kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

大人につきあう、知らない世界にジャンプする~伊藤崇『大人につきあう子どもたち』

 伊藤崇先生から、5/26発売予定の新刊大人につきあう子どもたち:子育てへの文化歴史的アプローチ』(共立出版をご恵投いただきました。

 

inn.finnegans-tavern.com

ひつじ書房から『学びのエクササイズ 子どもの発達と言葉』(伊藤, 2018)が出版されたときも、「ぐおーっ!!これは!!」とかいって、予約注文でゲットしていたくらいなので、緊急事態宣言下で、書店に行くこともままならず、通販で発注しようとしても時間がかかってしまう…という状況の中、発売日前にゲットできたというだけで歓喜

しかも、ご恵投くださるなんて…!という感じです。

 

わたしにとって、『学びのエクササイズ 子どもの発達と言葉』は、なくてはならない本で、ほとんどスペースがない研究室のデスクの上に設置されている稀有な本だったりします。

そもそも、子どもの言葉の発達を「社会化(socialization)」という観点から議論しようとする人間にとって、日本語で読める文献事態が少ないので、そういう議論を知ることができる初学者向けのテキスト(「学びのエクササイズ」)が世に出てきたというのがありがたい。

これから、外国につながる児童生徒がますます増え、それのみならず、いろいろな事情で、子どもたちが背後に抱える社会・文化が多様になっていくなかで、そもそも、言語や読み書き能力(リテラシー)の発達をリニア―に描こうとするモデルは、ほとんど役に立たなくなるでしょう。

そのような中、学部生が、社会・文化を横断的に生きる子どもの言語発達について、手がかりとなるような理論やモデルが得られる、という意味でも、かけがえのないテキストなのです。

 

今回上梓された『大人につきあう子どもたち:子育てへの文化歴史的アプローチ』(共立出版)も、一読して「ああ…!今この状況の中で、このような視点での議論を手軽に日本語で読めるのが、ありがたい!」という感想を持ちました。

 

「大人につきあう子どもたち」というタイトルだけを見て、カチンときてしまい(あるいは、傷ついてしまい)、本書での議論を読もうともせずに通り過ぎてしまう人がいるといけないので、まず、「この本では、別に、養育者(保育者・先生)が批判されているわけではないですよ」ということをお伝えしておきたいです。

真面目な大人たちであればあるほど、家庭や保育園、学校における広い意味での「子育て」の営みのなかで、子どもたちが「大人につきあってくれている」ということに意識的です。そして、そのことに対して、落ち込んだり、絶望したりする。

研究授業のあとの協議会の中で、「子どもたちが、先生に気を遣って合わせてくれているだけだ」というような批判を聞いたこともあります。

子どもたちが「大人につきあう」ということは、かくも、ネガティブなこととして捉えられている傾向があるようです。

でもその先生たちが、子どものことを真摯に見よう、子どもに寄り添おうとした結果として、「大人につきあう子どもたち」の姿が見えてきてしまったように、子どもたちはやっぱり、大人につきあっているんだと思います。

 

だからこそ、わたしは、子どもを真摯に眼差そうとした結果、「大人につきあう子どもたち」の姿を見出して、落ち込んでしまっている養育者、保育者、先生方に、この本が届くといいな、と思います。

 

本書では、「大人につきあう子どもたち」を認めたうえで、そこに、子どもたちの学習・発達の可能性を見出します。

 

子育てもまた同じように考えられる。子どもにとって子育てとは自分にとっての活動ではない。しかし、それにつきあうことは、自分にとっての活動やその背後にある動機が変わる機会となるのである。大人との会話の成立に寄与した子どもには、次にまた大人と会話したいという動機が生まれるかもしれない。一斉発話の成立に寄与した子どもには、保育者による保育実践に不可欠なメンバーとして自己を規規定したくなる(つまり、クラスの一員となる)かもしれない。そして、準備過程の途中で呼びかけ遊びが成立した子どもたちは、さらに別の遊びを探索したくなるかもしれない。(伊藤崇(2020)『大人につきあう子どもたち:子育てへの文化歴史的アプローチ』, p182)(太字は引用者)

 

