kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「ここにいる」を言うための言葉を育てる~フェミニスト国語教育学に向けて

本日は、横浜国立大学教育学部附属横浜中学校の授業研究会(非公開)でした。

2021年度の研究発表会が、コロナウイルス感染拡大の影響で開催できなくなってしまったこともあり、本年度こそ公開で開催できればよいなぁ、とは思っていたのですが、オミクロン株の影響が著しく、本年度も非公開での開催となりました。

今年も3月中旬頃、こちらのページ「基調提案」「教科提案」「指導案」が掲載されるとのことです。

本年度、研究発表会で公開予定であった授業は、中学2年生・国語科「書くこと」の実践として、同校・国語科の柳屋亮教諭によって行われた、以下の実践。

 

「Fy74期生のコロナ禍における○○論

~根拠の適切さを考えて自分の考えが伝わる文章になるように工夫する~」

 

「Fy」というのは、「(横浜国立大学教育学部)附属(Fuzoku)横浜(Yokohama)中学校の頭文字をとった略称*1

柳屋先生は、これまでにも、『TEACHannel』にて、これからICT導入をしはじめる先生方に向けて「はじめての1人1台端末」というタイトルのコラムを書かれているなど、自身の実践から見出された知見の発信にも取り組まれています。

teachannel.kanken.or.jp

今回の授業実践を行うことになった附属横浜中学校の「74期生」は、中学校に入学するやいなや、長きにわたる休校期間と、突然の全面オンライン授業に直面した世代にあたります。

そして、そのあまりにも特異なスタートで始まった中学校生活が、いわゆる「通常」のかたちに戻ることはなく、いまでも「ウィズ・コロナ」の学校生活が続いています。

そんな中学校生活を送ってきた生徒たちに、「歴史的な事件」であるとすらいえる自分たちの中学校生活を振り返るとともに、少しだけ距離を置いたところからそれを眺めなおしつつ、社会全体に向けて「私(たち)にとって、コロナ禍の中学校生活というのはこのようなものであった」ということを伝えてほしい。

「個人的なものに過ぎない」「主観に過ぎない」と、自分の経験をとるにたらないものとして切り捨ててしまうのではなく、今、たしかにここに生きている自分たちの経験とそこから編み出されたストーリーを社会へと伝えていくこと、そのことに意義があるのだ、と伝えたい。

そんなことを、柳屋先生と、時間をかけて話し合っていきました。

桐光学園中・高等学校(監修)(2021)『学校! 高校生と考えるコロナ禍の365日』や、内田樹(2020)『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』などを見ながら、「『学校!』だと、「生」の声がそのまま吐露されているだけだけど、生徒たち自身に相対的に振り返ってほしい」「そうすると、視点の取り方としては『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』のように、ある特定の立場・観点を決めたほうがよいのでは?」などと話し合ったことを思い出します。

 

 

そんなやりとりを重ねた結果、まず1月から「話すこと・聞くこと」の単元として、生徒たちの「声」を掬い上げるためのインタビューを行ってみようということになりました。

*1:いまだにこの略称には疑問があるのですが、すでに「74期」ともなるともはや変えられないのだろうとも思っています

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饒舌の島で、「語りえぬもの」を蘇らせる~「Sense Island -感覚の島-暗闇の美術島 2021」

2022年1月22日(土)~3月6日(日)まで、猿島横須賀市)で開催されている、「Sense Island -感覚の島-暗闇の美術島 2021」に行ってきた。www.facebook.com

このイベントについては、すでにアート関係のメディアでレビューもいくつか出ていますので、本イベント全体のことが知りたいかたは、そちらを見てほしい。

casabrutus.com

news.yahoo.co.jp

 

「夜の猿島」、この特別なる存在

わたしは、すでに、猿島には以前訪れた経験があり、「東京湾無人島」というだけではそれほど響かない。しかし今回「これは行かざるを得ない」と思った直接的なきっかけは、「夜の猿島に入れる!」ということだ。「夜の猿島(!)」につい胸がアツくなってしまったのだ*1

おそらく、一度猿島を訪れたことがある方なら、きっとこのアツい思いを共有してくれるだろう。猿島は、そのくらい昼間に行くだけでも「ヤバい」感じのある孤島なのだ。

なにが「ヤバい」かというと、東京湾に浮かぶ孤島で、水道も電気*2もない。島内に1か所だけある手洗い所も「エコトイレ」になっていて、尿を浄化して再利用する仕組み。
飲める水は、島内に設置された自動販売機で購入するか、持ち込むしかない。

まさに、正真正銘の無人島!

