kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

「隠れたカリキュラム」のなかの量的調査~「ここにいる」を言うための言葉を育てる(2)~

前回の記事で、2022年2月18日に行われた横浜国立大学附属横浜中学校での校内研究会(非公開)での提案授業「Fy74期生のコロナ禍における○○論~根拠の適切さを考えて自分の考えが伝わる文章になるように工夫する~」と、それに対する協議会での反応(に、わたしがショックを受けたこと)について書いた。

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この研究会のために、単元を構想し、当日授業を提案してくださった柳屋亮先生にとっては、それこそ休日返上で丁寧に考えてきた授業。

それが一蹴されたように感じたのではないか、と心配になり、前回記事で書いたような私自身の考えをメールでお伝えしたところ、これまた丁寧なご返信をいただいた。

 

柳屋先生ご自身から、転載の許可もいただいたので、メールの一部をそのまま引用する。

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「ここにいる」を言うための言葉を育てる~フェミニスト国語教育学に向けて

本日は、横浜国立大学教育学部附属横浜中学校の授業研究会(非公開)でした。

2021年度の研究発表会が、コロナウイルス感染拡大の影響で開催できなくなってしまったこともあり、本年度こそ公開で開催できればよいなぁ、とは思っていたのですが、オミクロン株の影響が著しく、本年度も非公開での開催となりました。

今年も3月中旬頃、こちらのページ「基調提案」「教科提案」「指導案」が掲載されるとのことです。

本年度、研究発表会で公開予定であった授業は、中学2年生・国語科「書くこと」の実践として、同校・国語科の柳屋亮教諭によって行われた、以下の実践。

 

「Fy74期生のコロナ禍における○○論

~根拠の適切さを考えて自分の考えが伝わる文章になるように工夫する~」

 

「Fy」というのは、「(横浜国立大学教育学部)附属(Fuzoku)横浜(Yokohama)中学校の頭文字をとった略称*1

柳屋先生は、これまでにも、『TEACHannel』にて、これからICT導入をしはじめる先生方に向けて「はじめての1人1台端末」というタイトルのコラムを書かれているなど、自身の実践から見出された知見の発信にも取り組まれています。

teachannel.kanken.or.jp

今回の授業実践を行うことになった附属横浜中学校の「74期生」は、中学校に入学するやいなや、長きにわたる休校期間と、突然の全面オンライン授業に直面した世代にあたります。

そして、そのあまりにも特異なスタートで始まった中学校生活が、いわゆる「通常」のかたちに戻ることはなく、いまでも「ウィズ・コロナ」の学校生活が続いています。

そんな中学校生活を送ってきた生徒たちに、「歴史的な事件」であるとすらいえる自分たちの中学校生活を振り返るとともに、少しだけ距離を置いたところからそれを眺めなおしつつ、社会全体に向けて「私(たち)にとって、コロナ禍の中学校生活というのはこのようなものであった」ということを伝えてほしい。

「個人的なものに過ぎない」「主観に過ぎない」と、自分の経験をとるにたらないものとして切り捨ててしまうのではなく、今、たしかにここに生きている自分たちの経験とそこから編み出されたストーリーを社会へと伝えていくこと、そのことに意義があるのだ、と伝えたい。

そんなことを、柳屋先生と、時間をかけて話し合っていきました。

桐光学園中・高等学校(監修)(2021)『学校! 高校生と考えるコロナ禍の365日』や、内田樹(2020)『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』などを見ながら、「『学校!』だと、「生」の声がそのまま吐露されているだけだけど、生徒たち自身に相対的に振り返ってほしい」「そうすると、視点の取り方としては『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』のように、ある特定の立場・観点を決めたほうがよいのでは?」などと話し合ったことを思い出します。

 

 

そんなやりとりを重ねた結果、まず1月から「話すこと・聞くこと」の単元として、生徒たちの「声」を掬い上げるためのインタビューを行ってみようということになりました。

*1:いまだにこの略称には疑問があるのですが、すでに「74期」ともなるともはや変えられないのだろうとも思っています

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「ザ・ベグデルテスト」のアフタートーク~そして、リフレクションとディブリーフィング