子どもたちの活動の世界は、大人が触れると「悪」にしかならないような、あるいは即座に壊れてしまうような、ガラス製の「ネバーランド」ではない。

大人たちが「子育て」によって新しい活動の可能性を広げていくように、子どもたちも、自分にとっての活動ではない「子育て」に付き合うことによって、未知なる世界を拓く機会を得る。これまでには知らなかった世界にジャンプしていける。

 

 2018年、全国大学国語教育学会・東京ウォーターフロント大会のラウンドテーブルで、「国語教育における即興的パフォーマンスとしての学習」を開催した。

そのときに登壇してくださった、堤真人先生(横浜市立永田台小学校(当時))は、「教師が手探りで捉えようとする子どもの世界.でも,捉えられない葛藤.そして,その先」というタイトルで、以下のような文章を寄せてくださいました。

「『わからない』という,ある種の諦念」からはじまりながら、一人称小説の文体を借りて語られる「ようこ」の物語には、「大人につきあって」短いゲームみたいなものを遊んであげながら、その中で、ちょっとずつ変わっていっているかもしれない自分が語られているように思います。

 

教師が手探りで捉えようとする子どもの世界.でも,捉えられない葛藤.そして,その先(堤真人)

教師による子どもへの即興的な関わりは,「わからない」という,ある種の諦念から始まる.クラスというコミュニティを構成する他の子どもたちと同様に,教師も自らの主観を通じて,ひとりひとりの児童のことを知ろうとする.教師が知り得るあるひとりの子どもの姿は,あくまで,その児童のひとつの側面に過ぎない.そのような主観の限界を知りながら,それでも,ひとりひとりの子どもたちの世界を知ろうとし,その限界の中で葛藤する.「わからない」という前提に立ち,「わかりえない」という限界を知りながら,子どもたちと関わるために,即興的なアクティビティが取り入れられ,そこで即興的に生み出される言葉や身体,関係性から,次なる学習への手がかりが少しずつ見出される.そのような姿を,虚構の「告白体の物語」(ヴァン=マーネン, 1999)を通して描き出してみたい.このような即興的な学習の姿は,いかに記述することが可能なのか.

3.1. 「ようこ」の物語①
 今日も 輪になって一日が始まる.いつものようにみんなで短いゲームをする.
「みんなとは親友にはなれないけど,一緒にゲームができるぐらいの関係にはなってほしい.」とうちの担任はよく言う.いきなり授業よりはずっとまし.授業時間短くなるしラッキー!うちの担任は,遊べ遊べって,いつも言う.なんかいつも教室や校庭で,「アクティビティ」(?)やらドッジボールをしている.いつも男子と先生はふざけてばかりいる.どっちが子どもなんだろうってよく思う.


3.2. 「僕」の物語①
今年も,一年間輪になって朝をスタートしようと思う.飽き性の僕がずっと続けている唯一の実践だ.僕は朝が弱い.しんどい日だってあるし,テンションの高い日だってある.家庭でいろいろある日だってある.きっと子どももそうだと思う.一人一人違う背景があるんだから.学校来ていきなり学校モードになるんじゃなくて,みんなで顔を合わせて遊びながら「今日もまぁ楽しくできそうだ」って思えてもらったらうれしい.

 

3.3. 「ようこ」の物語②
今日のゲームは,カウントダウン.20から1の数字の中でひとつ選ぶ.先生が20からカウントダウンしていって,自分が選んだ数字の時に手をあげるというものだ.でも誰かとかぶったら負け.1に一番近い数字で一人だけが手を挙げた人が勝ちだ.
「20!」いつものようにおふざけ男子が何人か手を挙げている.もう面白くないのに.私が選んだ数字は「3」.意外と誰も選ばない数字なのだ.「3!」私は思いっきり手をあげる.周りを見る.「あー,お前手上げんなよー!」とゆうすけが笑いながら言っている.私も思わず「うわっ」って言っちゃった.うるさいよ,ゆうすけ.


