kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

こども×アート×ワークショップの原点~「ブルーノ・ムナーリ」展@神奈川県立近代美術館葉山

先週末まで、神奈川県立近代美術館葉山で開催されていた、「ブルーノ・ムナーリ こどもの心をもちつづけるということ」展に行ってた。

 

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「ブルーノ・ムナーリ こどもの心をもちつづけるということ」展:神奈川県立近代美術館<葉山館>

 

神奈川県立近代美術館葉山での展示は終わってしまったのですが、「かなチャンTV」の展覧会案内動画で、《読めない本》《旅行のための彫刻》《見立ての石》が紹介されていて、うれしい。

 


神奈川県立近代美術館 「ブルーノ・ムナーリ こどもの心をもちつづけるということ」展 2018/04/27Fri.

 

展覧会のホームページの方では、もっと、いわゆる「芸術作品」らしい(?)作品の写真が多く掲載されているように見えるのに、こちらの案内動画では、どちらかというと「子どもの遊び」っぽい方の作品が取り上げられていて、うれしい。

 

ブルーノ・ムナーリは、『ファンタジア』の中で、「未来の社会はすでに私たちの中に、つまり子供たちの中にある」…と言っているそうだけれども、子どもたちとのワークショップはもちろんのこと、本の装丁、デザイン・ワーク、そして初期から続くアート作品まで、「みんなの創造性のきっかけ」を創出することに、大きな関心を抱いていた人なんだろうな…ということが、ひとつひとつの作品から伝わってくる。

 

本展の担当学芸員である高橋雄一郎さんは、ムナーリが、本の雑誌や装丁を多く手がけけていることについて、次のようにコメントしている

これを読んで、あらためて、ブルーノ・ムナーリの一連の仕事が、ワークショップやデザインやアートや教育や…いろいろなところで行われている、「みんなの創造性のきっかけ」をつくりだすプロジェクトの原点になっているんだなぁ…と実感した。

 

 装丁の仕事は晩年まで手がけていました。ムナーリは、「芸術のための芸術」のようなものを目指した人ではないんです。自身の作品がいかに大衆に広く触れ、創造的なきっかけになるかということのほうが、むしろ関心があったのでしょう。だから、装丁のような仕事はバランスが取れたいい仕事だと、ムナーリはとらえていたのではないでしょうか。

ブルーノ・ムナーリって、何者?学芸員に聞く、ユーモアを忘れないマルチ・アーティストの創作の裏側|美術手帖)

 

展示室の最後には、ムナーリの制作した遊具で遊べるコーナーがあり、そこの解説で、ムナーリにとって、アートは、ラテン語の「芸術(ars)」と日本語の「遊び(asobi)」との二つの側面を持つものだというようなことが書かれていた。

いま、まさに学習における「play(ful)」に関心をもって、いろいろな研究や実践を行っているわたしとしては、「プレイ(play)」ではなく、日本語の「遊び(asobi)」がここで持ち出されていることに、興味を惹かれた。

 

「プレイ(play)」という英語を用いて議論することで、演技(play)、演奏(play)、遊び(play)を連続して議論していけるという面白さは確実にある。

たとえば、ミッチェル・レズニック『ライフロング・キンダーガーデン』において展開されている議論の面白さは、まさに「play」に関する議論にこだわったところから生み出されている、と思う。

  

 

一方、「遊び(asobi)」という日本語の言葉にこだわることによって、見えてくるものもありそうな予感がするのも、たしか。

ブルーノ・ムナーリによる子どもたちとのワークショップの映像を見ていると、これは「プレイ(play)」ではなく「遊び(asobi)」だという気がしてくる。

もちろん、レズニックが語っている「レゴ・マインドストーム」や「スクラッチ」をいかに子どもたちが遊び、学んでいるか?を具体的に見てみると、そこには、ここに見られるような「遊び」の要素も多分に含まれているのだけれども。

 

 

 これについては、もう少し自分自身でも考えてみたい。

 

ブルーノ・ムナーリ」展は巡回展で、このあと、北九州市立美術館、岩手県立美術館での展覧会が開催され、11月17日からは、世田谷美術館で見られるようになるとのこと。

今回ご覧になれなかった方は、ぜひ世田谷美術館での開催の折に、足を運んでみてほしい。

2018年6月23日~8月26日  北九州市立美術館
2018年9月8日~11月4日  岩手県立美術館
2018年11月17日~2019年1月27日  世田谷美術館