インプロとジェンダー探求プロジェクトの第1回「ザ・ベクデルテスト(The Bechdel Test)」公演を視聴しました。

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The Bechdel Test第1回公演案内

※インプロとジェンダー探究プロジェクト 第1回 The Bechdel Test 公演のお知らせ | yuriesonobe.com

「ザ・ベクデルテスト」については、以前、「ダレデモデラルテ」の公演・第2弾として行われた際に、こちらのブログ記事でも紹介しました。

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今回、第3回(7/23午前)に出演されていた内海さんが、2年前に「ザ・ベクデルテスト」の公演に出演された際のnote記事も面白かったので、こちらでご紹介しておきます。もっとも興味深いのは、公演直前に書かれたと思われる、このときの記事で内海さんが「そしておそらく僕がザ・ベクデルテストに関わるのは今回が最後だと思っている」と書かれていたこと。その後、内海さんにどのような変化があり、、なぜ、今回再度出演するに至ったのかを、ぜひ今度お聞きしてみたい、と思わずにいられません。

note.com

今回の公演は、ダレデモデラルテ第2回公演のときと同様、Zoomを用いたオンライン公演のかたちで行われました。

公演時間は、90分。 

そのうち60分がインプロによるパフォーマンス、その後、30分がアフタートークというかたちで行われました。

インプロ(即興劇)のパフォーマンス部分は、女性たちのモノローグからスタートします。 内海さんの記事にもあるように「ザ・ベクデルテスト」の本来のフォーマットでは、3人の女性が登場し、その3人のモノローグから公演がスタートするのだけれども、今回、メインキャストとして登場する女性は2人でした。

2人の女性のモノローグが始まり、そのモノローグに沿って、観客たちが彼女の「名前」や彼女の生活に関する何か(これは本当にいろいろ)についてアイデアを出しあいそこから、彼女たちの設定(の一部)が決められていきます。

その後、2人の女性がはじめのモノローグやその設定を展開させていきながら、インプロ(即興劇)をはじめとしたさまざまなストーリーの中で、見過ごされてきたり、見落とされてきストーリーを積極的に掬い取ろうとしながら、シーンが展開していきます。そして、最後は、その2人の女性たちのモノローグがクロスし、それが、あたかも一つに重なりゆくように見えたとき、その公演は終幕を迎えます。

 

その後の「アフタートーク」では、公演で起きた出来事をもとに、私たちが「当たり前」に触れている数々のストーリーのなかでのジェンダーについて考えたり、話したりしていくのですが、今回、この「アフタートーク」がとてもエキサイティングでした。

 

たとえば、第3回公演のアフタートークで、わたしは、パフォーマーに次のような問いを提起しました。

介護の件。
尾崎ゆかり(メインキャストの役名)の父役さんがまったくかかわらない、という選択をしたことが気になっています。結局、「男はかかわらない」という想定を貫く選択をしたのは、なぜですか

このインプロ公演のなかでは、翻訳の仕事に従事する傍ら、認知障をかかえる母親の介護をし続ける女性が登場しました。その女性が介護することで自分がやりたい、と思うことができなくなっている、介護そのものに疲弊してしまっているのではないか…ということが伝わるようなシーンも出てきます。

そのようなシーンが演じられたあと、その女性と女性の父親(認知症を抱える母からみれば、夫)との対話シーンが登場するのですが、その中で、父親は「旅行に行ったらどうか」という提案はするのですが、(そのメインキャストの女性が「お母さんのあんな姿を見ているのはつらいよね」と言うシーンはあっても)自分が介護を代わろうか、という提案をまったくしないのです。

わたしはそのことが、とても、不思議でした。

「What else」を探っていくはずの「ザ・ベクデルテスト」のなかであればなおさら、「介護をが彼(メインキャストの女性の父親)が担う」という可能性が探られてもよいはずなのに。

 

このような問いに対して、そのとき父役を演じたパフォーマーから、「パフォーマーとして、このとき『父』を出そうと思ったのは、(『尾崎ゆかり』を)旅行に行かせてあげたかったからだ」といいう思いとともに、「(自分が『介護を担う』と言い出さなかったのは)どこかで、そういうもんだと思っていたからだ」ということが語られました。

わたしは、このパフォーマーの発言に、いたく感動して、即座に次のようなコメントを送っています。

「そういうもんだと思ってる」!
これ、インプロにおいて根深い問題(?)だと思いました。そのキャラクターとして、オーディエンスに対して伝えようとすると、社会・文化のステレオタイプどおりに演じなければならない、ということがありますよね。
この問題を、このインプロフォーマットがどのように考えていくのか・・

また、他の話題のときであったと思いますが、別の男性パフォーマーの方から、自分が出ようとすると、どうしても「恋人」になってしまう、「恋人」以外が思いつかないので、別のパフォーマーに任せてしまった部分がある、というコメントもありました。

わたしは、「ザ・ベクデルテスト」の公演を鑑賞するのは、まだ2回目ですが、このような「アフタートーク」でのやりとりができる場は、とても貴重だ、すごいことだ、と思いました。

