施設で育つ子どもたちのライフストーリー
先日、フレンドホーム(週末里親・季節里親)に登録したことをご報告しました。
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、初回活動日が延期になったりしていたのですが、8月下旬、ついに、初回の活動を行うことができました。初回は、ショッピングモールでうろうろウィンドウショッピング的なことをしてきました。
まだ、顔合わせのミーティングと初回の活動しかしていないのですが、そのなかで出会ったり、知ったりする出来事ひとつひとつが新鮮で、とても興味を惹かれます。
「もっと知りたい」と思い、つい、いろいろ調べてしまっているなかで、わたしがお世話になっている施設のポリシーのひとつに、❝子どもたちひとりひとりの「ライフヒストリー」を大切にする❞という趣旨の内容が記載されていました。
続きを読む「教育広報講座:哲学編~教育・学習と広報の関係を哲学する」に参加してきました
特定非営利活動法人教育のためのコミュニケーションによる「教育広報講座~哲学編:教育・学習と広報の関係を哲学する」に参加してきました。
当日の様子については、「入門編」「実践編」「哲学編」あわせて、下記のページにレポートが記載されていますので、そちらをご参照ください。
NPO法人教育のためのコミュニケーションには、以前、「教育言説としてのファクトチェック:プレ入門編」にゲストとして(?)お呼びいただいたことがあります。
もともと、エスノグラフィックな手法を用いる研究者として、教育・学習のフィールドで起きていることをいかに記録するのか、いかに伝えるのか、ということに関心があったこともあり、NPO法人教育のためのコミュニケーションは、とても気になる存在なのです。
今回の「教育広報講座」では、代表理事の山崎一希さんご自身が、現在、茨城大学の広報担当として行っている仕事と、そこで考えてきたことの紹介を中心に、集まった人たちと「教育・学習と広報の関係を哲学する」ということだったので、「これは、行かねばなるまい!」と思い、参加してきました。
続きを読む学習マンガの読み比べ@マンガピット~伝記マンガ編
2022年3月末にオープンした、マンガ×学びの拠点「マンガピット」。
以前、こちらのブログ記事でも、このときの訪問レポートをアップしておりますが、このたび、教職大学院の授業の一環として、「マンガピット」での出張講義を行ってきました。
kimilab.hateblo.jp
教職大学院の授業は、基本的に、1回あたり2コマ(90分×2コマ=180分(3時間))。そのため、15:00集合・18:00解散の予定でスケジュールを組みました。
具体的なスケジュールはこんな感じです。
はじめに、集まった人たちで「わたしとマンガ」というテーマで自己紹介をしあったあと、その話の流れで、「学び×マンガといえば?」というテーマで自由にいろいろ話しあいをしました。
このフリーディスカッションでは、かなりいろいろな話題が出ました。
国語科の授業において読解対象の理解を促すための副教材として用いられるマンガ(例:「源氏物語」を理解するための副教材としての大和和紀『あさきゆめみし』)や、マンガによって誰かから離される「話」をよく理解できるようになったといったエピソードのみならず、「LLマンガ」の話、『マンガノミカタ』で紹介されているようなマンガ表現の読み方についての話まで出てきました。
mediag.bunka.go.jp
その後、「これも学習マンガだ!」のプロジェクトや、「マンガピット」の蔵書内容についてご案内いただいたのち、本日のメインの学習活動として考えていた「学習マンガの読み比べ」を行いました。
上に示したスケジュールでは「演習1」「演習2」と2つ用意していたのですが、今回は、「演習1:ノンフィクション・知識に関する本としての『マンガ』」のみを行うことにしました。
そのなかでも、今回取り組んでみたのは、「伝記マンガ」の比較です。
「マンガピット」の蔵書には、いくつかの特徴があり、それを言い尽くすことは難しいのですが、「伝記マンガ」に関しては次のような2つの大きな特徴があるといえます。
(1) 複数社が発行する学習まんがシリーズを揃えていること。
(2) 「ストーリーマンガ」として発行されている「伝記マンガ」も所蔵されていること。
そのため「スティーブ・ジョブズ」に関しては、なんと4作品の比較が可能(!)です。
今回は、時間が限られていることもあり、そんなにたくさんの比較をすることはあきらめて、2社くらいで比較ができそうな歴史上の登場人物をとりあげて、比べ読みをしてみることにしました。
その結果、今回見てみることになったのは、「ジャンヌ・ダルク(2作品)」「宮沢賢治(2作品)」「ヘレン・ケラー(4作品)」、「紫式部(2作品)」の4人。
わたしは、「紫式部」をとりあげ、『清少納言と紫式部(小学館版 学習まんが人物館)]』(小学館)と『紫式部: はなやかな王朝絵巻『源氏物語』の作者 (学研まんがNEW日本の伝記)]』(学研)を比較してみることにしました。