 (「ブルーノ・ムナーリ こどもの心をもちつづけるということ」展:神奈川県立近代美術館<葉山館>)

 

それにしても…

まだこれから展覧会が巡回していく予定だというのに、すでに図録が売り切れていて、(出版社在庫もなく!)プレミア価格で売られている状況になっているのは、どうにかならんのですかね…(汗)

 

わたし自身の「安心からの脱出」~TPPGフェストークショーで司会を務めることになりました

昨年夏、「いただきダンジョンRPG」開発者のひとりである加藤浩平さんと、偶然、お知り合いになるという僥倖に恵まれました。

 

おかげさまで、東京学芸大学で行われているTPRGの活動を、実際に見させていただいたり(詳細はこちら→コミュニケーションとゲーム研究会(コミュゲ研) )、その場にいらっしゃった遊学芸の保田琳さんご紹介いただけたりと、ラッキーなことばかりが続き…、

そんな幸せな偶然の出会いの連鎖の中で、ななななんと!

 

TRPGフェス2018のトークショーの司会を努めることになりました!

 

口頭発表パネル 9月2日(日)

タイトル:「教育研究・発達支援研究・メディア研究から見たTRPG・LARPの可能性」

発表者:

加藤浩平東京学芸大学TRPG、コミュニケーション支援論、発達支援方法論)

ビョーン=オーレ ・カム京都大学、パフォーマンス教育論、LARP教育論)

デニーズ・パシェンミュンスター大学、メディア教育論、LARP教育論)

司会:石田喜美横浜国立大学、読書教育論、メディア・リテラシー教育論)

 

時間:90分

(「トークショー | TRPG フェスティバル)より)

 

 

このトークショー自体がむちゃくちゃ面白そうなのに…

さらにその司会ができるなんて…

これが夢でないことが、すごい!

 

そんなわけで、これまで「司会」「モデレーター」なるものをするたびに酷評をいただいていたので、「もう絶対、司会なんてやらない!」と言い続けてきたのですが、そんなことも言ってられなくなりました。

 

さらに…!

まだきちんとお打ち合わせしていないので、どんな感じのことをやらせてもらえるのかワクワクドキドキ(!)なのですが、トークショーの前日に行われるLARP(ライブ・アクションRPG)セッションでもNPC(ノンプレイヤー・キャラクター)を努めさせていただけることになったりして、今から8月末が楽しみでたまりません。

 

LARPセッション  9月1日(土)

「安心からの脱出・Village, Shelter, Comfort

主催者ビョーン=オーレ ・カム京都大学)、加藤浩平東京学芸大学

テーマ

北欧などのヨーロッパでは、娯楽としてのLARPの他に、社会問題などを題材にした芸術的・教育的(Nordic & Education)なLARPが数多く取り組まれています。

このLARPは、「慣れ親しんでいる安心で安全な生活世界に弊害が起きた時、未知で不安を伴う外の世界へ出るか、それとも弊害のある元の生活世界に留まるか」というジレンマを体験するそのような芸術的・教育的LARPです。

ジャンル: 抽象的な、または不条理なリアリズム

時間: 6時間

実際のプレイ時間: 3時間半

参加者人数: 3~7人 (必ず奇数にする)

プレイスタイル: 現実的だが、即興が多い

対象者:LARP初心者〜ベテラン

詳しい情報https://www.b-ok.de/ja/vsc_larp/

LARP | TRPG フェスティバルより

www.b-ok.de

 

NPCをお引き受けするお返事をしてから、あらためてLARPのタイトル「安心からの脱出」を見て、「わたし自身が、安心からの脱出だよ!!!!」とつい叫んでしまいました。


自分が行ったことのない世界に行ってみたり、やったことがないことにチャレンジするのは、いつだってワクワクするし、楽しいです。

 

わたし自身は、TRPG経験者ではあるのですが、関東地方の片田舎に住み、さらに僻地の高校に通うオタク女子として、友人らが開催してくれる「ロードス島戦記」や「フォーチュン・クエスト・コンパニオン」に、プレイヤーとして参加するくらいでしたので、今から、TRPG道を極めていきたいと思います!

