kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「正しい」ジェンダーの演じ方を求める世界のなかで~『息子のままで、女子になる』

日本質的心理学会第18回大会(10/24国内大会)のなかで、いくつか、「ジェンダーとパフォーマンス」が話題になりそうなシンポジウムに参加することになったこともあり、『シアターアーツ 3:演技・身体の現在』(晩成書房)に掲載されていた、ジュディス・バトラー(吉川純子訳, 1995)「パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成」を読んでいます。

現在の自分自身のコンテクストを踏まえながら、あらためて丁寧に1つ1つの文を解釈しながら読み直してみると、以前にも出会ったかもしれないキーフレーズがふたたび新たな輝きを見せてくれたり、以前には気づかなかったものに気づくことがあります。

 

表現と演技/推敲の区別は非常に重要である。と言うのは、もしジェンダーの属性、行為/演技、すなわち身体がさまざまなやり方でその文化的な意味作用を示すこと、作り出すことが遂行的であるなら、行為/演技や属性を判断する基準となるアイデンティティは、前もって存在しないことになるからだ。ジェンダーの行為/演技や属性には、本物もにせものもなく、現実味のあるものもゆがんだものもなく、真のジェンダーアイデンティティなるものは、規制力を持つ虚構なのだとわかるだろう。(バトラー, J. 吉川純子訳, 1995, p68)

 

バトラーは、「表現(expression)」と、「演技/遂行(performativeness)」を区別して考えることを提案し、ジェンダーとは前もって存在する何かを「表現」するものではなく、ジェンダーとは「演技/遂行」なのだと述べます。

ここでは「真のジェンダーアイデンティティなるものが「規制力を持つ虚構」であることも述べられています。

 

自らのジェンダーの演じ方を誤れば、露骨に、かつ遠回しなかたちで処罰を受けることになり、うまく演じれば、やはりジェンダーアイデンティティという実体があるのだと安心させることになる。(同上, p69)

 

こんな論文を読んでいた矢先に、サリー楓さんが「世に出る」までのプロセスを追ったドキュメンタリー映画息子のままで、女子になる(英題:You decide)を鑑賞しました。

 

 

この映画についてはいくつもの紹介記事・レビュー記事があるけれども、私がなによりもこの映画を観よう、と思ったきっかけになったのは、朝日新聞GLOBE+のインタビュー記事「LGBT理解の「同調圧力」超えて トランスジェンダー、サリー楓さんが父親に見た希望」でのサリー楓さんの以下のコメントが、とても印象的だったからだ。

 

「私はまだ理解できない」とはっきりと言ってくれたことが、何か父親としての責任を果たしているような気がして尊敬したし、うれしかったです。

でもそうはっきり言ってくれたことで、学び合える面もあると思うんですよ。私も色んな情報を提供したり、自分の気持ちを言えたりするので。

そこは何か、父親としての責任を果たしているような感じがして、うれしかったです。もちろん、受け入れてもらえるのが一番ハッピーエンドなんですが、でも世の中の「認めてあげないといけない」みたいなある種の同調圧力に乗っかって、表面上だけ親子を取り繕うよりはよかたったです。私にとってはかけがえのない財産になりました。(朝日新聞GLOBE+のインタビュー記事「LGBT理解の「同調圧力」超えて トランスジェンダー、サリー楓さんが父親に見た希望」

 

このコメントを見て、この映画はいわゆる「LGBT映画」みたいなものではなく、いろいろな意味で――企業への就職、トランスジェンダーとしての出発、そして「ミス・インターナショナル・クイーン」へのエントリーー今から「世に出よう」とするプロセス、社会という複雑に編み込まれたテクストの中に自分を位置付け、誕生させるプロセスを追った映画なのだろう、と思い、映画館に足を運ぶことにしました。

globe.asahi.com

 

想像したとおり、この映画を鑑賞したあとの印象は、私のなかで、朝井リョウ監督・脚本の『何者』に近く、「LGBT映画」というよりは「就活映画」でした。

 

『何者』をはじめ、「就活」をモチーフとした作品のなかでは、「何者かになること」「社会のなかで自分の位置を見出すこと」への苦難や葛藤が描かれるように、このドキュメンタリー映画のなかに描かれるサリー楓さんの葛藤や苦悩も、徹底的に「何者でもない/何者にもなれない」自分に向けられている気がします。

 

そしてその「何者でもない/何者にもなれない」自分が、「何者か」になる方法を求めて、とにかく必死で藻掻きながら、それでも、画面上にあらわれるサリー楓さんの表情は、いつも、同じ写真を見続けているかのように、ピッタリと変わらない同じ笑顔のままで、そのギャップに終始、ぞっとさせられました。

アニメーション《就活狂走曲》では、まさにピッタリと変わらないままの笑顔が、「就職活動」への皮肉として用いられ、その恐怖を描き出しますが、私には、映画中のサリー楓さんの笑顔が、そのようなものに見え続けていました。

 

 

 

それで、思い出したのが、本記事冒頭にも示したバトラーの言葉でした。

 