3.3. 「僕」の物語②
今日は,朝から何やらテンションが高い子が多い.今日の遊びは,静かに推理するものをしようと思う.カウントダウンにしよう.「20!」数人の男子が手を挙げる.安定した手出しだ・・・「19, 18…」 「3」「あー,お前手上げんなよー!」「うわっ」 ゆうすけはともかく,ようこが「うわっ」だって!そんなこと言うんだなぁ.しかも嫌そうな顔で.意外な一面が見れたなぁ.ようこも少しずつ自分が出せるようになったのかなぁ.いや,そればっかりはようこにしか分からないか・・・僕の見えている子どもの世界なんてごくわずかなんだよな.ついつい,子どものことを分かったようになってしまうのが僕の悪い癖だ.

 

3.4. 「ようこ」の物語③
毎日,毎日,朝の遊びをしている.ペアとかも毎日変わるから,いろんな子とかかわるようになったと思う.今も,休み時間は決まった子とあそんじゃうけど,それでいいと思ってる.みんなと親友にはなれないしね.でも,なんかうちのクラス,仲良くなってきたと思う.昨日も,喧嘩ばかりしているあつしとペアでかくれんぼだったから心配だったけど,「お前探すのうまいな」だって.あつしも意外といいところもあるんだなと思った.


3.5. 「僕」の物語④
毎日,毎日,遊んでいてだんだん,仲良くなってきたのが分かる.もちろん,今日みたいにルールでもめることもあるけど,そんな日もあると思う.ただ,この仲良くっていうので,苦しんでしまう子はいないだろうか.強い凝集性が働いていないだろうか.いつも不安だ.僕が見ようとしている子どもの世界はあまりにも広大で,大人の僕には霞んで見える.僕が感じていることが,ほんとに子どもが感じていることかどうかなんて分からない.人のことなんて分かりやしない.それでも,なんとかこうしよう,ああしようって子どもの様子を見ながら決断していかないといけない.その矛盾は苦しい時もあるけど,「また明日!」って子ども達が言えたらいいなって思うんだ.

 堤先生自身が最後にかたる「『僕』の物語」は、不安と葛藤だらけ。

でもそのなかに灯るひとつの希望、ひとつの願いとして、「『また明日!』って子どもたちが言えたらいいなって思うんだ」と締めくくられていることも、今あらためて振り返ってみると、とても感慨深い。

 

子どもたちの「わからなさ」「理解しあえなさ」に日々不安と葛藤をかかえ、時には絶望し、落ち込んでしまう先生方は、けして、堤先生だけではないと思います。

 

そういう人たちに、本書が届くことを、祈らずにいられません。

遠隔オンライン講義での聴覚障害の学生への対応について、自分ができることを考える

新型コロナウイルス感染予防のため、日本中の大学で、遠隔講義(オンライン講義)への対応が求められています。
わたしの勤務先である横浜国立大学でも、4/8に「授業開始に向けたPC等事前準備のお願い」(PDF)が示され、授業は、Office365 Teams、授業支援システム、Zoomの組み合わせで行うという方針が示されました。

f:id:kimisteva:20200425142006j:plain

授業支援システム・Office 365 Teams, Zoomを使った授業のイメージ

このようなことを、Twitterで報告したところ即座に、次のようなツッコミが入りました。

単純に疑問なんですけど、この場合の情報保障や、発話が難しい学生などの対応ってどうなるんですかね…?— そう (@sojumpso) 2020年4月8日

 この問題については、4/21の時点ですでに、日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan)が、遠隔講義における情報保障支援についての特設ページを公開してくださっています。

【オンライン授業における支援】日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワークでは、多くの大学がオンライン授業を導入している状況を受け、聴覚障害学生が参加する際の情報保障支援について情報発信のページを新設しました。ぜひご覧ください。情報は随時更新していきます。https://t.co/0ifFG4CkPF— 【公式】PEPNet-Japan (@PEPNet_Japan) 2020年4月21日

 

遠隔授業での情報支援について具体的な方法が提示されているし、それぞれに、かなり見やすいマニュアルもあるので、このページを見ておけばばっちり!とは思っているのですが、一方で、これだけ情報が並んでいると、何から見ていいかわからない、という人も多いと思います。

 

そこで、まったく専門家ではないわたしが、これまで、毎年1~2人ずつくらい、授業で聴覚に障害のある学生たちを受け入れてきた経験から、今、遠隔授業(オンライン授業)への対応として考えていることを、書いておこうと思います。