うっす!!

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(写真は、「たのしーのひ」のまちあそび「人生ゲーム」より。「人生ゲーム」もまたやりたいなぁ…!)


まちあそび『人生ゲーム』PV

思考によるリフレクション/身体によるリフレクション~上條晴夫『実践・教育技術リフレクション あすの授業がうまくいく〈ふり返り〉の技術(1)身体スキル』~

東北福祉大学の上條晴夫先生から、『実践・教育技術リフレクション あすの授業が上手くいく〈ふり返り〉の技術 (1) 身体スキル』(合同出版)をご恵投いただきました。

 

 

「あすの授業が上手くいく」という、教育技術のマニュアル本によくあるフレーズと、「リフレクション」「振り返り」という言葉が共存していることの奇妙さに、違和感を感じつつ、一方で、そういったディスコースの矛盾の中に、未来の可能性を見出してきた者の一人として強く興味を惹かれ、さっそく読んでみました。

 

すべてを読み通してみて、この書籍自体が、試行錯誤のプロセスの中にあるものだという印象を受けました。いただいた添書の中にも、本書が実験的な試みとして作られている旨が記載されていたけれども、まさに、ひとつの試行・実験として、世に出された本だという感じがします。

 

そんな本書の実験の中で、興味を惹かれたのが、読者自身に、自身の実践の「リフレクション」を促そうとする部分。

本書の中では、教師に求められる「身体スキル」を8つに分類し、それぞれのカテゴリーに分類された各スキル(例:「共犯関係をつくりだす」「フォローの技を磨く」など)に対して、

「思考でリフレクション!」

「身体でリフレクション!」

…という、2つのタイプの「リフレクション」が求められるようになっています。

 

面白いのは、後者の「身体でリフレクション!」があるというところ。

これまでも「振り返り」「リフレクション」の大切さは何度も繰り返されてきたけれども、そのときに重視されるのは、どちらかというと認知的な部分(「思考でリフレクション」)であったように思います。

それに対して、身体的な感覚や感情を用いて振り返ることを、このような教育技術マニュアル本の中に入れ込んできた(!)ところが面白いです。

私は以前、コルトハーヘン『教師教育学:理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ』学文社)を読んだ際、「ALACTモデルにおける第2局面で有効な具体化のための質問」に、「あなたはどう感じたのですか?」「生徒たちはどう感じたのですか?」という、感情について振り返りが入っていることに、とても感銘を受けました。

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今回の本書の試みは、そのような感情についての振り返りを、教育技術マニュアル本の中に盛り込んでいこうとする試みなのかもしれません。

 

一方、せっかく「身体でリフレクション!」として紹介されているにも関わらず、認知的な振り返りにとどまるような問いかけになっている(と思われる)ものもけっこうあり、それが残念なところでもありました。

それは、もちろん、身体的・感情的にリフレクションをする、ということが、マニュアル化しにくいことの証でもあるように思います。そういう意味では、身体的・感情的にリフレクションをするための問いのありかたについて、本書から考えさせられる部分は、とてもたくさんありました。

 

たとえば、「一緒にゲームを楽しむ(スキル5-4)」(pp.72-73)の「身体でリフレクション!」は次のようなものです。

 

① あなたは、子どもと一緒に学ぶことを十分に楽しんでいますか?

② あなたは、子どもと一緒に学びの「フロー体験」をしていますか?

③ あなたは、子どもと一緒に学びの達成感を得ていますか?

 

これらの問いは、自分が授業のなかで感じていた自分の身体のありかた、感情の動きのようなものを見つめなおすきっかけとして機能してくれるように思うのです。

授業後に、自分を振り返ってみたときに、「今日の授業は、(子どもたちは楽しんでいたけど)私は完全にサーバント(servant)だったな」とか、「今日は、みんなで一緒に学んだー!って感じがしたな」とか、考えるときがあるけれど、まさにそれを引き出してくれる問いだという感じがする。

 

一方、その直前にある「チューニングをする(スキル5-3)」(pp.70-71)の「身体でリフレクション!」には、次のように書かれています。

 

① あなたは、子どものファッションに関心を向けていますか?

② あなたは、子どもの「エンタメ」行動に関心を向けていますか?

③ あなたは、子どもの人づき合いの仕方に関心を向けていますか?