父役として出たときに『そういうもんだ』と思って、父が介護を引き受けるシーンへと展開できなかったこと。

女性がメインキャストとしているシーンに、男性として登場しようとするときに「恋人」以外で出る可能性が思い浮かばないこと。

こういうことが、パフォーマー自身の振り返りとして、言葉で説明されることで、インプロをはじめとした舞台のうえに存在するパワーのようなもの、私たちの身の回りにあるストーリーの典型性とそれがもたらす束縛のようなものを、私たちは、言葉にして話し合うことができます。

 

「ザ・ベクデルテスト」に出演するパフォーマーたちは、ステレオタイプに絡められつつそれを即興で演じていいく。

もちろん、脚本を書くことでそれを書き換えていくことはできるけれど、即興的なかたちで次なる一歩を考えていき、そこで起きたことをリフレクションしていく。そしてさらに、次なる一歩を考える…「ザ・ベクデルテスト」は、それを繰り返していくことで、新たな私たちのイマジネーションと現実をパフォーマンスする力を拡張していく。

そのような意味では、「観客」側の果たす役割もとても大きい。

パフォーマーの皆さんがリフレクションし言語化するしてことももちろん、観客の側もそのパフォーマンスを見ている自分自身をリフレクションし、言語化することで、このような「アフタートーク」でのディスカッションが成り立っていくのだと思うと、観客の側の役割もかなり大きな位置を占めていることは、間違いなさそうです。

パフォーマーと観客とが一体になりつつ、みんなで、「次なる一歩」を創造していく。「ザ・ベクデルテスト」は、そういう社会実践といえるのかもしれません。

 

以前、松井かおり編『演劇ワークショップでつながる子ども達』(成文堂)に寄稿した論文のなかで、ノルディックLARPにおける「ディブリーフィング」(カム・ビョーン=オーレ, 2019, [3.11]参照*1)の考え方を参照しつつ、ワークショップにおける振り返り(会)の意義について考察したことがあります。

 

 

ワークショップをはじめとした教育実践におけるリフレクション。

ノルディックLARPで事後ワークショップとして行われる、ディブリーフィング。

そして、今回「ザ・ベクデルテスト」で体験したアフタートークでのディスカッション。

それらの重なりや異なり、それぞれで見られる相互行為の可能性について、また考えていければと思います。

そして、そう思えば思うほど、せっかく翻訳したフェミニズムLARPをまたやりたい!という思いが募るばかりなので、だれか遊んでください!

そのためにも、「パジャマ・パーティ(Slumber Party)」を、オンライン(Zoomででできるように考えていかなければ。
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*1:カム ビョーン=オーレ. 2019. 「「Nordic Larp」入門:芸術・政治的な教育LARPの理論と実践」『RPG学研究』0号: 5-14.DOI: 10.14989/jarps_0_05

国語教育相談室:「誰だって落ち込むことはある」の主語・述語

「国語教育相談室」と書いてみましたが、新たにそんなコーナーを始めるというわけではありません。「国語教育相談室」みたいなものが必要ですね、という話です。

 

先日、教育に関わられている方より、中学校で出題された文法問題について、質問を受けました。

「次の各文の主語と述語を書き抜きなさい」という指示のもと示された複数の文の中に以下のような文があったのだが、この文の主語と述語は何になるのかを教えてほしい、ということでした。

 

誰だって落ち込むことはある。

 

文法教育においては、「学校文法」というちょっと特殊な文法の存在を考慮しなくてはいけなかったり、そもそも、私自身が、文法のことをよくわかっていないので、専門家にお聞きすることにしました。

今回、ご相談したのは、文法教育史の専門家・名古屋女子大学の勘米良佑太先生と、文法史の専門家・大阪教育大学の清田朗裕先生です。

国語教育と日本語学(国語学)、バランスよくお話がお聞きできるのでは?というご期待のもと、お二人に(ボランティアで)お考えをお聞きしました。

 

まず、勘米良先生からのご回答です。

まず、日本語学的な文法論にもとづくとどのように説明できるか、とういことで、三上章『象は鼻が長い』に基づくご説明をいただきました。

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勘米良先生:日本語学的な説明

これに従うと、「主語」は「落ち込むことは」(今回は、「主語」を問われているため、一文節を書き抜く課題なので「ことは」になるでしょうか)、「述語」は「ある」になりそうです。

しかし、これはあくまで、日本語文法論にもとづく説明。

中学生たちが学校で学習しているのは「学校文法」ですので、「学校文法」ではどのように考えられるのでしょうか。

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勘米良先生:学校文法では?

