつつあるものでもあって…そういうなかで、愛や性の問題が出てきたり、消えていったりする。
そんな、考えてみれば、私たちすべてにとって当たり前に存在しているような世界。そんな世界を『恋とボルバキア』はそのまま、提示してくれている。
この映画は、シネマジャック&ベティでも、たった3/30までしか上映せず、その後も(地方映画館ではいくつか上映が予定されているところもあるようだが)あまり観られるところは多くないようで、とても、もったいないと思う。
この映画、これからどうなっていくんだろう…。
もっともっとたくさんの人たちに観てもらいたいし、その観た人たちといろいろな話がしてみたい。…そんなことを思わせる映画だった。
ネットワークを遊ぶ/ネットワークで遊ぶ―「39アート in 向島2018」
2018年3月1日~3月31日まで開催している「39アートin向島2018」に行ってきました。
「39アートin向島」とは、「サンキューアートの日」に地域で参加しているプログラムのひとつ。「39アートin向島」が始まったのが、2010年3月ですので、今年でもう9回目を迎えることになります。
墨田区押上に、東京スカイツリーがグランドオープンしたのが、2012年5月。
「39アートin向島」は、東京スカイツリー建設中から、そのオープン、そしてその後の展開を見守りながら、地域の人たちとともに展開してきたプロジェクトということになります。
その間、この地域のもつ意味も、そこに住んだり働いたりする人たちの層も大きく変化してきました。
新たな観光客や住民に向けたカフェなどがオープンし、「39アートin向島」にもたくさんのカフェが参加しています。
そのような中、墨田区京島エリアにあった長屋の取り壊しが決定し、その立ち退き期限である3月31日までの間に、取り壊しの決まった長屋を使用した展示や、そこでの様々なプロジェクトが展開されていたり(京島長屋82日プロジェクト)、
一方で、そのような街の変化のなかで残された活気ある商店街の中で、商店街とコラボレーションした展示があったり、
時代や社会の変化、都市構造の変化によって変わりゆく街と人々との関わりを、様々なプロジェクトが、それぞれに異なった切り口で、見せてくれる様が面白い、とあらためて思います。
そんな中、今回は幸運なことに、関わってきた期間は異なれど、このエリアでさまざまなプロジェクトを展開してきたお二人とガッツリお話する機会を持つことができました。
その中で、現在このエリアに新たに登場しつつあるキーワードとして、「遊び(play)」というキーワードが挙げられたのが、非常に面白かったです。
実際、お二人とのディスカッションのあと、「39アートin向島2018」を見てみると、社会や文化に対する「抵抗」「批判」というよりは、「支配/従属」「マジョリティ/マイノリティ」「ハイカルチャー/サブカルチャー」という二項対立そのものを無効化したり、転覆・融解させていくような「遊び」的なアプローチに立つ人たちや、プロジェクトの存在が印象に残りました。
変わりゆく街の風景に対しても、「対抗」「批判」的な姿勢でそれらを守ろうとしたり、もの申していくのではなく、
「なくなっていく」「捨てられる」という状況そのものを、クリエイティブの契機として捉えなおしていくアーティストがいたり、
これまでこのエリアで培われてきた人・モノ・コトの関係性をあえて「組み替えていく」ことで、新たな可能性を生み出せるのではないかと考える人たちがいたり、
これまでにあったさまざまな地域の資源に対する見方、培われてきたネットワークに対する発想のありかたが、これまでとは異なるかたちで展開していくような予感を、そこかしこに見ることができました。
これまでこのエリアでは、クリエイティブな活動のための「ポイント」が作られ、それらが相互に影響しあがら、新たな「ポイント」が生み出され、さらに「39アートin向島」を含むアートプロジェクトの中で、それらの「ネットワーク」を構築されてきました。
もしかしたら、今後は、さらにその創り上げられてきた「ネットワーク」をもとに、さらにそれらをプレイし、新たなネットワークの可能性を見出したり、ネットワーキングすることそのものを遊びながら、これまでとは異なるアプローチで創造的な活動が行われていく段階へと発展していくのかもしれません。