 

たしかに、子どもの表現に「チューニング(同調・調律)」していくために、これらのようなことを普段から意識しておくことはとても大切だとは思うのですが、これらが「身体でリフレクション!」するための問いかけになっているだろうか…と考えると、少し疑問です。

「チューニングできた!」「チューニングがうまくいかない!」という感覚は、身体的・感情的な現象なので、その部分にフォーカスしないで、それがしやすくなるための条件の部分を問いかけても、「チューニング」の経験には迫れないような気がするのです。

逆にいえば、子どもたちのファッションや「エンタメ」行動、人付き合いの仕方に関心を向け続けていたとしても、〈いま・ここ〉の場で、チューニングしようと意識し、身体を意図的にオープンな状態にしないと、チューニングはできないのではないか?と思うのです。

 

上條先生には、今年の8月20日に、夏休みお試し版「即興×リフレクション体験会」を横浜国立大学にて開催していただいました。

 

aosenn.hatenablog.com

ameblo.jp

 

その時に、「即興×リフレクション」体験会での、リフレクションの際のポイントを実行委員の皆さんが考え、言語化されていたのですが、このようなポイントの提示のありかたが、身体的・感情的な振り返りを促していくためのひとつのヒントになるような気がしています。f:id:kimisteva:20170820094358j:plain

そのような意味では、同じく8月に行われた国際ワークショップ「パフォーマンス心理学の未来」を踏まえてこの日に行うことになった、「演じるリフレクション」が本書の中で紹介されているにもかかわらず(p.121)、この日に共有されていたこれら3つのリフレクションのポイントが触れられていなかったのは、ちょっぴり残念でした。

 

① 学び手としての自分の実感を語りましょう。

② 生まれたての言葉で語りましょう。

③ 一緒に意味を作ってみましょう。

 

「即興×リフレクション」体験会では、さまざまな「即興」や「リフレクション」の在り方が紹介されていましたが、その多様な「リフレクション」に通底するポイントとして、これら3つのポイントが導き出されていたのだとしたら、私たちはこれをもとに、「リフレクション」のありかたを考えていくことができるのではないか?とあらためて思いました。

 

たまたま噂で耳にしたのですが、現在ふたたび、「即興×リフレクション」のイベントの企画が動き出しているようです。

次回の開催も楽しみにしています!

アイデンティティのブリコラージュ―横浜吉田中学校DSTプロジェクト

お題「最近気になったニュース」

*1

 

2017年12月19日の東京新聞に、横浜吉田中学校でのDST(Digital Story Telling)プロジェクト記事が掲載されたとのお知らせをいただきました。

www.tokyo-np.co.jp

横浜吉田中DSTプロジェクトは、横浜国立大学で学んでいる留学生や日本人学生がサポーターとなり、横浜吉田中学校に在籍する外国につながる生徒たちの語りをともに生成し、彼らのストーリーを、映像作品(=デジタル・ストーリー)にしていくプロジェクト。

このプロジェクトの作品上映会が、12月9日に、横浜吉田中学校にて開催されたのですが…

このたび、私、幸運にも、その上映会に参加することができました!*2に、共同研究メンバーとして参加しているためです。上映会は広く公開しているわけではなく、学校の関係者やプロジェクト関係者、保護者の方のみをお呼びして小さなかたちで行われているようでした。))

 

DSTについては、これまでも、メディア・リテラシー教育の観点から関心をもっていたのですが、今年度に入って、小川明子(2016)『デジタル・ストーリーテリング:声なき想いに物語を』(リベルタ出版)を読んで、あらためて、自分自身の研究的な関心との接点を見出したり、

 

環境学習と創作支援グループ「耕す人々」で、DSTプロジェクトに取り組んでいる池田佳代さんによる研修会に参加させていただき、その「市民メディア」としての可能性について考えたり…といったことがあり、

tagayasuhitobito.jimdo.com

今回の横浜吉田中DSTプロジェクトでどのような作品が制作されるのか、上映会はどのような雰囲気の中で行われるのかに、とても関心がありました。

 

そんな期待を膨らませながら、当日、横浜吉田中学校に行ってみたわけですが…

上映会は、わたしが想像していたものとは、まったく異なっていました!