…というわけで、連文節の考え方を使えば「主部」「述部」という構成で考えられそうです。ただ、「主語(主部)」は、「誰だって」で考えられる、そうすると対応するのが「述部」になってしまって、ちょっとうまくいかなそう…というのが、勘米良先生の見解でした。

 

続いて、清田先生のお考えです。

清田先生は、はじめに、「学校文法」にもとづく説明をしてくださいました。

考える順序までしっかり説明してくださっていて、わたしのように文法の考え方がよくわからっていない者にとっては、大変ありがたいです。

 

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清田先生:学校文法に基づく説明

「学校文法」にもとづくと、2つの「正解」がありそうだ、というのが清田先生の説明でした。

 

【正解1】「誰だって」(主語)・「落ち込む」(述語)

【正解2】「ことは」(主語)・「ある」(述語)


また、連文節の考え方を使って、「主部」「述部」にわけて考える説明できる、という考え方は同じだけれども、「主部」「述部」の分け方は違うんですね。これはどうしてなんだろう。


そして、日本語学的な文法論に基づく説明もしてくださいました。

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清田先生:日本語文法に基づく説明

複合助動詞!

すごい!この考え方でいうと「落ち込むことがある」全てが「述語」になるのですね。

 

そして、このような考え方について、勘米良先生は、連文節で(主部・述部として)解釈可能とおっしゃっていました。

結局、このような考え方は、学校文法的にも成立可能なのかそうでないのか。

お二人の先生にお聞きしたいことが溢れてくるばかりです。

 

今回、お二人の先生にお話しをお聞きして、思ったのは、「文法問題を、正誤問題として扱うのには限界があるのではないか」ということでした。

おそらく今回のような複雑な文法問題が出される背景には、「『は』『が』があるから主語!」「人だから主語!」というような、ナイーブな文法の捉え方(「疑-文法論」、とでもいいましょうか)をしていないかどうか確かめたいからですよね。

そうだとしたら、一文一答式で正誤を問うようなやり方には限界がある。テスト理論の専門的知見も持たないうちに、オリジナルな問題を作成するリスクが高すぎると思います。

 

そして、もっと大切なことは、子どもたちが「文法」というツールを使いこなして、自分たちの日常の言葉を分析してみたり、新たな文を生成することの手がかりにしていけることですよね。

 

そうだとしたら、むしろ今回のような、ナイーブな感覚では分析しにくい文法問題をあえて出題したうえで、子どもたちに「なぜ自分はそう考えたのか」を説明してもらっては、どうでしょうか。

子どもたち一人一人によって辿りつく「解」は異なっても、その道筋が適正なものであるかどうか、を評価することはできます。

 

今回お二人の先生にお話しをお聞きしながら、「謎解き」のように文法問題を考えていくことができました。

二人の先生がそれぞれに違った概念的とツールを使いながら、別々の説明をしてくださるのを聞くのは本当に面白い。

こういうかたちで、文法の考え方が生き生きと活用されていくような場面を、もっと子どもたちと共有できたらいいのに。

 

…というわけで、子どもや保護者、そのほかいろいろな人たちが、国語教育にかかわる、こういう疑問を感じたときに、問い合わせたり、その問いをもとに専門家が、コンセンサスの形成に向けて議論できる場があったらいいいな、と思ったのでした。

 

プレイフルに言葉を生みだす体験を共有すること~全国大学国語教育学会2021春大会公開講座「言葉のティンカリングとことばあそび」

全国大学国語教育学会2021春大会の公開講座「言葉のティンカリングと言葉遊び」に参加してきました。

askoma.info

3時間にもわたる(!)記録動画なので、全部を視聴するのもなかなかエネルギーがいると思うけれど、Youtubeページ内にアップロードされている当日資料や、当日のワークショップの様子とそれに対するあすこま先生の感想をまとめた「あすこまっ!」ブログの記事(面白かった!詩創作のワークショップ 全国大学国語教育学会より② | あすこまっ!)を参照しつつ、早送りしながら重要なシーンをチェックしていくのがよいかもしれません。

あすこま先生の記事、「ティンカリングとはそもそも何か?」というところからはじまって、当日のワークショップで経験することができた詩教育のテクニック(「フリーライティング(Freewriting)」「マッピング(mapping)」、「おしゃべりなモノ(Object talking)」)や、ドラフトの共有とそれをめぐるディスカッションがどのような様子だったのか、まとめてくださっていて、ひたすらありがたいです……!

askoma.info

 

こんな感じで、公開講座「言葉のティンカリングと言葉遊び」がどのようなワークショップだったのかについては、すでに、かなり運営側の皆さんを中心に、情報をオープンにしてくださっているので、ここでは、わたし個人がワークショップのなかで書いたもの、創ったものを共有したいと思います。

 

わたしは、「誰かがつくった詩に対して、率直に感じたことを言って、そこでもらったコメントから新たなアイデア創発されたりするようなやりとり」が起きることを、すごくステキなことだと思っていて、もっと、こういうやりとりがいろいろなところに「飛び火」していくといいな!と思っているのですが、なんだか、それを伝えるのが難しい。