自らのジェンダーの演じ方を誤れば、露骨に、かつ遠回しなかたちで処罰を受けることになり、うまく演じれば、やはりジェンダーアイデンティティという実体があるのだと安心させることになる。(同上, p69)

 

本映画の英題は「You decide」です。

これは映画中、サリー楓さん自身のスピーチの中でも出てくる言葉で、自信を表明するような力強い言葉でもあるのだけれど、映画全体の文脈のなかでの「You decide」という言葉の意味を再度考えてみると、それは、「自らのジェンダーの演じ方は誤っているのではないか」という不安に裏打ちされた言葉なのではないか、と思えました。

決めるのは「わたし」ではなく、あくまで「あなた」なのだというメッセージは、そういう意味で、とても不安定です。

 

本映画の終盤に出てくる、はるな愛さんとサリー楓さんの対談は、それまで映画中に登場するさまざまな強さと弱さの揺らぎを、一息に貫きつつ、それすべてを包摂してしまうような、ものすごいパワーに溢れていて、まさに「圧巻」です。

そこに、答えがあるというわけではないのだけれども、少なくとも、ジェンダーを正しく演じることで既存のジェンダーアイデンティティを承認し続けること、でも、ジェンダーの演じ方を誤り処罰を受けることでもない、別の「第三の道」を探し求めることは可能であることを、示唆してくれるような気がします。

f:id:kimisteva:20200325164039j:plain

塩田千春《記憶の雨》(金沢21世紀美術館

 

言語学SFで描かれるフェミニズム・ユートピア~李琴峰『彼岸花が咲く島』

彼岸花が咲く島』で芥川賞を受賞した李琴峰さんの芥川賞受賞スピーチが話題になっているのを目にし、その中で、彼女が受賞式後、数多の攻撃を受けていけながらそれを「彼らは心無い言葉によって、『彼岸花が咲く島』という小説を、寓話的なフィクションから、より一層予言に近づけたのです。」と跳ね返しているのを見て、「これは読まねば」と思い、本書をさっそく入手しました。

 

 www.nippon.com


これまでも「文学にはこんなことができるのか!」と思わされる作品には、いくつか出会ってきたけれど、『彼岸花が咲く島』はそのなかでもトップに入る「実験」度の高さであったと思います。


あらためて、文学というのは「言葉の芸術」であり「言葉の実験場」なのだと、思い知らされました。


一方で、「文学は抵抗のための武器(「武器」とは言わなかったけど)」と言わんばかりの芥川賞スピーチがあまりに社会的なショックを与えたうえに、SNSで政治的であることを微塵も隠さない彼女なので、そのポリティカルな側面ばかりが注目されてしまっていて、なかなか『彼岸花が咲く島』の話にならないのが、残念でした。


そんな中、Business Insiderの記事が、本作の「言葉の実験」としての側面に焦点を当てたインタビューを(一部)掲載していました。

www.businessinsider.jp

 

このインタビューの中で李琴峰さんは、次のように語っています。

 

言語の実験をやってみたかった。SFの小説や映画では、言語の問題は解決された世界が多い。例えば、人間が団結して宇宙人と戦う話では、通訳システムを使って意思疎通することもある。でも人間が言語を乗り越えるのは、そこまで簡単ではないという思いもあった」

 

彼岸花』では、〈ひのもとことば〉〈ニホン語〉〈女語〉日本語をベースにした(と言っていいのかわからないけれど)3つの言語が使われて、それら3つの言葉を使う人たちが「意思疎通できない」場面も取り扱われています。


重なり合いつつ、それでも意思疎通しきれない3つの言語を使う登場人物たちの織り成す相互行為が、日本語によって記述されるのです。


そんな厄介な仕組みの作品なので、何度も「これって〈ニホン語〉での読み方なんだっけ?どういう意味だっけ?」とか言いながら、何度か、前方のページを参照する羽目になったりはしますが、私自身には、それがとても面白い経験でした。

 

彼岸花が咲く島』は、フェミニズム・ユートピア小説として説明されることもあるようです。

news.yahoo.co.jp

 

本書に描かれている「島」の様子が、はたして、「ユートピア」なのか「ディストピア」なのか。

その答えは、おそらく、ひとりひとりの読者によって異なるのではないか、と思います。
いずれにせよ、このような「フェミニズムSF」とでも言えるような作品が、芥川賞を受賞しているということが、ひとつの驚きでもあります。

 

児童文学のようなファンタジー世界、ライトノベルようなストーリー展開でありつつ、それでもやはり純文学でもあるような、不思議な読後感のある作品です。

大学内イベントとしてオンライン上映会を開催する~YNUプライド2020「カランコエの花」ZOOM上映会

2020年6月10日に、横浜国立大学・長谷部学長(学長でもあり、ダイバーシティ戦略推進本部長でもある)が「プライド月間 学長メッセージ」(PDF)を公開しました。