そのため、以前猿島を訪れたときも「このまま天候が荒れたりして、復路の船に乗れなかったらどうしよう」「最終便に乗れなかったらどうなるんだろう」ということばかりが頭をよぎり、常に、緊迫感と恐怖感があった思い出がある。

そんな夜の猿島に入れるなんて、こんなにホラー&サスペンス溢れる体験はない!そう思ったのである*3

 

いつもだったら最終便の就航も終わった時間なのに、三笠ターミナルから船に乗り、猿島に向かうだけで、すでに怖い。

「空の色もなんだか、これから始まる悪夢を予感しているかのようです。」…と、脱出ゲームか、ホラー映画か、はたまたクトゥルフTRPGか。どこかで聞いたナレーションが聞こえてくるような感じがする。

 

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船から三笠ターミナル方面を見る

饒舌の島・猿島

そこでアートは何ができるのか。

島に到着すると、「多目的ホール」で、検温をしたり、携帯やスマホを紙袋に入れて封をしたりといった手続きが求められ、いよいよ、それらの機器を手放し、「感覚」だけで島内を散策し、アート作品を鑑賞するツアーへと導かれる。

その鑑賞ツアーの冒頭に、スタッフの方から、この猿島についての説明が行われるのでだが、これから鑑賞に向かおうとする私にとっては、「過剰」とも思える説明だった。そしてこの「過剰」だという感覚を、以前も感じたことを思い出した。

それは、以前、猿島に来たときに経験した「猿島公園専門ガイド」の方による、猿島ガイドのことだ。

私たちのツアーを担当してくださった方が、たまたまそうだった、というだけなのかもしれないのだが、とにかく、「饒舌」「過剰」な感じがしたのだ

 

東京湾に浮かぶ無人島」

東京湾要塞跡(猿島砲台)」

猿島」という島名の由来となった「日蓮伝説

そして、開発されていない無人島に残された豊かな自然。

 

猿島には、そのようないくつもの歴史のレイヤーがあり、それぞれの歴史に由来するあまりにも多くの物語があるせいか、どうしても猿島について語る言葉は「過剰」になる。

そのことがとても印象に残っていて、今回の冒頭の説明の「過剰」さも、私に、そのことを思い出させる結果となった。

やはり、猿島を語る言葉は、いつでも「過剰」なのだ、と思う。この島が、あまりにも魅力的であるだけに。

 

そんな「饒舌の島」・猿島において、いったいアートは何ができるのか。

そんなことを感じながら、島内をめぐりはじめた。

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浜辺に落ちる光と横須賀の夜景

島内をめぐっていて思ったこと。

それは、本展参加作家たちも、このような問いに向きあい、作品によってそれに応答しようとしたのではないか、ということ。

少なくとも、わたしが島内で観た作品のなかには、いつもだったらガイドやその他の案内によって、「饒舌」に語られ過ぎてしまう「モノ」の前に、いったん、「沈黙」を生み出すことで、それによって、「語りえぬ」ものとしての歴史を、あるいは、そこに流れる「声にならない」感覚を現出させようとした作品が、たしかに、あった。

 

そのような作品の象徴ともいえるのは、猿島について冒頭の解説を聞いたあと、はじめに案内される作品、毛利悠子《I Can't Hear You》だろう。

猿島内にあるトンネルの中でも(おそらく)最長の90メートルにもおよぶトンネルを舞台とした作品だ。

ふだんは昼間しか人が訪れない猿島。その夜のトンネルの内部は、当然のことながら、暗闇である。ところどころ灯りがあるほかは、ほとんど何もなく、やたらと、ひんやりとした空気を感じる。

入口にあるスピーカーから流れる「I can't hear you」という声に押し出されるように、その残響やスピーカーから時折流れる向き的な音とともに、暗闇のトンネルを歩いていると、自分の言葉や声が重い暗闇にゆっくりと押しつぶされるように消えていくような感覚すら覚える。

トンネルの入り口で聞いた、記憶としての「I can't hear you」というメッセージは、とても強烈だ。「I can't hear you」と呼びかけられ、それを聞くことができるものにとっては、絶望感を生む言葉だ。私はあなたに話かけられている。しかし、私の声はあなたには届かない。あなたに、私の声は聞こえない。

途方に暮れたくなるような、コミュニケーションの断絶。

 

毛利は『BRUTUS』2021年12月号に掲載された記事の中で、NHKの番組『ここに鐘は鳴る』のなかで、仏教哲学者の鈴木大拙が「I can't hear you very well」を繰り返し語るシーン(動画の27:00~27:10あたり)について語っている。


www.youtube.com

「当然英語は流暢にもかかわらず外的要因によって意思疎通できない様子」に、「映像を見た当時のコロナ禍の様子」や「禅問答のような普遍性」を感じ、心をつかまれたのだという。

『Casa Brutus』に掲載されていたこちらのレビューによると、今回の作品の《I can't hear you》も、この鈴木の言葉が意識されていたようだ。

通じるはずなのに、通じないこと。声をかけたい相手の耳に届くはずの言葉を、何度も何度も繰り返しても、それが届かないこと。

それがどのような感覚として、感じられるのかは鑑賞者にもよるのかもしれない。

しかしそれによって、私は、はじめて、猿島のなかにそれまでもあったはずの沈黙と出会うことができたように思う。

 

「饒舌」に語られすぎるものへの対峙という意味で印象的であったのは、中崎徹《red bricks in the landscape》だ。

中崎が作品を展示したのは、「かつて弾薬庫として使われていた」と誰もが説明するレンガ造りの建造物。猿島ガイドツアーだと、ガイドをお願いしないと建造物内に入れないということもあってか(?)、とにかくここに関してはたくさんのことが語られる。異なるレンガ積みの様式や、それぞれのスペースの用途など、ともかく語られるべきことの多いところなのだ。