 

たとえば、東京新聞の記事中には、次のような上映作品のエピソードが紹介されています。

制作した映像は二分程度。大学生と一緒にストーリーを考え、それに合った写真を探したり、新たに撮影したりした。写真はタブレット端末に取り込み、生徒がナレーションを吹き込んだ。一月に中国福建省から来日した林盛(リンセイ)さん(14)は「最近あまり連絡を取れないから」と、中国に残る友人の写真で映像を作った。「日本語は苦手。でも大学生と交流でき、楽しかった」と笑顔だった。

この記事だけ読むと、林盛(リンセイ)さんが、自分がすでに持っていた友人の写真(とそれに関連した写真)を使って、デジタル・ストーリーを構成したように読めますよね。

わたしも、実際に、そういうイメージを持っていたんです。

ストーリーの語り手がすでに持っている写真や、語り手の思い出に関するモノを新たに撮影したものを中心に、デジタルストーリーが構成されるんだろう…って。

 

でも、全然、違いました。

いや、もちろん、そういう写真も使われてはいるのですが、それと同じくらい…いやそれ以上に、ポピュラー・カルチャーや、デジタル・カルチャー系の画像が多い!!

自分の写真、友達や家族の写真にしても、写真加工アプリ「SNOW」で撮影された、加工写真だし。

toyokeizai.net

東京新聞の記事にも紹介されていた、林盛(リンセイ)さんが、離れ離れになってしまった中国の友人との"距離感"を表すために使われた画像は、Google Mapだし。

おそらく著作権に配慮してのことだと思われますが、「いらすと屋」ワークが炸裂していたものもあり、個人的にはそれも面白かったです。

matome.naver.jp

そしてもちろん、ゲームや、マンガ、アニメ、アイドル(K-POP!)などの、ポピュラー・コンテンツもたくさんあり、作品上映後のディスカッションでは、参加者たちが、自分たちの「推し」を語り合う場面も…(むろん、わたしも参戦!)

 

そんな中学生たちのデジタルストーリーの作品群を見ていると、

彼らが、今、生きている日本の横浜という場所で、自分の「好き」を見つけたり、そこから自分の立ち位置を見出したり、自分のルーツや未来とのつながりを思い描いたりしている様子が、わたしにも、なんとなく伝わってくるようで、

「わかる、わかる!EXO、サイコーだよね!」などと、ウンウンうなづいたり、大笑いしたりしながら、とても幸せな時間を過ごしました。

 

最近読んだ、『ニュースウィーク日本版』の記事「「見た目外国人」の日本人親子を苦しめる誤解 」では、日本の「単一民族神話」のなかで、受け入れられない、外国にルーツをもつ子どもの現状が報告されていました。

また、『WIRED』の「多言語の家庭で育つということ:シリーズ「ことばとアイデンティティ」]の記事では、「自分らしく生きていくための言語」という小見出しで、次のような文章がありました。

 

自分らしく生きていくための言語


国籍もばらばら、家族のかたちもばらばらの4組。どこへ行っても「どこから来たの?」と問われる彼らの心中は計りしれない。どの家族も、家庭環境に応じていちばん見合う言語を家族間の共通言語にしている。また、家族間に言語の壁を生じさせないように、意識的にバイリンガルトリリンガルになっているようだ。彼らの証言からわかることは、幼いころから「国籍」と「言語」と「アイデンティティ」を考えざるをえない状況のなかで、言語とともにコミュニケーション能力を身につけ、日本にいながらその枠にとらわれずに生きているということだ。 

 

どちらも、今年12月に入ってから発表された記事です。

そして、横浜吉田中DSTプロジェクトの記事が、東京新聞に掲載されたのも、12月19日。

 

今年に入ってから、5月に行われた全国大学国語教育学会での公開講座「インクルーシブ教育とアクティブラーニング~多言語・多文化と授業づくり~」を皮切りに、多言語・多文化と関わる機会がますます多くなりました。

12月に入ってから目にするこれらの記事は、今後、ますますこの問題が大きな問題となっていくことを予測しているような気がします。

 

*1:f:id:kimisteva:20170830143105j:plain写真は、宮城県石巻市街地にあったグラフィティ

*2:私が上映会に参加できたのは、今年度から、横浜国立大学の学内プロジェクト「外国に繋がるこども・若者との共生社会教育研究モデル『ヨコハマ−神奈川モデル』の確立に向けたネットワーク構築」事業