「6月は、LGBTQIA等、性的少数者の人権を尊重し、社会の中の多様性を考えるプライド月間です」という文言から始まり、「アンコンシャス・バイアス」の問題が広く存在することへの認識を示したメッセージです。

f:id:kimisteva:20200714114206j:plain

「プライド月間学長メッセージ」

この「プライド月間 学長メッセージ」の公開にともない、ダイバーシティ戦略推進本部のある先生から、ぜひ「プライド月間(=6月)」に、本学の取り組みの第一歩となるようなイベントを開催したい、という相談を受けました。

とはいえ、世の中は、新型コロナウイルス感染予防のため「三密」回避が求められている状況。横浜国立大学も、7月2日からは入構規制緩和が行われたものの、春学期中の授業はすべて遠隔講義、さらに6月中は入構規制も厳しい状況で、会議などで教職員で集まることすらほぼ不可能という状況でした。

そのため、「なにか、遠隔(オンライン)でできることを」という条件も加わり、わたしが提案したのが、オンライン映画上映会でした。

f:id:kimisteva:20200714114606j:plain

YNUプライド2020「カランコエの花」Zoom上映会チラシ

本上映会開催されたのは、6月25日でしたが、その後、参加してくださった教職員の方などから、「どのようにオンライン映画会を開催したのか、知りたい」というご要望もいただきましたので、今回、どのような手続きや準備を行ったのか、について簡単にまとめておきたいと思います。

 

1.図書館が購入した映画DVDの上映を考える→実現せず

まず、横浜国立大学図書館で所蔵している映画DVDの上映を考えました。

横浜国立大学図書館に『ハーヴェイ・ミルク』や『ハッシュ!』のDVDが所蔵されていることを知っていたこともあり、これらを上映することができるなら、それが一番ハードルが低いと考えました。


映画『ハーヴェイ・ミルク』日本版予告編

 

今回の上映会は、教職員・学生の研修を目的に、非営利・無料で行われることは決まっていたため、著作権法第38条(営利を目的としない上演等)第1項が適用可能なのではないか、と考えたのです。

図書館が購入した映画ビデオの上映会を図書館の会議室で開催するには、権利者の許諾が必要でしょうか。 | Copyright Q&A 著作権なるほど質問箱

著作物が自由に使える場合 | 文化庁

 

…が、「公表された著作物を上演・演奏・上映・口述することができる」とはあるものの、オンライン上映会は「公衆送信」に当たってしまうため、これは適用できないのではないか、ということで、実現されませんでした。

 

2.自主上映会としてのオンライン上映会の可能性を探る

そうなると、公衆送信による「自主上映会」を開催する、という条件をきちんと説明したうえで、上映をお認めいただける配給会社などを探すしかありません。

折しも、cinemo by United People「Zoomでのオンライン上映会の開催方法」をホームページ上で公開していましたので、cinemoが提供している映画であれば、比較的、オンライン上映会開催へのハードルも低くできそうだ、と思いました。

「Zoomでオンライン上映会」開催方法|cinemo

…というわけで、次に候補にあがったのが、『ジェンダー・マリアージュ』。

www.cinemo.info

その他、UPLINKの「自主上映のご案内」を見たり、合同会社東風のサイトを見たり、いろいろとリサーチはしました。

今回は実現できなかったけど、東風では『恋とボルバキア』が提供されていることがわかったので、ぜったいいつか、上映会を実現したい…!という思いが高まりました。 

kimilab.hateblo.jp

そのようなかたちで、いくつか候補を挙げ、主催者である部局の先生方にお伺いしたところ、今回は、学校を舞台にした作品である『カランコエの花』を上映したい、というお話になり、『カランコエの花』を上映することに。

 

kimilab.hateblo.jp

 

3.「カランコエの花」HPから上映の連絡をとる

カランコエの花』は、トップページのいちばん最後に「お問い合わせフォーム」があり、そこに親切にもわざわざ…

「映画「カランコエの花」に関するお問い合わせフォームです。劇場での上映の他、学校・企業・自治体などの非劇場での上映も承っております。

…と記載されていたので、安心して連絡をとることができました。

「お問合せ内容」の「上映について」にチェックをしてら連絡をとると、すぐに、上映に関するご案内をいただくことができます。*1

 

4.オンライン上映会開催に向けて(マニュアル・参加登録)


このとき、「オンライン上映会をどのようなかたちで実施するのか」、参加者数のカウントや、参加者以外が上映作品を閲覧していないということの確認方法について尋ねられたため、このときは、cinemoがオンライン上で公開している『Zoomオンライン上映会開催マニュアル』(PDF)にしたがう」という回答をしました。

 

★ 『Zoomオンライン上映会開催マニュアル』(PDF)

 

ただし、このマニュアルでは、「人数カウントのため「登録」を「必須」に」という方法が推奨されているのですが、横浜国立大学でのZoom利用におけるセキュリティポリシーの中で、「Zoom利用時、(個人情報保護のため)学生には、氏名表示をさせない」というルールがあったため、このルールを適用しての開催はできない、ということが判明。

そのため、以下のように事前参加登録を行うかたちで、参加者を確認することにしました。

 

(1) 参加希望者(教職員・学生とも)に、上映会開催日前日までに、オンライン・フォームから参加登録を行ってもらう(大学公式メールアドレスからのみ参加申込可とし、氏名・連絡先メールアドレス等を記載)