《red bricks in the landscape》は、人や船、レンガなどをモチーフとしたネオンのオブジェを設置した作品だ。

それらのオブジェは、以前、ガイドの方から聞いたあれこれを彷彿とさせつつも、それらと絶妙な距離感を保っており、一見すると、それが何を象徴するものなのか、その場所とどのような関係があるのか、がわからないものも多い。

ただ、地縛霊のように、その場所とその「モノ」とか離れがたい必然的な関係で結びついているのだろう、と思わせる。そしてその必然性の感覚は、あらためて、そこにある歴史のレイヤーやその物語へと、私たちの思考を向かわせる。

いまだ言葉にならぬ「語りえぬ」関係性、そのなかで、その関係性をあらためて想像していく、という地点に立つことができるのだ。

 

唯一、写真撮影が許された砂浜の作品、Natura Machina《Sound Form No.2》は、熱エネルギーを音エネルギーに変換させる装置を使った作品で、ガラス管の中の電熱線の光や熱によって音が発される。海岸沿いに吹く風やそのときの状況によって、ガラス管の中で出る音も微妙に変化する。

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Natura Machina《Sound Form No.2》

 

これまで箇条に語られてきた猿島において、数多の言葉の下に置き去りにされたものをふたたびよみがえらせるのは、アートによる変換の力なのかもしれない。

偶然か、必然か、鑑賞者が最後に観ることになるこの作品は、語られてきた数多くの言葉と、その中に残された「語りえぬもの」の存在、そしてそこに介在し、その関係性を変換させてゆくアートの可能性についついて、あらためて考えさせられるものだった。

*1:実際「夜の猿島に入れる!」と思ってイベントに参加する地元民は相当数いるんじゃないか?と、当日、乗船の列に並んでいる人たちを見て思いました

*2:ただし「猿島発電所」というのがあって「船で電気を運び、燃料を使って発電しています」。

*3:なお、わたしは怖がりなので、ホラーもサスペンスも苦手である

コンヴィヴィアル(共愉的)な研究/実践の場で生まれたコンヴィヴィアルな知~岡部大介『ファンカルチャーのデザイン』

東京都市大学・岡部大介先生より、2021年8月に発刊されたばかりの『ファンカルチャーのデザイン:彼女らはいかに学び、創り、「推す」のか』(共立出版)をご恵投いただきました。

 

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「正しい」ジェンダーの演じ方を求める世界のなかで~『息子のままで、女子になる』

日本質的心理学会第18回大会(10/24国内大会)のなかで、いくつか、「ジェンダーとパフォーマンス」が話題になりそうなシンポジウムに参加することになったこともあり、『シアターアーツ 3:演技・身体の現在』(晩成書房)に掲載されていた、ジュディス・バトラー(吉川純子訳, 1995)「パフォーマティヴ・アクトとジェンダーの構成」を読んでいます。

現在の自分自身のコンテクストを踏まえながら、あらためて丁寧に1つ1つの文を解釈しながら読み直してみると、以前にも出会ったかもしれないキーフレーズがふたたび新たな輝きを見せてくれたり、以前には気づかなかったものに気づくことがあります。

 

表現と演技/推敲の区別は非常に重要である。と言うのは、もしジェンダーの属性、行為/演技、すなわち身体がさまざまなやり方でその文化的な意味作用を示すこと、作り出すことが遂行的であるなら、行為/演技や属性を判断する基準となるアイデンティティは、前もって存在しないことになるからだ。ジェンダーの行為/演技や属性には、本物もにせものもなく、現実味のあるものもゆがんだものもなく、真のジェンダーアイデンティティなるものは、規制力を持つ虚構なのだとわかるだろう。(バトラー, J. 吉川純子訳, 1995, p68)

 

バトラーは、「表現(expression)」と、「演技/遂行(performativeness)」を区別して考えることを提案し、ジェンダーとは前もって存在する何かを「表現」するものではなく、ジェンダーとは「演技/遂行」なのだと述べます。

ここでは「真のジェンダーアイデンティティなるものが「規制力を持つ虚構」であることも述べられています。

 

自らのジェンダーの演じ方を誤れば、露骨に、かつ遠回しなかたちで処罰を受けることになり、うまく演じれば、やはりジェンダーアイデンティティという実体があるのだと安心させることになる。(同上, p69)

 

こんな論文を読んでいた矢先に、サリー楓さんが「世に出る」までのプロセスを追ったドキュメンタリー映画息子のままで、女子になる(英題:You decide)を鑑賞しました。

 

 

この映画についてはいくつもの紹介記事・レビュー記事があるけれども、私がなによりもこの映画を観よう、と思ったきっかけになったのは、朝日新聞GLOBE+のインタビュー記事「LGBT理解の「同調圧力」超えて トランスジェンダー、サリー楓さんが父親に見た希望」でのサリー楓さんの以下のコメントが、とても印象的だったからだ。

 