「評価」と「批評」―『グローバル化時代の教育評価改革:日本・アジア・欧米を結ぶ』

大学院の授業で、田中耕治(編著)『グローバル化時代の教育評価改革:日本・アジア・欧米を結ぶ』(日本標準)を読んでいます。

 

今週の授業では、渡辺貴裕先生(東京学芸大学)の英語圏における芸術教育の評価の新展開」(第3章第4節)を読みました。

芸術教育において、「スタンダード」に基づく評価が広がる中で現れてきた「スタンダード」路線に対する批判。そして「スタンダード」とは異なるオルタナティブな評価のありかたを探ろうとする試み。

整理されたそれらの議論は、他ならぬ私自身が、水戸芸術館・高校生ウィークの中で「アートライティング」や「書く。部」に関わる中で考えてきたこと、2010年に「Tokyo Art Reserach Lab」の立ち上げに関わる中で考えたことに重なる部分が多々あり…、自分自身がこれまで行ってきたことと、これから行おうとすることをつなぐための道標を与えられたような気がします。

 

授業の中で、議論の中心になったのは、「批評(curitique; criticism)」「評価(evaluation)」の違い(あるいは,教育評価の文脈においてそれらは異なるのか、ということでした。)

本論文では、以下のようなアイズナーの議論が紹介されています。

「スタンダード」に関してアイズナーは、デューイ(Dewey, John)の『経験としての芸術』における、「スタンダード」は期待を固定するもので、「クライテリア(criteria)」は重要な質を効率的に探るためのガイドラインであるという区別を踏まえ、評価において重要なのは「スタンダード」ではなく「クライテリア」であるとしている。(p.203)

またその上で、アイズナーが、教師自身がこのような「鑑識眼」を持つべきとするこのようなアプローチとは別に、生徒自身の「鑑識眼」を育てようとするアプローチにも着目していたことを示す事例として、生徒同士による相互批評活動である「クリット(crit)」を取り上げています。

 

言葉の役割に注目した評価は別の形も取り得る。アイズナーが生徒による相互評価の一例として取り上げている、「クリット(crit)」と呼ばれる、教室で生徒同士が行う相互批評の活動もその一つである。

アイズナーは、芸術教育における評価について、教師が「鑑識眼」をもつことの重要性を述べていた。「クリット」は、生徒自身も「鑑識眼」を育てる必要があること、その際に言葉を用いた交流が有効であること、こうした活動そのものが評価という観点で捉えられていることを示していると考えられる。(以上、p205) 

 

ここで、「評価(あるいは、相互評価)」と「批評(相互批評)」という2つの用語が用いられていることが、議論の焦点になりました。

「スタンダード」と「クライテリア」の区別に関する議論を引き継ぐのであれば、「評価(evaluation)」と「批評(critique)」には重要な違いがあり、生徒たちの「鑑識眼」を育てるためには、(いわゆる「相互評価」ではなく)「相互批評」が重要だと理解できる。

一方、「クリット」に関する議論だけを見れば、「評価」「批評」が互換可能な用語として用いられているようにも見える。(もしかしたら、広義の「評価」と、狭義の「評価」があるのかもしれない。)

そうだとすると、教育評価の文脈において、私たちは「評価」「批評」との関係をどのように考えたら良いのだろうか…というのが、議論のポイントでした。

 

「『レビュー』と『批評』は異なるもの。『レビュー』は鑑賞者に向けて書かれるもので、『批評』は作家(や、作品全体をとりまくアートワールド)を育てるために、作家に向けられるもの」、

「地域アートへの『評価』はこんなにも議論されているのに、地域アートには『批評』が育っていない」…などの言葉を社会人として駆け出しの頃にたくさん聞いてきたわたしとしては、「評価」と「批評」を同じものとして考えるという発想がそもそもなかったので、この論点はかなり斬新でした。

 

確かに、本書を読み進めてみると、本章の「小括」で、次のようなまとめがなされていたりもして、やはり教育評価の文脈では、「評価」と「批評」の違いを分けて議論することには、あまり重きが置かれていないのではないか…と思ったりもしました。