(2) 上映会当日午前中までに、「参加者ID」を配布

(3) 上映会参加時には、Zoomにサインインする際に、「氏名」欄に「参加者ID」or「参加登録氏名」を記載する

 

…なお、参加者数が30名を超えたため、ひとりひとりに「参加者ID」を記載したメールをお送りすることが難しい、ということになり、①学生のみに、1人1人「参加者ID」を付与し、1人1人にメールを送付することとし、②教職員には「参加者ID」ルール(例:「YNUpride+(採用年4桁)」)のみをお知らせすることにしました。

 

当日、これで参加登録者の確認を行っていたのですが、どうも、Zoomでの「氏名表示」の変更の仕方がわからない方がたがいらっしゃったらしく、部署名(?)で何度も「待合室」に入ってこられる方がいらっしゃいました。

オンライン上映会に限らないことだとは思いますが、事前に、以下のことをお願いしておくことは必要なことだと思います。

 

①Zoomのアプリをダウンロードすること(ウェブ・ブラウザ―からでは適正な品質で映像が見られません。かなり映像・音声が乱れるようです)

 

②Zoomを最新版にアップデートしておくこと(時間ギリギリに入ろうとしたときに限って、突然、アップデートが始まったりします

 

③不安な人には、「氏名表示」の変更、マイク・カメラOFFの設定を練習しておいてもらう

 

④有線LANに接続できる環境で参加することを、推奨する

 

5.当日の運営

当日の運営については、ほぼ、『Zoomオンライン上映会開催マニュアル』(PDF)に記載されているとおりの設定をすれば、問題なくできそうでした。

 

① ミーティング作成時に、「入室時に参加者をミュートにする」をチェック

 

② 画面共有を「ホスト」のみ「可」にする

 

③ チャットを「OFF」にする

また、「当日の運営」ということではないですが、オンライン上映会の場合、通信できる画像の品質に限りがあるので、「Bru-lay」ではなく、「DVD」を使用したほうが良いと思います。…というか、どちらでもOKなのですが、「Bru-lay」に対応しようとして高画質送信できる設定にすると、トラブルが発生する参加者が出てくる可能性が高そうでした。

 

以上です。

参加者数が40名未満と少数であったからかもしれませんが、大きなトラブルもなく、無事にオンライン上映会を終えることができました。

 

おそらく今後も、なかなか、集まってなにかを開催するということが難しい状況は継続するように思います。

そのような時代において、なにか研修会などを開催したい、というときのひとつのアイデアとして「オンライン上映会」という選択肢があることを、お伝えしたいと思い、この記事を書きました。どこかで、だれかの、何かの参考になればうれしいです。

*1:残念ながらわたしは、入力するメールアドレスを間違えるという大失態を犯してしまったため、連絡がとれるまでにものすごく時間がかかりました…本当に申し訳ない…

アルプスワインの「にじいろ」ワイン

今年は、葡萄が不作であったせいか、11月3日の山梨ヌーヴォーの解禁日に新酒が出そろっていないワイナリーがいくつもあったようで、11月3日に行われた「第33回 かつぬま新酒ワインまつり」では、甲州やベーリーAの新酒が出ていなかったブースがいくつかありました。

そんなこともあり、また、クリスマスやお正月に向けてワインを買いだめておく、という目的もあり、このタイミングで、ふたたび、勝沼・笛吹に行ってまいりました。

今回、訪れたのは、ニュー山梨醸造(8vin-yard Misaka)、アルプスワイン矢作洋酒(以上、笛吹市)と、大泉葡萄酒蒼龍葡萄酒丸藤葡萄酒工業ルバイヤート)とフジッコワイナリー(フジクレール)(以上、勝沼市)、笹一酒造(オリファンファイン)(大月市)です。

全8か所!こう書いてみると日帰りツアーの割に、けっこう頑張って、ワイナリーめぐってますね。

 

わたしは今回ドライバーだったので、試飲はできず、それぞれのワイナリーで購入した新酒の味を楽しめるのはこれから(!)なのですが、ワイナリーに行ってそこにあるワインのラインナップを見たり、あるいは、そこにどんな人たちが集まるのかを見たり、さらに、そこでいろいろお話を聞いたりするのは、すごく楽しい。

わたしはかなりアルコールに弱いので、むしろドライバー役をして、いろいろなワイナリーを巡ることに特化したほうが良いのではないか、とすら思います。

そんな気づいたこのひとつひとつを、そのままにしておくのはもったいないので、残しておきたいことを記事にしておくことにしました。

 

今回、ご紹介したいのは、笛吹市一宮町にある「アルプスワイン

今年7月に、笛吹市のワイナリーめぐりをしたときに、アルプスワイン直営店(サロン)を訪問し、サロンで試飲をさせていただいたときの経験と、そのとき購入したワインがとてもよかったので、再び、アルプスワインに行ってきました。

アルプスワインの直営店(サロン)には、「ボス」がいらっしゃって、その「ボス」がとても素敵なんです。「ボス」のブログもとても素敵なので、ぜひ見ていただきたいです。(アルプスワイン・ボスのサロン日記)

 

さて、アルプスワインの展開しているラインナップのひとつににじいろ」シリーズというのがあります。

7月に行ったときには気づかなかったのですが、同じデザインのラベル「あじろん」(黒ラベル)は、「にじいろ」シリーズではなかったことに気づきました。

f:id:kimisteva:20191215135027p:plain

にじいろワインとあじろん(アルプスワイン株式会社HPより)

http://www.alpswine.co.jp/product/

 

あじろん」は、「にじいろ」シリーズではない。

…とすると、「にじいろ」シリーズは、(LGBT運動の象徴である)6色レインボーなのではないか!