「私はまだ理解できない」とはっきりと言ってくれたことが、何か父親としての責任を果たしているような気がして尊敬したし、うれしかったです。

でもそうはっきり言ってくれたことで、学び合える面もあると思うんですよ。私も色んな情報を提供したり、自分の気持ちを言えたりするので。

そこは何か、父親としての責任を果たしているような感じがして、うれしかったです。もちろん、受け入れてもらえるのが一番ハッピーエンドなんですが、でも世の中の「認めてあげないといけない」みたいなある種の同調圧力に乗っかって、表面上だけ親子を取り繕うよりはよかたったです。私にとってはかけがえのない財産になりました。(朝日新聞GLOBE+のインタビュー記事「LGBT理解の「同調圧力」超えて トランスジェンダー、サリー楓さんが父親に見た希望」

 

このコメントを見て、この映画はいわゆる「LGBT映画」みたいなものではなく、いろいろな意味で――企業への就職、トランスジェンダーとしての出発、そして「ミス・インターナショナル・クイーン」へのエントリーー今から「世に出よう」とするプロセス、社会という複雑に編み込まれたテクストの中に自分を位置付け、誕生させるプロセスを追った映画なのだろう、と思い、映画館に足を運ぶことにしました。

globe.asahi.com

 

想像したとおり、この映画を鑑賞したあとの印象は、私のなかで、朝井リョウ監督・脚本の『何者』に近く、「LGBT映画」というよりは「就活映画」でした。

 

『何者』をはじめ、「就活」をモチーフとした作品のなかでは、「何者かになること」「社会のなかで自分の位置を見出すこと」への苦難や葛藤が描かれるように、このドキュメンタリー映画のなかに描かれるサリー楓さんの葛藤や苦悩も、徹底的に「何者でもない/何者にもなれない」自分に向けられている気がします。

 

そしてその「何者でもない/何者にもなれない」自分が、「何者か」になる方法を求めて、とにかく必死で藻掻きながら、それでも、画面上にあらわれるサリー楓さんの表情は、いつも、同じ写真を見続けているかのように、ピッタリと変わらない同じ笑顔のままで、そのギャップに終始、ぞっとさせられました。

アニメーション《就活狂走曲》では、まさにピッタリと変わらないままの笑顔が、「就職活動」への皮肉として用いられ、その恐怖を描き出しますが、私には、映画中のサリー楓さんの笑顔が、そのようなものに見え続けていました。

 

 

 

それで、思い出したのが、本記事冒頭にも示したバトラーの言葉でした。

 

自らのジェンダーの演じ方を誤れば、露骨に、かつ遠回しなかたちで処罰を受けることになり、うまく演じれば、やはりジェンダーアイデンティティという実体があるのだと安心させることになる。(同上, p69)

 

本映画の英題は「You decide」です。

これは映画中、サリー楓さん自身のスピーチの中でも出てくる言葉で、自信を表明するような力強い言葉でもあるのだけれど、映画全体の文脈のなかでの「You decide」という言葉の意味を再度考えてみると、それは、「自らのジェンダーの演じ方は誤っているのではないか」という不安に裏打ちされた言葉なのではないか、と思えました。

決めるのは「わたし」ではなく、あくまで「あなた」なのだというメッセージは、そういう意味で、とても不安定です。

 

本映画の終盤に出てくる、はるな愛さんとサリー楓さんの対談は、それまで映画中に登場するさまざまな強さと弱さの揺らぎを、一息に貫きつつ、それすべてを包摂してしまうような、ものすごいパワーに溢れていて、まさに「圧巻」です。

そこに、答えがあるというわけではないのだけれども、少なくとも、ジェンダーを正しく演じることで既存のジェンダーアイデンティティを承認し続けること、でも、ジェンダーの演じ方を誤り処罰を受けることでもない、別の「第三の道」を探し求めることは可能であることを、示唆してくれるような気がします。

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塩田千春《記憶の雨》(金沢21世紀美術館

 

言語学SFで描かれるフェミニズム・ユートピア~李琴峰『彼岸花が咲く島』

彼岸花が咲く島』で芥川賞を受賞した李琴峰さんの芥川賞受賞スピーチが話題になっているのを目にし、その中で、彼女が受賞式後、数多の攻撃を受けていけながらそれを「彼らは心無い言葉によって、『彼岸花が咲く島』という小説を、寓話的なフィクションから、より一層予言に近づけたのです。」と跳ね返しているのを見て、「これは読まねば」と思い、本書をさっそく入手しました。

 

 www.nippon.com


これまでも「文学にはこんなことができるのか!」と思わされる作品には、いくつか出会ってきたけれど、『彼岸花が咲く島』はそのなかでもトップに入る「実験」度の高さであったと思います。


あらためて、文学というのは「言葉の芸術」であり「言葉の実験場」なのだと、思い知らされました。


一方で、「文学は抵抗のための武器(「武器」とは言わなかったけど)」と言わんばかりの芥川賞スピーチがあまりに社会的なショックを与えたうえに、SNSで政治的であることを微塵も隠さない彼女なので、そのポリティカルな側面ばかりが注目されてしまっていて、なかなか『彼岸花が咲く島』の話にならないのが、残念でした。