なかなか「飛び火」していかない。

だとしたら、もっと、気軽にそういうやりとりを見られるようにしたり、体験できる場を増やしたりして、「ああ、こういう感じのやりとりか!確かにステキ!」「自分もやってみたい!」って思ってもらえるようにしたらいいのかな、と思ったんです。

 

先日もたまたま参観した小学校の俳句創作の授業のなかで、子どもたちに「どうしてその表現にしたの?」「その表現の工夫を選んだ理由はなに?」と詰問していらっしゃる先生方を目にしました。日本の学校の詩創作(俳句・短歌を含む)の授業だと、あまりに周りの大人たちが、自分自身がその詩に対して思ったこと(「自分にはこう見える」「こう読める」)を伝えることを躊躇しすぎているように見えます。

子どもたちの側にも、自分の詩の良さを伝える言葉がなかったり、まだ限られた言葉しかないうちに、大人たちの側からその言葉をまったく届けることもなく、子どもたちに「どうして?」「理由は?」と聞き続けても、「なぜなら~」「その理由は~」の話型練習にはなるかもしれないけれど、「言葉の使用者でもあり、創造者でもある」という「言葉する人(Languager)」に近づけるチャンスを無駄にしてしまっている気がします。

 「言葉する人(Languager)」については2019年に日本質的心理学会での会員企画シンポジウムのテーマとしてとりあげました。こちらにアップロードされているオンライン報告書をご覧ください。
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そんな話を、メールで、本講座の企画者であり、共同ファシリテーターでもある中井先生にお伝えしたところ、「本当に、詩を書くこと、それを人に見せることもさることながら、人の書いた詩にコメントをすることも多くの先生方が躊躇されていることだと思います。これまであまり意識してこなかったのですが、今回のワークショップで強く思いました。」といううれしいコメントをいただけたのみならず、中井先生からいただいた、わたしの詩へのコメントも公開してよい!ということだったので、わたしの作品とともに、ここに掲載させていただきます。

 

1. フリーライティング(Freewriting)

 まずは、ひとつの単語から連想をふくらませていく「フリーライティング」

今回とりあげられた「お題」は、①「旅(journey)」と、②「奇妙(Strange)」の2つでした。

こちらが、①「旅(jounery)」という語をもとにおこなった、フリーライティング(連想される語を2~3分でとにかく書き続けていく)なのですが、わたしにとっては、かなり難しかった…。

当日、Sue Dymoke 先生にも質問したけれど、「旅」と聞いた瞬間に、(なぜか)青森県の種差海岸と新島の海岸線に沿って無限に続いていく道路の風景が、視覚的にバッと出てきてしまって、はじめのほうは、自分が見えているビジュアルのなかの要素をひとつひとつ拾い上げている感じになっております。

「これじゃ、いかん。ただ要素を拾ってるだけだ」と思って、他のイメージを連想しようとするんだけど、結局、場所が移動して行ったりきたりするだけ(フルーツパークからみた甲府盆地→ふたたび、新島の海岸線)になってしまい、なんだか、とにかくダメでした(笑)

次の「お題」の「奇妙(Strange)」は、もうはじめからあきらめて、映画『ダレン・シャン』のサーカスの風景(映画は駄作です)が出てきたので、そのビジュアルから思い出す単語をたくさん書きました。

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Freewriting1 "Journey"

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Freewriting2 "Strange"

 

2. マッピング(mapping)

そして、次に行ったのは、「自分にとってのはじめての『旅』」をテーマにした「マッピング(mapping)」。

マッピング」という名のとおり、地図のイラストを描いていきます。

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Mapping "My first journey"

この「マッピング」をしたあとに、3人でそれを共有しあう活動があったのですが、このマップへの質問やそれをめぐるやりとりのなかで、「秘密」(右上)「自分だけの秘密の場所」(左中央)というキーワードが出てきました。

さらに、自分のなかで面白かったのは、他のメンバーがつくった詩から創発されるイメージがあったこと。

家族でのキャンプの体験について詩を書いていたメンバーが、地図のなかに「まむし」と書いていて、自分のなかではその「まむし」の存在がすごく怖かったのだ、と説明してくれました。

その話を聞いていて、わたしの中のイメージ・視界があしもとに降りてきて、突然、「はじめての『旅』」の視界がグッとクリアになった感じがありました。そのときに自分の視界のなかに見えてきたのが「ヘビイチゴ」で、その見えてきた色があまりにも鮮やかだったので、わざわざ赤いペンで「ヘビイチゴ」に〇をつけて、さらにイラストも赤く色づけています(左上)。

 

3. ドラフト(draft)と共有

その後、「ドラフトを書いてください」という指示があって、書いてみた「ドラフト」がこちら。

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Draft "my first journey"

今だから白状しますが、実は、ドラフトはこんな感じで2ページにわたって書いていたのですが、3人での共有のときに音読をしていたら「その先には 何があるの?」で読み終わりたくなっちゃって、右側のページのものを削除しました。

 

最終的にできた(提出した)作品がこちら。

 

ヘビの道にあるへびいちご
酸っぱいかもしれないへびいちご

そこは秘密の場所
私だけの秘密の場所

ヘビの道にある私だけの場所

交換日記と手紙
かくれんぼとシーソー
飴玉とチョコレート

ヘビの道の先にあるミニボート
乗れるかもしれないミニボート
用水路の先には真っ暗なトンネルがある

その先には何があるの?