と、突然思い立ち、きちんと調べてみたところ、レインボーフラッグで使用されている6色は「赤」「オレンジ」「黄色」「緑」「藍色」「紫」の6色で、もともと使用されている8色のうち「ピンク」と「ターコイズ」が外されているので、違うということがわかりました(笑)

www.gizmodo.jp

 

「にじいろシリーズ」で展開されているワインの「にじいろ」は、「ターコイズ」(甲州)、「黄色」(ナイヤガラ)、「ピンク」(巨峰)、「緑」(デラウェア)、「赤」(キャンベル)、「紫」(ベイリーA)です。

 

さすがに考えすぎか…と思いつつ、それでも「あじろん」を入れずに、6色の「にじいろ」であることに思いをはせてしまうのでした。

これまでは、ジャパニーズスタイルワインのシリーズと、プレミアムワインのシリーズしか買ったことなかったけれど、ゴールデンウィーク前あたり、「にじいろ」シリーズを買いにいってみよう。そして、「にじいろ」ワインを飲もう。

…そんなことを思うのでした。

ホモフォビアとの向き合いかた~『カランコエの花』

渋谷アップリンクで上映されていた映画『カランコエの花』。

上映最終日に駆け込み、最終日の舞台挨拶も観てきました。

f:id:kimisteva:20181130202606j:image

 

舞台挨拶で印象に残った発言は、いくつもあるのだけれど、その中でも特に、中川駿監督が最後に(時間のない中で)紹介されていた、本作品への反応についての話が、印象的でした。

カランコエの花』は、保健室の養護教諭による「配慮に欠けた」LGBTの授業から、物語が展開していくのですが、映画全体としては、「バッドエンド」ともいえるような終わり方をするので、「やはり、(授業などで)LGBTについては触れない方が良いのではないか」というような反応があったとのこと。

このような反応に対して、監督自身が、キッパリと「自分としては、そのような意図はない」とおっしゃっていたことが印象に残っています。

 

たしかに、自分自身の問題に向き合おうとしていた生徒に対し、周囲の生徒たちはその問題に真っ向から向き合えなかった。

向き合えずに、茶化したり、見ないことにして逃げようとしたり、向き合わざるを得ない状況に陥る前にそれを回避しようとする行動を取ったり、あるいは、向き合おうとして何かをしようとしても何もできずにいたり……そんなことを繰り返すうちに、生徒たちが、お互いにお互いを傷つけあうような状況が生まれてしまう。(以上、舞台挨拶での監督コメントのわたしなりの要約)

 

「だけど」、と監督は言います。

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうのが、人間の本質なのではないか」、と。

 

「傷つけたり、傷つけあったりしてしまうけれど、だからといって、何もしないというのは違うのではないか。

傷つけてしまったら、謝ればいい。

うまくいかないかもしれないけれど、それでも、トライ&エラーを繰り返して、コミュニケーションをとろうとしていくこと」…それが、大切なのでは、ないかと。

 

この言葉は、ちょうど数日前、大学院のゼミナールでの議論したに、呼応していたように思います。

 

大学院のゼミナールでは、性的マイノリティの登場する文学教材の授業実践についての報告があり、それを巡って、「ホモフォビックな価値観が前提化された教室のなかで、いかに、心理的な安全な場を作ることができるのか」「そもそも、生徒たちのホモフォビアを明るみに出すことをねらう、今回のような教育的試みは、学校でやるべきではないのか」という点が、議論になりました。

 

そのくらい、その文学作品における性的マイノリティとの出会いは、生徒たちにとって、ある種「ショッキング」であったようで、そのために、あまりにもたくさんのホモフォビックな発言が教室内に溢れてしまったのです。

まるで『カランコエの花』の前半シーンのように。

 

生徒たちから出されるホモフォビックな発言の数々から生み出されるリスクと、それだからこそ可能になる学びの可能性の両方が、そこにはありました。

 

カランコエの花』と、その舞台挨拶での監督や、キャストの皆さんの発言は、そういう

「どうしようもなく溢れ出るホモフォビア」に対して、少し距離を置いて考えるきっかけをくれたように思います。

 

性的マイノリティと出会ったショックから生み出されるホモフォビックな発言は、あまりにも辛辣で攻撃的ですらあります。が、だからといって、それを、見なかったことにしても、何の解決にもならない。

それこそ、この問題に向き合えずに、知らず知らずのうち、「バッドエンド」へと導きあってしまった生徒たちと同じです。

そうであるとしたら、どのように、その問題に、向き合うことができるのか。

 