そんな中、Business Insiderの記事が、本作の「言葉の実験」としての側面に焦点を当てたインタビューを(一部)掲載していました。

www.businessinsider.jp

 

このインタビューの中で李琴峰さんは、次のように語っています。

 

言語の実験をやってみたかった。SFの小説や映画では、言語の問題は解決された世界が多い。例えば、人間が団結して宇宙人と戦う話では、通訳システムを使って意思疎通することもある。でも人間が言語を乗り越えるのは、そこまで簡単ではないという思いもあった」

 

彼岸花』では、〈ひのもとことば〉〈ニホン語〉〈女語〉日本語をベースにした(と言っていいのかわからないけれど)3つの言語が使われて、それら3つの言葉を使う人たちが「意思疎通できない」場面も取り扱われています。


重なり合いつつ、それでも意思疎通しきれない3つの言語を使う登場人物たちの織り成す相互行為が、日本語によって記述されるのです。


そんな厄介な仕組みの作品なので、何度も「これって〈ニホン語〉での読み方なんだっけ?どういう意味だっけ?」とか言いながら、何度か、前方のページを参照する羽目になったりはしますが、私自身には、それがとても面白い経験でした。

 

彼岸花が咲く島』は、フェミニズム・ユートピア小説として説明されることもあるようです。

news.yahoo.co.jp

 

本書に描かれている「島」の様子が、はたして、「ユートピア」なのか「ディストピア」なのか。

その答えは、おそらく、ひとりひとりの読者によって異なるのではないか、と思います。
いずれにせよ、このような「フェミニズムSF」とでも言えるような作品が、芥川賞を受賞しているということが、ひとつの驚きでもあります。

 

児童文学のようなファンタジー世界、ライトノベルようなストーリー展開でありつつ、それでもやはり純文学でもあるような、不思議な読後感のある作品です。

ゲームを終焉させるゲームは可能か~SBGJ2021ビブリオバトルと『なぜふつうに食べられないのか』

「シリアスボードゲームジャム2021 ONLINE~図書館と一緒にシリアスボードゲームジャム!」の「前祭」として開催されたビブリオバトルに「バトラー(本を紹介する側)」として参加してきました。

sbgj2021.jimdosite.com

 

「シリアスボードゲームジャム」とは?

ゲームジャム」とは、ゲームづくりにかかわる人たち、ゲームづくりに関心のある人たちなどが集まって、短期間で一斉に、ゲーム制作をするというイベント。「ゲーム開発を行うハッカソン」とも説明されます。

日本で行われているゲームジャムとしては、NPO法人国際ゲーム開発者協会日本(IDGA Japan)のの運営協力によって開催されている「グローバルゲームジャム日本」」がもっとも知られているイベントだと思います。

ゲームジャムでは、プログラママーなどもかかわって、デジタルゲームの制作を行うことが多いようなのですが、このゲームは、ボードゲームのゲームジャム、さらにいえば、シリアスゲーム」(単なる娯楽目的ではなく、社会課題の解決をねらって作成されるゲーム。たとえば「シリアスゲーム」『IDEAS for Good』を参照)に焦点を当てたゲームジャムということで、なかなかコアなところを狙ってくるな!という感じがします。

イベント、これまでは総合地球環境学研究所(地球研)で開催されていたようなのですが、本年度は、地球研のように「シリアス」要素の凝縮した人やモノが結集している場ではなく、広く一般社会のなかで「シリアス」要素を結集しうる場である「図書館」で、このイベントが開催されることになったようです。

図書館に関する情報ポータルサイト「カレントアウェアネス」でもこのイベントが紹介されていました。

current.ndl.go.jp

 

おそらく、今回のビブリオバトルも、「シリアス」要素を担った人やモノを出会わせるための仕組みとして講じられたものではないかと思います。いまやいろいろな変種・亜種がたくさん出現していて、その実態がよくわからなくなりつつあるビブリオバトルですが、それでもやはり「人を通じて本を知る、本を通して人を知る」というコンセプトは大切にされていますし、ビブリオバトルは、そもそも、いろいろな分野で研究をしている院生たちの「遊び」として始まった、という歴史がありますからね。「シリアス」がないわけわけがない(たぶん)!

 

テーマは「食べることのジレンマ」

今回の、ビブリオバトルのテーマは、イベント全体のテーマと同様、「食べることのジレンマ」でした。

このテーマで、何の本を紹介するかを考え、最終的には、大岡昇平『野火』とどちらにしようかと悩んだ末に、わたしが選んだ本は、磯野真穂(2015)『なぜふつうに食べられないのか:拒食と過食の文化人類学』(春秋社)でした。

 

わたしが、この本を選んだのには、理由があります。

このイベントのことを知ってから、知り合いの人たちに「シリアスボードゲームジャム」のこと、そして本年度のテーマが「食べることのジレンマ」であることをお話しする機会があったのですが、そのときに、何人かの方から、

「じゃあ、ダイエットがテーマになりそうだね」

「『食べることのジレンマ』っていったら、ダイエットしか思いつかないな…」

「そのテーマでゲームにするなら、ダイエット(が題材になるん)じゃない?」

 …という反応がかえってきました。

 