 

1.オンデマンド型(課題配信型)授業

 

「遠隔授業(オンライン授業)」といっても、学生のネットワーク環境の限界、大学側が提供できるサーバー容量の限界から、結局は、オンデマンド型(課題配信型)の授業が多くなるのではないか、と予想しています。

オンデマンド型(課題配信型)で提供される資料としては、以下の3種類が考えられます。

 

①文字資料(レジュメ、配布資料化されたスライドなど)

②音声資料(講義内容が録音されたものなど)

③動画資料(パワーポイントのプレゼンテーションを動画化したもの、講義録画など)

 

このうち、聴覚障害をもつ学生への対応が必要なのは、②音声資料③動画資料ですね。このそれぞれについて、わたしは次のように対応することを考えています。

 

1.1. 音声資料:Google Documentの音声入力で文字化テキスト作成

 

音声のみで教材を提供する場合、その音声を文字化した「読み上げ原稿」を用意することが必要です。

さきほどご紹介したPPAP-Netの「授業担当者へのお願い」でも、依頼項目のひとつに「読み上げ原稿やレジュメなどの提供(字幕挿入や情報保障で十分対応できない場合も文字起こしがあれば最低限のサポートとなります)」があります。音声のみで授業資料を提供しようとするのであれば、なおさら「読み上げ原稿」が必要です!

 

「読み上げ原稿」は、Google Documentの「音声入力」あるいは、Microsoft Officeの「ディクテーション」を使って、けっこう簡単に作成することができます。

 

Google Documentでの音声の入力の仕方については、こちらの記事などが参考になるかもしれません。(無料で音声入力ができる「Google音声入力」の使い方【超便利】)

 

すでに、Google Documentを利用している方であれば、すぐにでもできます。

「ツール」タブをひらいていただき、マイクが標準装備されているパソコンであれば、そのまま、そうでない場合には、マイクをPCに接続して、「音声入力」をクリックします。

f:id:kimisteva:20200425152328j:plain

Google Documentでの音声入力

「音声入力」をクリックしたら、そのまま講義内容を話していきます。

おそらく、音声のみで教材資料を配信される方は、Windows10に標準装備されている「ボイスレコーダー」を使ったり、あるいは、ICレコーダーやスマホの「ボイスレコーダー」機能を使って、講義内容を録音される方が多いと思います。

それらに音声を入力するときに、Google Documentをひらき、ボイスレコーダーの「録音」ボタンを押す直前のタイミングで「音声入力」ボタンを押せばOKです。

 

以下は、わたしが、Google Documentの音声入力を使って入力をしてみた結果です。

「こんにちは。これから初等国語科教育法(しょとうこくごかきょういくほう)の授業(じゅぎょう)をはじめます。わたしはこの授業(じゅぎょう)を担当(たんとう)するイシダキミです」と言った直後に、プリントスクリーンで画面をキャプチャしたところ、このような感じでした。

f:id:kimisteva:20200425153055j:plain

Google Documentでの音声文字化

タイムラグも少なく、文字変換もかなり精度が高いこと実感していただけるかと思います。

同じようなことは、Mirosoft Office 「ディクテーション」機能を用いて行うこともできます。これは、Microsoft Office365の「Word」の「ディクテーション」を使って、音声による文字入力をしているところです。

f:id:kimisteva:20200425153617j:plain

Mirosoft Officeの「ディクテーション」機能を用いた音声文字化

やってみた感じとしては、Google Documentの「音声入力」より、文字化がはじまるタイミングが少し遅いかな、というところ。

「ディクテーション」ボタンを押してから、数秒間まって、話し始めたほうがよさそうです。文字化の制度としては、ゆっくり話せば、Google Documentと大差ないですが、わたしみたいに話すスピードが速い人間にとっては、Google Documentのほうがよさそう、という印象を持ちました。

 

こんな話をしていたところ、hinata yoshikazu先生より、“グーグルドキュメントの音声入力機能では、改行が自動で入らないのでは?UDトークだと、一定時間で、自動で改行が入りますよね"(大意)と教えていただきました