この映画は、自分が見ないようにしていること、知らずにどこかで逃げてしまっていることへの向き合いかたを考えさせてくれるように思います。

 

 

アライでない(かもしれない)人たちとのLGBTセミナーの作り方

2018年11月14日に、わたしの勤務先の大学で、男女共同参画センター×障がい学生支援室主催「ワークライフバランスセミナー LGBT」という企画が開催されました。
f:id:kimisteva:20181116085541j:plain

このタイトルを見ただけで、察しの良いかたは、「『ワークライフバランス』と『LGBT』???」「これは誰がどういう目的でやろうとしているものなの??」など、ある種の「違和感」や「うさんくささ」を感じられることと思います。

このバラバラな感じの意味するところは、非常に明確です。
単刀直入に言ってしまえば、「今まで、そんなこと考えたことがなかった」人たちが、これまでの枠組み(「男女共同参画」!「ワークライフバランス」!)を使って、なんとか、今、必要とされている課題に取り組もうとした結果、こんなことになってしまった、ということ。
わたしは、とにもかくにも、何か自分たちにできることを始めてみよう!と、このような「無理やり感」あふれる企画を考え実現した方々に、大いなる敬意を評します。
ゼロからパーフェクトなものを創ることを望んで、いつまでも「何もできないよね」と、外から言い続けているよりは、はるかにましだと思います。

わたしは、横浜国立大学LGBTQサークル「クーピー」の顧問をしていたこともあり、この企画が立ち上がった段階で、お声がけをいただき、セミナー当日まで、企画運営面でのご協力をしてまいりました。
twitter.com

企画が立ち上がり、お声がけいただいたのが、7月。
それから企画実施までに、4ヵ月近くの期間があったわけですが、ある日突然、「LGBTに関する啓発セミナーを開催してほしい」という話があり、何がなんだかわからぬまま、セミナーを企画運営することになってしまった(!)という担当者の方をサポートする中で、いろいろ気づいたことがありました。

このような事態は、これから先、様々な場所で起こっていくだろう、と思います。

LGBTに関する啓発セミナーをやろう」と、学校や企業などの組織が決定し、なんとなく担当すべき部署を割り当て、その担当者に、セミナーの企画を命じる。
担当者が、たまたま、LGBT-Allyであるという場合もあるかもしれませんが、おそらく、そうでないことも多いでしょう。

セクシュアル・マイノリティの当事者と”出会った”経験もなく、自分が実際に会ったときにどういう感情を抱くのかわからない…。
自分が「アライ(Ally)」(=「alliance(同盟)」を表すことばで、セクシュアル・マイノリティの人たちを支え、応援する人たち)であるかどうかわからないし、そんなこと考えたこともない。実際に当事者と会ってみたら、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の感情が起きてしまい、アライになろうという気持ちを起こせないかもしれない…。
www.nhk.or.jp

そういう人たちが、「LGBTに関する啓発セミナー」を開催しなければならない事態が、ますます増えていくということです。

世間になんとなく蔓延するホモフォビアが、見て見ぬふりをされながら放置されたまま、社会の要請として、具体的にいえば行政的・経済的な要請として、「LGBTインクルーシブな環境」づくりが求められた結果が、こういうことなのだろう、と思います。

そのような、アライでない(かもしれない)担当者がつくることになったセミナーの企画運営をサポートすることになったわけですが、結果的に、今回のセミナーの内容な次のようなかたちになりました。

f:id:kimisteva:20181116094026j:plain

今回のような状況で開催されるセミナーの場合、当事者に直接話をしてもらう機会を設けることは、かなりリスキーです。

担当者が、突然、ホモフォビアを発症する危険性がありますし、そうでなくても、対応の仕方がわからなくて戸惑ってしまう、フリーズしてしまうということは十分ありえます。
さらにいえば、セミナーの受講者はさらに「読めない」ので、正直、初のセミナーには、当事者を呼ばない方が良いのではないか…とすら思います。

今回は、たまたま、すばらしく理解のある学生・OBがいて、快く協力を申し出てくれたので、当事者によるライフヒストリーを語る機会を設けられましたが、そういう幸せな状況がなければ、こんな危険な状況で、見知らぬ人たち相手にカミングアウトを強制することは、来ていただく当事者にとってリスクが高すぎると思います。
セクシュアル・マイノリティ当事者がカミングアウトしなくても成り立つような教育プログラムの開発について、私たちは、もっともっと真剣に取り組まなければいけない、と、あらためて実感しました。

今回、担当者の方が、「自分には知らないことばかりでとても勉強になった」とおっしゃってくださり、セミナー当日にも利用した動画教材は、下記の2つです。

(1)総務省人権啓発ビデオ「あなたが あなたらしく生きるために 性的マイノリティと人権」(活用の手引きはこちら(PDF))

人権啓発ビデオ 「あなたが あなたらしく生きるために 性的マイノリティと人権」

(2)NPO法人Re:Bit LGBT教材 中学校向け「Ally Teacher's tool kit」より動画「【中学校版】多様な性ってなんだろう?」

【中学校版】多様な性ってなんだろう?