…が、比較してみると、かなりキャラクター性が違っていて「これ、同じ人物か?」と言いたくなります。
比較して読みながら、「この違いは、監修している研究者の違いによるものかなぁ…?」とぼんやり考えていたのですが、最後に共有した結果わかったのは、同じ監修者によって監修されていた「ジャンヌ・ダルク」であっても、2作品のキャラクターは(真反対ともいえるほど)違っていたということ。
たしかにジャンヌ・ダルクであれば、どんなキャラクターの描かれ方であっても、「それこそが、正解!」とはならないとは思うのですが、通常、学校図書館や公立図書館に設置されている学習マンガは1社分で、そのシリーズのその作品だけでその人物に出会うことを考えると、どの「伝記マンガ」と出会うかで、その人物に対する印象がかなり違ってしまいそうだな…という印象を受けました。
そう考えてみると、「どの学習マンガを図書館に採用するか」を考えるべき立場にいる人たちが、一度、このようなかたちで、複数のシリーズの学習マンガを比較読みしながら、各作品やシリーズの特徴について、あれこれ言い合ったり、自分なりの見方をもっておくことは大切なことであるように思います。
今回は、「学習マンガの読み比べ」企画の第1弾として、自分が興味ある「伝記マンガ」をとりあげてその比較を行ってみました。
…が、「伝記マンガ」ひとつとってもまだまだ切り口はありそうですし、「学習マンガ」に広げてみてもやれることはたくさんありそうなので、教職大学院の授業のみならず、いくつかの機会をつかまえて、「学習マンガ比較」をいろいろな人たちと、継続的にやってみたいと思います。
評論文や説明文にかかわるマンガ比較もやってみたい企画のひとつなので、ぜひ関心のあるかたは、お声がけください。
フレンドホーム(週末里親・季節里親)と社会的養護
「フレンドホーム」に登録し、ついに来月あたりから、少しなにか活動できそうかな?という段階まできました。
こども未来横浜のページでは「フレンドホーム」について「児童養護施設で生活している、親や親族の面会の少ない子ども達を、 夏休み・お正月などに迎え入れる横浜市独自の制度です」と記載されています。「横浜市独自の精度です」とありますがが、他の自治体でも「週末里親」「季節里親」などいろいろな名前で、同様の制度があるようです。
いわゆる「里親制度」に定められた「里親」になる場合、1年程度の研修があったりしたのち、地方自治体の長による「里親」認定を受ける必要があるようなののですが(「里親について」-こども未来横浜)、「フレンドホーム」の場合は「登録」のみなので、管轄の児童相談所に連絡をして、「フレンドホーム」登録希望の申請をし、その申請が通れば「登録」となります。
…と、このように書くと簡単そうなのですが、けっこう時間はかかるし、何回も説明やヒアリングがあるんだなぁ、という印象でした。
続きを読む現実と虚構の多層性によって生じる「学び」~マンガ×学びの拠点「マンガピット」
3月末にオープンした、マンガ×学びの拠点「マンガピット」。
「マンガ×学び」をテーマにした初の施設ということで、とてもオープンを楽しみにしていたこともあり、4月中旬に早速、訪問してきました。
「マンガピット」の蔵書やレイアウトについて、司書みさきさんにご案内いただく、というとてもスペシャルな時間で、「マンガで学ぶとは?」「そもそも『学ぶ』とはどういうことか?」など、たくさんのことを考えたり、話したりするきっかけをいただきました。
この「マンガピット」では「これも学習マンガだ!(これが学習マンガだ!)」選出マンガはもちろんのこと、学校的学習のための学習用図書として作られたような(いわゆる)「学習マンガ」もともに配架されていて、とても面白い蔵書空間になっています。
こちらの写真では、ポプラ社のコミック版「日本の歴史」シリーズなど、いわゆる「学習マンガ」として発行されている日本史学習マンガの近くに、よしながふみ『大奥』
や、和月伸宏『るろうに剣心』が全巻設置されていることがわかります。
ここは、いわゆる「日本史」に関するマンガが並べられたゾーンですが、このようなかたちで、学校の教科名を「ジャンル」とみなした…いわば「教科ジャンル」(?)ごとにマンガが並べられているのが、とても面白い。
ふだんから学校教育に馴染みがあるわたしにとっては「教科」というものに対してもっている信念やイメージを捉え直すきっかえになりますし、一マンガ愛好家としては、自分の好きなマンガに対して新たな解釈を提示されたような感じもします。
どちらの側面から見ても面白い。
朧気な記憶をたどりながら、「マンガピット」内部の見取り図を書いてみたものがこちら!(「デジタルギャラリー」と書いたのは「E gallery」のことです)。
「国語」ゾーンでは、古典作品のコミカライズ作品のみならず、「ドラえもんの国語おもしろ攻略」シリーズなどが並んでいるところです。「国語」の場合、「ことわざ」「慣用句」「故事成語」をテーマとした学習マンガがたくさんあるのだということを知りました。