「UDトーク」とは、App StoreおよびGoogle Playの送付で無料提供されている会話の見える化・コミュニケーション支援アプリのこと。

★ UDトーク | コミュニケーション支援・会話の見える化アプリ

 

たしかに、「UDトーク」を使うと、こんな感じで自動的に改行が入りますし、ふりがなもつく。そのままテキストとしてダウンロードもされるので、とても見やすいです。

 

f:id:kimisteva:20200425154335j:plain

ただわたしの話すスピードがおかしいのか、発音が悪いのか…わたしにとっては文字化の精度がGoogle Documentと比べるとちょっと…というところがあり、うまく使い分けていく必要がありそうです。

 

1.2. 動画資料:Microsoft Stream, Youtubeを使った字幕付与

 

動画資料の場合には、動画に字幕をつけることが推奨されています。

わたしの場合、Microsoft Office365が利用できますので、学内限定で公開する授業動画であれば、Streamの機能を使って動画をアップロードするというやり方で十分でした*1

この場合、やるべきことは非常に簡単で、動画をアップするときに、①動画の言語を「日本語」に設定(画像左下側)したうえで、②「オプション」内「キャプション」の設定にある「字幕ファイルの自動生成」をチェックするだけです。

f:id:kimisteva:20200425161140p:plain

Microsoft Streamで字幕をつける

初期設定のままであれば、動画が完全にアップロードされると、メール通知が届く仕組みになってます。

メール通知が届いたあとに、アップロードされた動画を見ると…

f:id:kimisteva:20200425161434j:plain

Stream上にある字幕付き動画

こんな感じで、「字幕」がつきます。

「いしだきみ」が「意志だけに」になっているあたり、固有名はもっとクリアに発音しないとダメなのかも…と思ったりしますが、それを除けばすばらしい精度で文字化が行われているように思います。

 

なお、わたしはStreamが使用できることがわかったので、まだ試していないのですが、そのような状況にない場合、Youtube Studioを使用して字幕を自動生成できます

PEP-Netで公開されているこちらのマニュアル『YouTubeでの字幕作成⽅法』(PDF)が、とても見やすくわかりやすいので、こちらのマニュアルにしたがって、字幕をつけるのが良いのではないかと思います。(「非公開」設定とはいえ、Youtubeで動画を公開すべきではないという、方針の大学もあろうかとは思いますが)

 

f:id:kimisteva:20200425162234p:plain

PEP-Net「字幕の作成方法」

2.リアルタイム動画配信(同時双方向型)授業

 

リアルタイム動画配信による動画双方向型授業といえば、ZoomやMicrosoft Teams, Google meetあたりの利用が検討されているようです。

とはいえ、そのなかでも学生への連絡のたやすさ、必要とする準備の少なさという視点から、Zoomを利用することを検討される方が多いのではないでしょうか。

 

Zoomでの「字幕」のつけかたについても、PPAP-Netでとても見やすくわかりやすいマニュアル「Zoomの字幕機能を用いた文字情報の提示」(PDF)が公開されており、授業者が自分で「字幕」を付与する場合も、情報保障者(ノートテイク・ボランティアなど)に「字幕」入力を依頼する場合も、このマニュアルだけを見れば、何をすればよいかがすぐにわかります。

f:id:kimisteva:20200425143452j:plain

情報保障者に字幕の入力を割り当てる(「Zoomでの字幕機能を用いた文字情報の提示」p6より)

わたし自身も、Zoomを使用する場合には、自分が打ち込むか、どなたかにボランティアをお願いして「チャット」か「字幕」で情報保障をしようかな…と考えていました。

 

が、そんなことを考えていたところ、Google Documentの「共有」機能を使えば、だれかが「字幕」や「チャット」を打ち込まなくても、相手にリアルタイムで、音声の文字化を届けられることを知りました。

azami-seisaku.com

 

この記事の場合は、インタビューなので、双方が「音声入力」をONにしておくことが必要ですが、ZOOMで講義を配信する場合には、基本的には、講義する者だけが「音声入力」をONにしておけばよさそう。

ゼミなどでのディスカッションの場合には、発言するときに「音声入力」をONにするということを徹底したり、はじめから全員で「音声入力」ONにしておくということで、問題がクリアできそうです。(まだやってみていないので、可能性として、ですが)