わたし自身、「万年ダイエッター」を自称していた時期があるくらいなので、それは理解できます。今でも、摂食障害の飼いならし状態で、精神状態の悪い時期だと、体重減少欲求が加速して再び食べられなくなったり、体重増加していたりするとあやうく仕事場にいけなくなったりするくらいなので、まったく他人のことは言えません。

それでも、知り合いの人たち、さらにいえば、摂食障害を抱えた経験はないとおっしゃる人たちが、こんなに「食べることのジレンマ」といえば「ダイエット」と即答する事態に、社会の闇を見た気がしました

「食べること」の話が出た瞬間に、息をするかのように自然と「ダイエット」の話が出てくる社会のなかで、美容や健康のために痩せること、体型を維持することを考えずに生きることは、すごく難しい。

 今、わたしは、なんとか体重計に乗らずに数か月を過ごして生きているけれど、それがこんなにも難しい原因は、こういう、日常生活の中の「当たり前」に潜んでいるのではないか、とあらためて思わされた出来事でした。

 磯野真穂さんは、2019年に、中高生や若者世代に向けて『ダイエット幻想(ちくまプリマ―新書)』を発売されていますし、最近では、体重やBMIや体型に依存した生き方からの「回復」を描いたエッセイコミックもいくつか出版されるようになってきています。

2021年6月には、hara『自分サイズでいこう』、竹井夢子『ぜんぶ体型のせいにするのをやめてみた』が発売されて、つい最近も、ざくざくろ痩せている女以外生きてる価値ないと思ってた』(これはまだ未読)が発売されましたよね。

個人的にはharaさんのマンガが好きで、ヨガジャーナルの「#わたしとからだのことを話そう」を心の支えにしていたりします。

yogajournal.jp

このようなこともあり、あえて、一般の人たちには手の届きにくい研究書を紹介すべきかどうか、最後まで迷ったのですが、ビブリオバトルに申込をしてから、あらためて、磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか』を読み直し、「やっぱり、この本は、研究者(文化人類学者)が、研究書でしかできない、重要なことをやっている!」と実感し、この本を紹介することにしたのでした。

 

磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか』について話したこと・話せなかったこと

わたしが、「研究者が、研究書でしかできない重要なことをやっている」と思った、本書中のエピソードは、2つありました。

1つは、今回のビブリオバトルでもご紹介できた、摂食障害から回復するために医療者の指示に従って、BMI計算による食事管理法をカンペキに身に付けた結果、そこから逃れられなくなってしまった方のお話。

本書中でその方が、ダイエットや健康管理ができることを良しとする社会のことを「良くない」と語っている部分があり、それも含めてお話しできればと思っていました。結果的には、その部分を読み上げることはできなかったのですが、「食べることのジレンマ」といえば「ダイエット」と即答される状況への問題提起はできたのかな、と思います。

もう1つは、本書の最後に出てくる「過食(過食嘔吐/過食と下剤服用/チューニング)の経験」についての分析です。

わたしは、拒食しか経験したことがないので、過食経験者の世界を垣間見ることができることそのものがエキサイティングだったのですが、この分析のなかで、著者の磯野さんが「過食嘔吐」の経験を、M. チクセントミハイの「フロー」概念(M. チクセントミハイ(1996)『フロー体験:喜びの現象学』)によって分析しているところが興味深く、これをぜひご紹介したいと思ったのでした。

…というのも、ゲームに関する研究や実践をはじめるようになってから気づいたのですが、ゲームデザイン論やゲーム体験の分析のなかで、「フロー」に関する理論がけっこう引用されるのですよね。たとえばこんな感じ。たぶん、自分の論文でも先行研究を検討する際に引用してたと思います。

online.sbcr.jp

はじめは、「嘔吐」を、適切な難易度をもった挑戦しがいのある課題と位置付けることに違和感があったのですが、本書で紹介される過食経験者たちの語りや議論を読むうちに、「日々、過食嘔吐をする語り手たちの意味の世界からみると、たしかに、身体に吸収されないうちにそれを排出することは、そこそこに難しい挑戦課題であり、過食中の無我状態は『フロー』体験と相当に近しいものなのかもしれない」、と思うようになりました。

振り返ってみると、我ら拒食症者にとっての「体重(BMI)を減らす」とか「(プロテイン摂取量を増やしつつ)カロリーを減らす」というのも、すごくゲーム的で、そうであるがゆえに「フロー」体験をもたらしうるものだったのではないか、と思えてきます。

そういえば、以前、わたしが長期間の拒食期に入ったきっかけは、食事管理アプリ×ゲーミフィケーションと紹介されたりもする「あすけん」が原因でした。

note.com

「あすけん」を使ったダイエットは、楽しいです。

毎日、できるだけ摂取カロリーを減らして、消費カロリーを増やして、そして、できるだけ栄養バランスを整える。その結果、わたしは毎日、プロテインバーとサラダだけを食べるようになりました。

「あすけん」もそのあたりのリスクはしっかり考えてくださっていて、目標体重は、BMI18.5(標準の下限値)以下に設定できなかったり、あまりに糖質量が少なかったり、カロリーが少なかったりすると、栄養士のおねえさんが泣いて注意してくださったりするんですけどね。

でも、そんなこと、関係なくなっちゃうんです!カロリー減らすの楽しい!そして体重減るの楽しい!!レッツ・フロー!みたいになります。

ゲームを終焉させるゲームは可能なのか?