上記2つの動画から、中学生が体験する困難に関するエピソード(ミニドラマ)、社会人が体験する困難に関するエピソード(ミニドラマ)を総務省の人権開発ビデオから、大学生がライフヒストリーとして語る困難や周囲からの支援に関するエピソードを、Re:Bitの動画教材から抜粋してご紹介することになりました。

なお、はじめの5分間(!)だけで開設する「基礎知識」編ですが、これについては、受講者全員にテキストを配布し、詳しくはあとで読んでいただくかたちにしました。
このとき、使用したのは、新設チームC企画の皆さんが、奈良教職員組合とのコラボレーションで制作した『教職員のためのセクシュアルマイノリティ・サポートブック(第3版)』なのですが、以前は、こちらの新設チームC企画のサイトから、PDFがダウンロードできたはずなのに、今、見たらできなくなってしまっていました…!(泣)

おそらく、『教職員のためのセクシュアルマイノリティ・サポートブック』(第4版)が発行されたためと思われますが、第4版は、第3版と比べて、内容がかなり固めになった印象で、はじめて紹介する人たちに向けてのテキストとしてはちょっと伝わりにくい印象があるので、これとは別に、第3版を復活させていただきたいです…。

教職員のためのセクシュアル・マイノリティサポートブック | 奈良教職員組合

今回、テキストの中からご紹介したポイントは、以下の4つです。

(1)「性(sexuality)」の4つの軸(身体の性、心の性、社会的な性、性的指向性
(2)「性」は、4軸のグラデュエーションのどこかの領域同士をつなぎあわせて見えてくる、無限に広がる多様なものであること
(3)「カミングアウト」と「アウティング」は異なること。「カミングアウト」を受けたからといって、自分がその知った情報をだれにも言ってよいということにはならないこと。
(4)学校において直面する困難や支援のポイント(テキストを参照)

このうち、もっとも大切なのは、(2)における「アウティング」の説明だったと思います。
特に、今回のセミナーでは、当事者が自分自身のライフヒストリーを語るシーンがありましたので、ここで聞いたライフヒストリーについての話を、第三者と共有する際にも、当事者の意思を尊重する必要がある、という話をしました。
たまたま、今回お呼びしたゲストの2人のうち1人は、他者との共有がOK、もうひとりはNGというスタンスでしたので、この話についてリアリティをもって聞いていただけたのは良かったと思っています。

なお、セミナーのタイトルに「LGBT」はついていましたが、「Lは…、Gは…」みたいな説明はしませんでした。ゲストとして来てもらった当事者を、これらのカテゴリーにあてはめて紹介することもしませんでした。
個人的に、「このかたは、Tです」とか「この人は、Gです」というかたちで、カテゴリー化して紹介することは、変な「代表性」「典型性」を付与してしまう気がして、気がすすまないのです。

あとは、ふたりのゲストが、自分自身のライフヒストリーの中で、もし「自分は、『T』です」というようなことをいうようであればそれはお任せしよう、と思っていました。
ひとりの方は、ライフヒストリーの一部(カミングアウトのエピソード)の中で触れていましたが、もうひとりのゲストは不明なままだったので、受講者の方の中には、モヤッとしたかたもいたかもしれないですね。

でも、それでいいんだと思います。
カテゴリー化して理解してもらいたいわけでは、ないですからね。
グループごとに質問&ディスカッションの時間にも、それとなく、「聞きたければ、聞いてくださいね」と言ってみたのですが、どなたからもそのような質問はありませんでした。

そのような、わたしの思いを汲んでくれたのか、最後のまとめの言葉のなかで、本企画の主催にかかわる理事の方から、「Lとか、Gとか、Bとか、Tではなく、性は多様であるということ。そのことについて理解を深めていく、記念すべきはじめの日であった」というような趣旨のコメントがあり、少し、救われたような気持ちになりました。

現在、オンライン上には、LGBTインクルーシブな社会をつくるためのさまざまなリソースが存在しています。
それをいかに用い、教育プログラムを作っていくのか。
当事者にリスクを負わせることなく、性の多用性についての理解を深められるような教育プログラムを創ることは、果たしてどの程度可能なのか。

これから考えていくべきことは、まだまだたくさんありそうです。

性とか愛とかのカテゴリーと、それに戸惑うわたしたち―『恋とボルバキア』

お題「最近見た映画」

本日、横浜にあるシネマジャック&ベティで公開中の、小野さやか監督『恋とボルバキア』を見てきました。

f:id:kimisteva:20180328173931j:plain

映画『恋とボルバキア』公式サイト


恋とボルバキア 公開記念動画

この映画、昨年12/9から公開されているのですが、ドキュメンタリ―映画であることもあって公開されている映画館が少ない。今回(たった1週間とはいえ)シネマジャック&ベティで上映され、それを観ることができたのは本当にラッキーでした。

 