この実践においては、ルーブリックの各レベルの「記述語」をきっかけとして、子どもの学習のリアルな姿が現れ、「共通のつまずき」が表れている。また、子どもの意識は「次のレベルに達するにはどうしたらよいのか」という学習改善の方法に集約される。この事例は、日本では総合学習の評価法として注目を浴びた「ポートフォリオ評価」における「検討会」の1つでもあり、まさしくアイズナーが示した「クリット(相互批評)」と軌を一にするものである。ここに、評価と学習改善をつなぐ1つの策が提示されているのではないだろうか。(p 213)

 

ポートフォリオ評価」における「検討会」が、「相互批評」として成り立つかどうかかは、その「ポートフォリオ」がどのようなもので、どのような学習活動の中で、どのように創り出されるのか、にもよると思うのですが、ポートフォリオ評価の検討会というものすべてが、芸術教育における「相互批評」と軌を一にするのかどうか、なぜそう言えるのか、が私にはわかりませんでした。

 

水戸芸術館・高校生ウィークのなかで、生徒たちの「鑑識眼」を育てるための「批評」の芽となるような活動を、何度か目にしたり、自分自身も企画運営をしたりする中で、やっぱりそれは「評価(evaluation)」というものとは、異なるのではないか、と感じています。

 

例えば、2007年に茨城県水戸第一高校の美術部の皆さんと一緒に行った、《夏への扉―マイクロポップの時代》展のギャラリーガイドの作成

この活動では、みんなでそれぞれ下書きを書いてきたあとに、その下書きについて、お互いにいろいろコメントしあったり、最終的にどういう「ギャラリーガイド」を作ろうか、という話をしました。

私が、有馬かおるさんの作品について紹介するために書いてきた原稿がこちら。

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この原稿について、「これは、このままの感じがいいから、このまま載せたほうがいいんじゃないか」と提案してくれたのは、参加してくれた高校生たちでした。

高校生たちが、「これはこのまま載せよう」と言ってくれたので、他の作品紹介文が、すべて活字化されてホームページで載せられるなか、これだけはいまだに画像ファイルでそのまま見ることができます。

 

このときの、私たちは、たぶん、「(相互)批評」をしていたんじゃないかと、今になって思います。

「批評」とは、「事物の美点や欠点をあげて、その価値を検討、評価すること」(『日本大百科事典(ニッポニカ)』)。つまり、まだ価値が定まっていないある対象に対して、その価値を見出したり、創り出したりあるいは対話によってその価値を交渉し見定めていくことであるともいえると思います。

これに対して「評価」は、その価値を判定すること、判断することに重きが置かれているように思います。

私たちが行っていた活動が、「(相互)評価」だとしたら、この原稿はそのままのかたちで残されていなかった気がします。

この原稿から提起される何か、価値のようなものに対して、対話の可能性が開かれている「批評」だからこそ、この原稿の価値が交渉される可能性が残されていた。そしてこの原稿の価値が交渉されるなかで、新たな価値が見出され、その結果として、素朴でありながらどこか本質を突いたような多くの言葉たちが、そのままのかたちで「ギャラリーガイド」となり、それがいまでも、このようなかたちで残されているのだと。

そしてこのときは、幸いなことに、《夏への扉》展の共同キュレーターでもあった美術批評家の松井みどりさんに、このギャラリーガイドをご覧いただき、松井みどりさんご自身から、ギャラリーガイドに対するコメントをいただくという僥倖にも恵まれました。

 

考えてみれば、高校生ウィーク「写真部」を含む、松本美枝子さんの写真ワークショップで起きていた、高校生や大学生、大人たちのやりとりも、それぞれに何らかの「批評」性を持っていました。

ピア・グループ型ワークショップによるメディア・リテラシー学習の支援:高校生対象の連続ワークショップ「写真部」を事例として

 

そこで起きていたさまざまな「学び」とその「学びのみとり」をめぐる相互行為を、あらためてきちんと見直し、「評価」の視点から言語化し、論述することが必要なのかもしれません。

本や雑誌がわたしたちに教えてくれるもの~アイデアを生み出すためのザッピング読書

大学で担当している演習授業「国語教育演習Ⅰ」では、毎年、国語教育・読書教育関連の学術雑誌を「乱読」「ザッピング」する活動を実施しています。

 