このように考えてみると、本書で提起されている問題を題材にゲームを制作しようとすることが、いかに無謀であるかがわかります。

過食も拒食も、ゲームとして(ではないかもしれないけど)めちゃくちゃ楽しかったり、ゲーム以上に喜びをもたらす経験であったりするわけです。

少なくとも、わたしにとって、食べないことはゲームみたいに楽しいです。

いろいろな種類のダイエット・メニューが、選択可能なオプションとして無数に用意されていて、それを選んでトライしてみて、うまくいくのは、めちゃくちゃ楽しい。失敗したら落ち込むけど、次にチャレンジするゲームを選べばいい。

 問題なのは、そのときに、「敵」として登場するのが、自分にとって親しい人たちであることです。「一緒に食べよう」「もっと食べたほうがいいよ」と言ってくれる人たち。現実をゲーミファイしたときに怖いのは、「敵」がハッキリした瞬間です。「敵」は攻撃すべき対象となる。でも、現実にそれを適用した瞬間、そのゲームは日常の人間関係をバリバリに破壊します。

わたしは、そういう事例をいくつか知っています。

 だから、このゲームは、終わりにしなければならない。

しかし、ゲームを終わりにできるゲームを設計することは、果たして可能なのでしょうか。

 もしかしたらわたしが今直面している問題は、「ゲーム障害を治療するゲーム」を考えようとするようなことなのかもしれません。

もし、それが可能であるとしたら、それは、どういう論理によってなのか。

おそらく現実的にこのゲームを実装することには、果てしなく時間がかかりそうですが、自分自身の思考実験としては面白そうなので、しばらく考えてみようと思います。

 …と言いつつ、おそらく、本年度のSBGJ2021に向けた方向性としては、おそらく、当事者ではない(当事者も含まれるかもしれませんが)人たちにアプローチするようなものにすると思います。

「食べることのジレンマ」といえば「ダイエット」と即答される世の中について、私たちは、一度考え直してみるべきだと思うので。

「ザ・ベグデルテスト」のアフタートーク~そして、リフレクションとディブリーフィング

インプロとジェンダー探求プロジェクトの第1回「ザ・ベクデルテスト(The Bechdel Test)」公演を視聴しました。

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The Bechdel Test第1回公演案内

※インプロとジェンダー探究プロジェクト 第1回 The Bechdel Test 公演のお知らせ | yuriesonobe.com

「ザ・ベクデルテスト」については、以前、「ダレデモデラルテ」の公演・第2弾として行われた際に、こちらのブログ記事でも紹介しました。

kimilab.hateblo.jp

今回、第3回(7/23午前)に出演されていた内海さんが、2年前に「ザ・ベクデルテスト」の公演に出演された際のnote記事も面白かったので、こちらでご紹介しておきます。もっとも興味深いのは、公演直前に書かれたと思われる、このときの記事で内海さんが「そしておそらく僕がザ・ベクデルテストに関わるのは今回が最後だと思っている」と書かれていたこと。その後、内海さんにどのような変化があり、、なぜ、今回再度出演するに至ったのかを、ぜひ今度お聞きしてみたい、と思わずにいられません。

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今回の公演は、ダレデモデラルテ第2回公演のときと同様、Zoomを用いたオンライン公演のかたちで行われました。

公演時間は、90分。 

そのうち60分がインプロによるパフォーマンス、その後、30分がアフタートークというかたちで行われました。

インプロ(即興劇)のパフォーマンス部分は、女性たちのモノローグからスタートします。 内海さんの記事にもあるように「ザ・ベクデルテスト」の本来のフォーマットでは、3人の女性が登場し、その3人のモノローグから公演がスタートするのだけれども、今回、メインキャストとして登場する女性は2人でした。

2人の女性のモノローグが始まり、そのモノローグに沿って、観客たちが彼女の「名前」や彼女の生活に関する何か(これは本当にいろいろ)についてアイデアを出しあいそこから、彼女たちの設定(の一部)が決められていきます。

その後、2人の女性がはじめのモノローグやその設定を展開させていきながら、インプロ(即興劇)をはじめとしたさまざまなストーリーの中で、見過ごされてきたり、見落とされてきストーリーを積極的に掬い取ろうとしながら、シーンが展開していきます。そして、最後は、その2人の女性たちのモノローグがクロスし、それが、あたかも一つに重なりゆくように見えたとき、その公演は終幕を迎えます。

 

その後の「アフタートーク」では、公演で起きた出来事をもとに、私たちが「当たり前」に触れている数々のストーリーのなかでのジェンダーについて考えたり、話したりしていくのですが、今回、この「アフタートーク」がとてもエキサイティングでした。

 

たとえば、第3回公演のアフタートークで、わたしは、パフォーマーに次のような問いを提起しました。

介護の件。
尾崎ゆかり(メインキャストの役名)の父役さんがまったくかかわらない、という選択をしたことが気になっています。結局、「男はかかわらない」という想定を貫く選択をしたのは、なぜですか