恋とボルバキア』には、「カラフルにトランスする恋とか愛とかのドキュメンタリー」というキャッチコピーが付けられているけれども、まさに、「カラフルにトランスする」とか「恋とか愛とか」としか言いようがないような…そんな、「何ものか」に括りきれない、わたしたちの性や恋や愛…そしてその遠くに見え隠れする家族のかたちを、ぎこちないままに見せてくれる映画だったと思いました。

 

2017年は映画レビュー記事の中でも、「2017年はLGBT映画が興隆」であることが話題になったり、日本でも、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」が登場する映画をいくつも見た実感があります。
しかし、その一方で、いわゆる「LGBT」「性的マイノリティ」という言葉から零れ落ちてしまう生き方やアイデンティティ、関係性のありようから、かえって目がそらされていくような、そんな印象をありました。

政治的なカテゴリーとしての「LGBT」「性的マイノリティ」が着目されていく中で、その人自身の「こうありたい自分」の表現や権利の問題がクローズアップされている感じがあったのも事実だと思います。

 

もちろん、「こうありたい自分」を表現していくことも、自分が「こうありたい」と願うライフスタイルを実現するために権利を主張していくことは、とても重要なこと。

すべての人たちが、自分らしく生きていくためのエンパワーメントを、できるだけサポートしていきたい、とわたしも思う。

でもその一方で、「こうありたい」という願いばかりがクローズアップされたときに、その人をとりまく他の人たちとの関係性や、その人自身が他の人との関わりで変わっていくことのできる可能性を閉じてしまったりはしないのだろうか…という点が気にかかっていて、そのことが、自分のなかに、違和感として存在していました。

 

恋とボルバキア』は、そんな違和感をそのまま、掬い取ってくれた映画だったように思います。

 

本映画の監督である小野さやかさんは、『i-D』のインタビューに次のように答えています。

——トランスジェンダーは、性別規範・役割を押しつけられたり、男性あるいは女性としての身体的特徴に違和感を持ち、服装や生活に切り替えたり、身体レベルで性別を移行する人もいる。しかし、そういう在り方が受け入れられる土壌は、例えば(男性から女性に性別を移行する)トランス女性なら「ニューハーフ」として水商売・風俗の世界が主だったりしますよね。だからこそ、「プロパガンダ」のような空間では、見られる自分を消費される代わりに華やかな自分こそを見てほしい、という意識に傾きがちなのかなとも考えました。そのあたりの強い自意識はアイドルの在り方に通じるとおもいます。

まさにその通りだとおもいます。ですが、私が撮りたいと依頼した出演者のみんなは、他者への関心がちゃんとあった人たちなんですね。撮られることはもちろん、他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける気概が感じられた。本人たちとちゃんと話したわけじゃないんですけど、「こう見せたい自分」という自意識から一旦離れて、やりとりができる人たちでしたね。映画っていう枠の中で、こちらがこんなふうに撮りたいって言うと、もっとおもしろい代案が出てきたり。( 恋と性の振る舞い:『恋とボルバキア』 小野さやか監督インタビュー - i-D)(太字は引用者)

 

映画鑑賞後、この記事を読んで、「ああ、なるほど。そういうことだったのか」と、納得してしまいました。

このドキュメンタリ―映画に出てくる人たち―その人たちの生きる性や愛のスタイル、性や愛の問題との関わりかたは、実にさまざまだけれども―、あの人たちに共有していたのは、「他人との関わりで化学反応が起きることを引き受ける」ことができるという…そういうことだったのだな、と。

 

「愛」も「性」も、そして「家族」も、誰かとの関係なしには成り立たないし、そうであるとすれば、そこに、他人との関わりが生じないはずがない。

だけれども、「LGBT映画」といったときに登場する他者のありかたは、どこか固定されていて、極端な言い方をしてしまえば、「アライ」か「非-アライ」かの二分法でくくられてしまっているように見えるときすらある。

「当事者以外」(と括られてしまっている人たち)にできることは、「当事者」の要求や表現を「受け入れるか」「受け入れないか」のどちらかで、当事者はほとんど変わることがない。

もしかしたら、わたしが感じていた違和感は、その「変わらなさ」なのかもしれない…とあらためて思いました。

 

もちろん、マイノリティに対して、マジョリティが「お前が変われ」と要求することは暴力でしかない。でもだからといって、「変わらない」ことを要求するのも、同じように暴力なのだと思う。

私たち皆の中に「変わりたい」と思える部分、「変わりたくない」と思える部分が存在していて、そしてそれは私たちの生活や人生の流れのなかで、流動的に変わっていきつつあるものでもあって…そういうなかで、愛や性の問題が出てきたり、消えていったりする。

そんな、考えてみれば、私たちすべてにとって当たり前に存在しているような世界。そんな世界を『恋とボルバキア』はそのまま、提示してくれている。

 

この映画は、シネマジャック&ベティでも、たった3/30までしか上映せず、その後も(地方映画館ではいくつか上映が予定されているところもあるようだが)あまり観られるところは多くないようで、とても、もったいないと思う。

この映画、これからどうなっていくんだろう…。

もっともっとたくさんの人たちに観てもらいたいし、その観た人たちといろいろな話がしてみたい。…そんなことを思わせる映画だった。