 

この詩について、英訳をつけて、中井先生にお送りしたところ、こんなコメントをいただきました。

 

ワークショップの中でも「イメージが先行して浮かんできた」というコメントをしてくださっていたと思います。

ヘビイチゴの詩を読んでいると、同じく私の頭の中でヘビイチゴがなっているちょっとした小径の映像が浮かんできました
小さい頃住んでいた田舎(とっても山奥)にまさにそのような場所があったのとリンクしているのかもしれません。
その映像と、小さい女の子がこの詩を朗読しているような、まるで映画の冒頭シーンのようなイメージです
これから物語が始まりそうな最後の行もそのように思わせてくれるのかもしれません。

 

短時間で作っただけのこれだけの詩から、こんなにいろいろなアイデアを感じ取ってくださっている。さらに、「自分にとって、それがどう見えるか」についてかなり精密に言葉を選びとり、その言葉を、詩の創り手に投げかけてくださっている。

それが、(未熟な)詩の創り手にとっては、本当に、有難いことなのだ、と身をもって実感した瞬間でした。

幸いなことに、わたしは今回の講座で、他者の詩のなかにあるアイデアを感じ取り、色とりどりの言葉でそれを返してくださるメンバーに囲まれながら、詩創作の体験をすることができたので、こんな経験をなんども味わうことができました。

 

すべての大人たちが、詩の創り手にならんとする子どもたちの詩の前に対峙し、そこに流れるアイデアを掬い取り、これだけクリアカットな言葉で届けられたら…と思わずにはいられません。さらにいえば、それがマッピングやドラフトの共有における、子どもたちのやりとりのなかで起きるとしたら…と思うと、本当にワクワクします。

 

4. 「おしゃべりなモノ(Object Talking)

最後に、もうひとつのおこなった、ある「モノ」になったつもりで語ることによって詩をつくる、という活動のなかで創った詩も共有します。

 

忙しい交差点にある信号機(A traffic light in a very busy pedestrain crossing)

 

喧噪ってなんだろう
そんな言葉の意味すら忘れてしまった
もはやとても静かだ

目の前を通り過ぎる景色は
まるで海のよう

波が寄せては
また引いていく
その繰り返し
ここはとても静かだ


繰り返される波のなか
目をつむっていると
それがまるで自分の呼吸のように思えてくる

私は呼吸する
息を吸う
息を吐く
そしてまた息を吸う

私の呼吸のなかで、この街は生きている

 

そして、これに対する中井先生のコメントは、こちら

 

もうひとつの信号機の詩は、とてもbusyな交差点なのに、いやそうだからこそ目から入ってくる情報が多量で、音が聞こえなくなってしん、としている空気を経験したような気持ちになりました。
でもその視覚情報すら閉じてしまうと、感じられるのは自分の呼吸だけになるのですね。
その第5連がとても気に入って、日本語も英語もなんども音読しました。ゆっくり。
とても素晴らしい作品をありがとうございます。

 

中井先生のコメントそのものが、とても詩的で、スーッと心のなかに入ってきます。

 

どうしたら、こんなに麗しいやりとりを、いろいろなところに、広げていけるのでしょうか。

パフォーマンス心理学関連シンポジウムの報告書が公開されました

2019年3月に参加してきたイーストサイド・インスティテュート(East Side Institute)イマージョンプログラムで得た経験や知見をなんとか日本につなげたい!という思いから、2年間にわたり、日本質的心理学会大会での会員企画シンポジウムの企画にかかわってきました。

私たちが、ニューヨークでのプログラムを終えて、日本に戻ったのが3月中旬。それから数週間後に公開された、ロイス・ホルツマン(Lois Holzman)先生の記事があまりにもうれしくて感涙した記憶は、それから3年以たった今でも、リアルです。

loisholzman.org

私自身のイマージョンプログラムの報告(一部)はこちら。

 

kimilab.hateblo.jp

 

これらの企画は、日本認知科学会・教育環境のデザイン分科会(SIG-DEE)に共催で行われていたのですが、そのおかげで、これらのシンポジウムのオンライン報告書を作成・公開することができました!