そういえば、わたしも(マンガではないですが)ことわざは五味太郎の『ことわざ絵本』シリーズで学びましたね。なつかしい。
「現代社会」~「キャリア教育」系、そして「理科(生物系が多い印象)」のゾーンをは、現実と虚構との関係がかなり多様で、つい「ここに来る人たちが、それぞれに「虚構」と「現実」とを見分けつつ、それぞれのスタイルで接合したりできるようなリテラシーが必要なのではないか」と考えてしまいます。
もちろん、「国語」ゾーンにある古典のコミカライズだって、実際の古典文学のテキストとコミカライズされたテキストとの間には距離があるし(これは、虚構同士の関係ですが)「日本史」「世界史」ゾーンにある「学習マンガ」だって、おおいに虚構性はあるわけですが、現代社会にある出来事をモチーフにし、現代の社会に関する「知」を扱ったものだと、どうしてもそこで描かれているもの、現実との距離感やアプローチの雑多な感じが気になってしまったのかもしれません。
こんな感じで、現実と虚構とのさまざまな重なりあい方について考えていったあとに、「この世ならざるもの」(怪異や神仏から、死後の世界観に関わるもの、古代に関するものまでいろいろ含まれる)コーナーを見てみると、そもそも「現実」と「虚構」とをわけて考えること自体が無意味なことなのかもしれない、とすら思えてきます。
「マンガで学ぶ」とは、いったい、どのようなことなのか。
それについて考える、ひとつの視点は、現実と虚構との多層性にあるのかもしれません。
現実と虚構との境を曖昧にしながら、それがさまざまなかたちで重なりあうなかで、わたしたちがどのような経験をするのか、を考えること。それこそがマンガ×学びを考えるときのポイントになってくるのかもしれません。
寺子屋大仙寺での「つくらない句会」
その寺子屋のサポーター(「寺子屋サポーター」)をしている関係で、昨年3月から、1年に1回、寺子屋に来ている中学生たちと「言葉で遊ぶ」機会をいただいています。
昨年は、「図書館たほいや」で遊びました。
今年は、オミクロン株の影響で、寺子屋自体が一時期、オンラインやハイブリッドでの開催だったこともあり、いろいろ考えた結果、千野帽子さんが『俳句いきなり入門』(NHK出版)で提案されている「つくらない句会」をやってみることにしました。
「つくらない句会」とは、その名のとおり、参加者が俳句を創らずにおこなう「句会」のこと。
今回は、中学生対象にした「つくらない句会」ということで、
①現代俳句協会「現代俳句データベース」から12句、
②長谷川櫂(監修)・季語と歳時記の会(著)『大人も読みたい こども歳時記』(小学館)に掲載されている小中学生の句から11句
そして…
③AI俳句協会「AIが作成した俳句一覧」からAIの作成した俳句12句を選び、
合計25句からなる俳句リストを作成しました。
この中から、「一番「これだ!と思う句」(特選)を1句、「好きだな」「気に入ったな」と思う句(正選)を4句、「これはない!」「文句つけてやりたい」句(逆選)を1句選んでください、とお願いしました。
それぞれの句を、2回ずつ、わたしのほうで読みあげて、少し時間をとったあと、結果発表。
その結果、こんな感じの結果(画像に示したものは、そのうちの一部です)となりました。
もっとも高得点をとった、2つの句は『大人も読みたい こども歳時記』(小学館)に掲載されていた中学生の句だったのですが、個人的に面白かったのは、AIの作成した句がけっこう大健闘していたことでした。
たとえば上記画像で「4点」をとっているこちらの句。
これを「特選」といって紹介してくれた生徒もいたので、その生徒にはどんな想像の世界が広がっていたのだろう…と思いを馳せてみると、そのわかるようで、わらかない世界が見えるような見えないような不思議な感覚に包まれます。
一方、「全部、意味わかんないもん!」といって、「特選」「正選」を選ばず「逆選」だけを紹介してくれた生徒もいました。
その生徒自身の気持ちとしては「全部『逆選』」だったようなのですが、今回は「『逆選』中の『逆選』」1句を選んでもらいました。
その生徒が単に、全部の句に対して興味を失って「全部『逆選』」と言っているわけではなくて、ひとつひとつの句に、きっちり、1つ1つ「ツッコミ」を入れてくれていて、それをメモとしてきちんと残してくれていた(!)ということにも感動しました。
『俳句いきなり入門』の中にも、何もつかない句より「逆選」が付く句のほうが、ある意味、印象に残るところがあったり、インパクトを残したりするという点で良い、というようなことが書いてあったと思いますが、この生徒にとっても、ひとつひとつ「逆選」をつける、ということが、俳句との向き合い方として意味のあるやり方だったのかもしれません。
美術館での対話型鑑賞をはじめ、ひとつの作品に対していろいろな人の「見方」に触れ、それについて話しを聞く時間は、やっぱり、わたしにとって特別な時間だとあらためて感じた時間でした。