 ザッピング読書に思いいたるまで

本や雑誌の「乱読」「ザッピング」には以前から関心を持っていたのですが、外山慈比古『乱読のセレンディピテイ』を読んだり、嶋浩一郎『なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか』を読んだりして、一見関係なさそうに並んでいる本をザッと見比べたり、タイトル同士に思いがけないつながりを見出したりすることで生まれるアイデアについてあらためて考えさせられたこと。 

 

  さらに、『Courrie Japon』のウェブページで読んだスプツニ子!さんのコラム「Vol.30 手にした情報の「結びつけ方」で、新しいアイディアは生まれる」を読んで、あらためて、アイデアを生み出すための本の読み方として、「乱読」「ザッピング」を捉えてみたい!と思ったこと。

courrier.jp

そんな経験から、ここ数年ずっとそんな実践研究に取り組んでいたりします。

例えば、こちら。

JAIRO | 読書体験を共有する活動に着目したワークショップ・プログラムの実践

JAIRO | <リーフレット>こどもニンジャ(にんじゃ)図書館合戦(としょかんがっせん)あそび方(かた)ガイド

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教員を目指す学生の皆さんに役立つかもしれない学習指導要領関係情報

新年度が始まってはや2週間。

ついに先週から、勤務校での授業「初等国語科教育法」もはじまりました。

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すでにニュース等でご存じのお方もいらっしゃるように、今年3月末には、次期学習指導要領が公示されました

 

「ICT Connect 21」のサイトでは、いちはやく、次期学習指導要領に関連するリンクをまとめたページが作成され、多くの方がこちらのページを参照していたようでした。

ict-enews.net

ictconnect21.jp

 

「初等国語科教育法」の受講者の多くは、大学2年生。

文部科学省によって示されている「次期学習指導要領改定に関する今後のスケジュール」によれば、小学校学習指導要領は平成32(2020)年4月より実施、中学校学習指導要領は平成33(2021)年4月より実施です。

 

つまり、小学校教員を目指す学生たちは大学を出て働きはじめた途端に、中学校教員を目指す学生たちは働きはじめて1年目に、学校で扱うカリキュラムの基準が新学習指導要領に切り替わることになります。

 

第1回目のオリエンテーションで、学生たちにそんな話をしてみると(もちろん次期学習指導要領が公示されたことすら知らない学生が大半ですが)、やはり次期学習指導要領について意識している学生たちは、「これからどうなっていくんだろう?」「自分たちはこれからどんな準備をしたらいいんだろう?」と不安を持っているようです。

 

現時点では、わたしにも「これをやっておいたらいい!」という明確な答えを提示できる用意はありませんが、せめて、わたしが今、授業で向き合っている学生たちと同じ不安を抱えている学生たちに、自分が参照している情報そのものを示すことはできます。

 

不安を抱えている学生たちのにとっては、そもそも、次期学習指導要領を見る方法も、現行の学習指導要領とどこが異なるのかを知る方法も明らかでないようでした。

 

ですので、現時点で公開されている参照可能な情報を、以下に示しておきたいと思います。

 

(新)学習指導要領(本文)

★ 小学校学習指導要領(平成29年3月公示、本文のみ)文部科学省(PDF)

★ 中学校学習指導要領(平成29年3月公示、本文のみ)文部科学省(PDF)

 

(現)学習指導要領(本文)

★ 小学校学習指導要領(平成20年3月公示、ポイント、本文、解説等):文部科学省

★ 中学校学習指導要領(平成20年3月公示、ポイント、本文、解説等):文部科学省

 

新学習指導要領と旧学習指導要領の違い(新旧比較表)

★ 3月31日告示 新学習指導要領反映 新旧対照表一覧 | 学校図書株式会社

www.gakuto.co.jp

 

ポイントの解説(文部科学省の解説動画)

学習指導要領改訂に関しては、その方向性について平成28(2015)年10月~11月に、動画による解説が公開されています。

中央審議会での審議のまとめを踏まえて、方向性だけを示した動画なので、現在公示されている学習指導要領の内容に比べると具体的でない部分が多いですが、ざっくりと方向性をつかむときには参考になります。

 


学習指導要領改訂の方向性について:文部科学省

 


「審議のまとめ」解説① 「審議のまとめ」に至るこれまでの経緯と「社会 に開かれた教育課程」の実現

 


「審議のまとめ」解説② 何ができるようになるか-育成を目指す資質・能力-