 

1.「関係を紡ぐ言葉の力/言葉を紡ぐ関係の力―『言葉する人(Languager)の視点から心理療法・教育・学習を横断的にとらえなおす」(日本質的心理学会第16回大会, 2019年)(PDF)

イマージョンプログラムのなかで印象的だったセッションのひとつに、グウェン・ローウェンハイム(Gwen Lowenheim)先生の「日本語と遊ぶ(Playing with Japanese)」というセッションがありました。

そのなかで、キーワードとして何度も使われていた「Languager」という言葉に焦点をあてながら、「言葉を使用する種でもあり、言葉を創造する種でもある人間」という視点から、分野横断的に、人間の発達・学習というものを捉える理論的ベースを創れないだろうか、と思い、青山征彦先生(成城大学)とともにこのようなシンポジウムを企画しました。

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2019年度シンポジウム表紙

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2020年度シンポジウム情報

松嶋秀明先生によるご発表は、松嶋先生のご著書『少年の「問題」/「問題」の少年』(新曜社)で報告されているフィールドワークの成果を、パフォーマンス心理学的な観点からとらえなおしたもので、非常にエキサイティングでした。ここでの議論は、新曜社ウェブマガジン「クラルス」での連載記事「『道具と結果方法論』から見た学校臨床での議論にもつながるもので、あわせて読むと、本連載記事でその後展開されているディスカッション部も含めて、ひとつのフィールドワーク事例から、議論が広がっていく感じがして、面白いです。

clarus.shin-yo-sha.co.jp

 

 

2.「知識偏重社会への警鐘―『知らない』のパフォーマンスが未来を創る」(日本質的心理学会第17回大会, 2020年)(PDF)

ロイス・ホルツマン(2020)『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る―知識偏重社会への警鐘(原著名:Overweight Brain)』(ナカニシヤ出版)の出版を記念して開催されたシンポジウム。

本書の編訳者であり、ロイス・ホルツマンらによる「パフォーマンス心理学」の議論を日本へと紹介・普及してきた、茂呂雄二先生による「パフォーマンスとは何か?」「パフォーマンス心理学が日本での議論にもたらす示唆とは何か?」についてのプレゼンテーション。

佐伯胖先生による本書およびロイス・ホルツマン『遊ぶヴィゴツキー:生成の心理学へ』(新曜社)への本質をついたクリティカルなコメント発表「パフォーマンスはあやしい!」

そして、それをめぐる本書の訳者陣と、サトウタツヤ先生による(口頭およびチャットでの)ディスカッション。

……と、今考えてみると、パフォーマンス心理学の今後の日本での展開を考えるうえで、かなり重要なイベントになったな…!と思えるシンポジウムでした。

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2020年度シンポジウム表示

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2020年度シンポジウム情報

このシンポジウムの記録が残せて、本当によかったです。

本書の訳書出版のために開催した、第1回翻訳検討会を開催したのが2018年12月…思えば遠くまできたものです。

 

kimilab.hateblo.jp

 

わたしは当日の口頭での議論には、ほとんど参加できていませんでしたが、チャットでの情報提供を頑張りました!

オンライン報告書では、複数のチャンネル上で展開されながら「渦」をつくっていくような議論の展開をどのように「記録化」できるか、自分なりにチャレンジしてみたつもりです。

オンラインでの議論の場は、おそらく今後も続くであろう現在。

ぜひこれをきっかけに、オンラインでの議論についての「記録化」の仕方についても、いろいろな人と議論していきたいと思いました。

 

以下に示すのは、これまでに出版されている、ロイス・ホルツマンやフレド・ニューマン、イーストサイド・インスティテュートにかかわる研究者・実践家による、パフォーマンス心理学関連書籍です。

わたしがこの分野ではじめて翻訳にかかわったのは、2016年に出版された、キャリー・ロブマンほか『インプロをすべての教室へ』(新曜社)でした。

 

kimilab.hateblo.jp

フレド・ニューマン&ロイス・ホルツマン(2020)『  革命のヴィゴツキー』(新曜社)のような重厚な理論書までをも含む7冊もの書籍が日本で出版され、日本語でそれらを読むことができる(!)という事実に、あらためて感動を覚えます。 

 

   

 

『あらためて、ライティングの高大接続』往復書簡を受けて

 ひつじ書房ウェブマガジン『未草』の中に、今年4月から、「Book Review」の姉妹編として「Letter: Black Sheep and white Sheep」というコーナーが設けられています。

Letters:Black sheep white sheep | 未草

 

このはじめのシリーズとして、『あらためて、ライティングの高大接続』(ひつじ書房)をめぐる、同署の著者2人(島田康行先生・渡辺哲司先生)と、あすこまさんとの往復書簡が展開されていて、とても興味深いです。