このインプロ公演のなかでは、翻訳の仕事に従事する傍ら、認知障をかかえる母親の介護をし続ける女性が登場しました。その女性が介護することで自分がやりたい、と思うことができなくなっている、介護そのものに疲弊してしまっているのではないか…ということが伝わるようなシーンも出てきます。

そのようなシーンが演じられたあと、その女性と女性の父親(認知症を抱える母からみれば、夫)との対話シーンが登場するのですが、その中で、父親は「旅行に行ったらどうか」という提案はするのですが、(そのメインキャストの女性が「お母さんのあんな姿を見ているのはつらいよね」と言うシーンはあっても)自分が介護を代わろうか、という提案をまったくしないのです。

わたしはそのことが、とても、不思議でした。

「What else」を探っていくはずの「ザ・ベクデルテスト」のなかであればなおさら、「介護をが彼(メインキャストの女性の父親)が担う」という可能性が探られてもよいはずなのに。

 

このような問いに対して、そのとき父役を演じたパフォーマーから、「パフォーマーとして、このとき『父』を出そうと思ったのは、(『尾崎ゆかり』を)旅行に行かせてあげたかったからだ」といいう思いとともに、「(自分が『介護を担う』と言い出さなかったのは)どこかで、そういうもんだと思っていたからだ」ということが語られました。

わたしは、このパフォーマーの発言に、いたく感動して、即座に次のようなコメントを送っています。

「そういうもんだと思ってる」!
これ、インプロにおいて根深い問題(?)だと思いました。そのキャラクターとして、オーディエンスに対して伝えようとすると、社会・文化のステレオタイプどおりに演じなければならない、ということがありますよね。
この問題を、このインプロフォーマットがどのように考えていくのか・・

また、他の話題のときであったと思いますが、別の男性パフォーマーの方から、自分が出ようとすると、どうしても「恋人」になってしまう、「恋人」以外が思いつかないので、別のパフォーマーに任せてしまった部分がある、というコメントもありました。

わたしは、「ザ・ベクデルテスト」の公演を鑑賞するのは、まだ2回目ですが、このような「アフタートーク」でのやりとりができる場は、とても貴重だ、すごいことだ、と思いました。

父役として出たときに『そういうもんだ』と思って、父が介護を引き受けるシーンへと展開できなかったこと。

女性がメインキャストとしているシーンに、男性として登場しようとするときに「恋人」以外で出る可能性が思い浮かばないこと。

こういうことが、パフォーマー自身の振り返りとして、言葉で説明されることで、インプロをはじめとした舞台のうえに存在するパワーのようなもの、私たちの身の回りにあるストーリーの典型性とそれがもたらす束縛のようなものを、私たちは、言葉にして話し合うことができます。

 

「ザ・ベクデルテスト」に出演するパフォーマーたちは、ステレオタイプに絡められつつそれを即興で演じていいく。

もちろん、脚本を書くことでそれを書き換えていくことはできるけれど、即興的なかたちで次なる一歩を考えていき、そこで起きたことをリフレクションしていく。そしてさらに、次なる一歩を考える…「ザ・ベクデルテスト」は、それを繰り返していくことで、新たな私たちのイマジネーションと現実をパフォーマンスする力を拡張していく。

そのような意味では、「観客」側の果たす役割もとても大きい。

パフォーマーの皆さんがリフレクションし言語化するしてことももちろん、観客の側もそのパフォーマンスを見ている自分自身をリフレクションし、言語化することで、このような「アフタートーク」でのディスカッションが成り立っていくのだと思うと、観客の側の役割もかなり大きな位置を占めていることは、間違いなさそうです。

パフォーマーと観客とが一体になりつつ、みんなで、「次なる一歩」を創造していく。「ザ・ベクデルテスト」は、そういう社会実践といえるのかもしれません。

 

以前、松井かおり編『演劇ワークショップでつながる子ども達』(成文堂)に寄稿した論文のなかで、ノルディックLARPにおける「ディブリーフィング」(カム・ビョーン=オーレ, 2019, [3.11]参照*1)の考え方を参照しつつ、ワークショップにおける振り返り(会)の意義について考察したことがあります。

 

 

ワークショップをはじめとした教育実践におけるリフレクション。

ノルディックLARPで事後ワークショップとして行われる、ディブリーフィング。

そして、今回「ザ・ベクデルテスト」で体験したアフタートークでのディスカッション。

それらの重なりや異なり、それぞれで見られる相互行為の可能性について、また考えていければと思います。

そして、そう思えば思うほど、せっかく翻訳したフェミニズムLARPをまたやりたい!という思いが募るばかりなので、だれか遊んでください!

そのためにも、「パジャマ・パーティ(Slumber Party)」を、オンライン(Zoomででできるように考えていかなければ。
kimilab.hateblo.jp

 

*1:カム ビョーン=オーレ. 2019. 「「Nordic Larp」入門:芸術・政治的な教育LARPの理論と実践」『RPG学研究』0号: 5-14.DOI: 10.14989/jarps_0_05