5月10日、著者陣からの「あすこま」ブログ記事における書評へのコメントが公開され、その3日後、あすこまさんから、そのコメントへの返信が公開されました。

www.hituzi.co.jp

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このやりとりの中で、「アカデミック・ライティング」を、学術論文やそれに準じた/その方向性を目指したレポートではなくて、小中学校も含む学校教育全体で書かれているような「事実や意見を伝える文章」に拡張して考えましょう、という提案がなされ、それについて、肯定されるかたちで議論が進んでいるようなので、それに対しては、ちょっと違和感をもった。

たとえば、マクミラン社が提供しているオンラインのフリーディクショナリーで「academic writing」を検索すると、次のような語釈が表示される。

ACADEMIC WRITING (noun) definition and synonyms | Macmillan Dictionary

①エッセイや研究論文、その他の学術的文章に使用される、フォーマルで、かつ、事実に関わる書くことのスタイル(a formal and factual style of writing that is used for essays, research papers and other academic texts
Whilst academic writing has its place, this mode tends )

 

②学術的なスタイルで書かれたテクスト(texts that are written in an academic style)

 

なんでもかんでも辞書的な定義に忠実になるべきとは一切思わないけれど、あまりにも原語の定義から拡張すると、何がなんでも「アカデミック・ライティング」になってしまうようで、わたしにとっては、息苦しい。

わたし自身は、大学院時代に、「vocational Literacy(職業リテラシー)」とか、「venacular Litearcy(ヴァナキュラー・リテラシー)」とかに関心をもって研究をしていた時期があり、

さらにいうと、今、まさに、宮澤先生と進めている「つながりの学習(Connected Learning)」(初版のレポートはすでに日本語で読める→『つながりの学習(Connected Learning)』)と国語教育・読書教育をつなげる研究のなかでも、「アカデミック」でない領域につなぐための言葉やリテラシーの教育について考えていたところでもあったりする。

 

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あすこまさんが本書についてコメントした、はじめの記事でも、大学進学率が半分強に過ぎないこと、アカデミック・ライティングが多様な書き言葉の実践のひとつにすぎないことは指摘されているので、おそらく、その当初のコメントの趣旨を踏まえたうえで、議論が修正されていくのだとは思うのだけれども、現在の議論の流れを見ると、少し不安を覚えてしまう。

 

私自身は、奇しくも、アカデミックに書くことの文脈のなかで、「アカデミック・ライティング」のスタイルを問い直すという、奇妙な経験をしてきました。博士論文では、1章分もかけて、「自分自身がこの論文をどのような文体で書くべきか」について論じていますし、(さすがにそんなに書く必要はなかったのでは、と今になって反省していますが)いまだに、論文を書こうとするたびに、「この論文は、どういう文体で書くべきか?」をはじめに考えてます。

 

おそらく、私のように、ヴァン=マーネン(1999)『フィールドワークの物語―エスノグラフィーの文章作法』に影響を受けて文体を捉えなおしたり、ケネス・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』などの議論を受けて、自分自身の研究を伝え、届け、議論するためのメディアそのものについて問い直している研究者は、たくさんいると思います。

 

そんな文体そのものの問い直しのなかで、「アカデミック・ライティング」とは、「書き手自身を、人々が生を営む世界から遊離した超越的存在(『神様』のような存在)に置き、第三者的に何かを眺めたような視点で書くことで、なんらかの『発見』を見出そうとする文体」ととらえ、実際に、自分自身がアカデミック・ライティングの教育にかかわるなかで、それを学生たちに伝えてきたわたしにとって、「なんでもかんでも、アカデミック・ライティングととらえましょう」という提言は、「暴力的」にすら映るのです。

 

タラ・ウェストーバー『エデュケーション』を読んだ感想を、このブログにも投稿しました。 

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本書のタラである著者が、自分自身の揺らぐ記憶を乗り越え、本書を書くことができたのは、(歴史学において通常、採用されている)「アカデミック・ライティング」の視点・技法に依るところが大きいと思います。

「アカデミック・ライティング」の視点・技法がもつパワーは、たしかに大きいし、それでないとできないことはたくさんあります。

ただ、それだけに、そこで通常に採用されている文体では「できないこと」もたくさんあって、わたしのように、質的研究にこだわってきた人たちの多くは、その文体とずっとずっと、格闘してきたのだと思うのです。

 

そのことを、いま、書かなければならない、と思って、ブログ記事を書きました。

わたしたちの生きる世界には、多様な読むこと・書くことがあり、その多様性を守り育むことが、国語教育の役目だと、わたしは思います。

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華雪《紙に字を植える》ワークショップより