 
 
たしかにこれを使うと、画面共有やシアターモードでの共有もできて、リアルタイムで字幕が表示できるようになり、いろいろと便利そう!
なのですが、残念ながら、Androidユーザーなので、QRコードも発行できず……自分では試せない状況です。どなたか、iOSユーザーの方にためしてみていただいてレポートしていただきたいです。
 
以上のことから、現在、わたしが使用できることのできるツールなどを考えると、以下の対応が可能なのではないか、と考えています。
 
(1)オンデマンド音声配信:Google Document音声入力を使って、「読み上げ原稿」を作成し、音声データと一緒に配信
 
(2)オンデマンド動画配信:Stremaの字幕自動生成機能を使って、字幕をつける
 
(3)リアルタイム動画配信・双方向授業:Google Document音声入力+ドキュメントの「共有」機能を活用して、リアルタイムでの文字化情報共有を図る
 
もちろん、他にもいろいろなツールがあるのでしょうが、使用できる環境や使いやすさなど、いろいろなことを考えて、それぞれに「できること」を考えていく必要があるのだろうと思います。
 
それを考えていくうえでも、PEP-Netが公開しているオンラインコンテンツ集はとても便利でしたので、ぜひ、ご覧になることをおすすめします!

*1:学内の事情により、その後この方法にはいろいろな問題があることもわかったのですが、結局はStreamを利用することになったので、割愛。詳細はこちらのtogetterまとめを見てお察しください。

格差とか多様性とかを語るための文体~『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』と『みんなの「わがまま」入門』と

ノンフィクション本大賞をはじめ、数多の賞を受賞して話題になっている、ブレイディみかこ(2019)『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』(新潮社)。3月に入って時間ができたこともあり、ようやく読むことができました。

親子でのやりとりが軸になって話が進んでいくので読みやすいうえに、そこでレポートされていることは、今の時代を生きるわたしたちが考えざるを得ないことばかりで…本屋大賞を受賞しているのみならず、司書が進めたい本に選ばれたりしていることも納得!という感じの本でした。

 

本書は、すでにあまりに多くの人に知られているので、今さらレビューを書くまでもないと思います。が、昨年、大学の書店でたまたま出会い、その対話的で真摯な文体に感銘を受けた『みんなの「わがまま」入門』(富永京子, 2019, 左右社)と共通する印象を受けたので、そのことについて書いておきたいと思います。

 

今年2月、『みんなの「わがまま」入門』の一部が、私立中学校の「国語」の長文読解問題で出題されたことがちょっとした話題になりました

nlab.itmedia.co.jp

著者である富永さんご自身が、問題を解こうとしたものの「筆者の考えを正確に読み取れ」なかったということで、富永さん自身がそのことをTwitterで公にされたのでした。

 正直なところ、わたしにとっては、本書の一部を「国語」の長文読解問題として出題することそのものが驚きでした。なぜなら、本書の文体が、類書とは異なる独特なものであると感じていたからです。

わたしはその独特な感じを、「『ごめんね』感」という言葉で表現しました。

 

 

このようなコメントをTwitterで投稿したところ、著者の富永さんから、この「『ごめんね』感」について、次のようなコメントがありました。

 あとから振り返ってみると、わたしが本書の文体を「『ごめんね』感」と表現した理由は、本書の「あとがき」にあるのだが、それよりも何よりも、そのような文体で、中高生のための社会運動論入門が記述されているという点が興味深い。

 

寒いので、毛布をお願いしたい。しかし、それは「わがまま」と思われてしまうかもしれない――そうか、「わがまま」か。寒いのだから暖かくなりたいのは当たり前で、そういう自分の権利(この場合、消費者としての権利なので、すこし社会運動が希求しているものとは違うかもしれないが)をなぜ言いにくいかというと、「わがまま」に見られてしまうからか。みんな一枚の毛布でがまんしているのに、「ずるい」と思われないかも不安だ。

 

「わがまま」をキーワードに、「わがまま」を言うこと、「わがまま」だと思うことへの抵抗をなくそう、「わがまま」のように見えても、人に共感されて、共有することで社会の歪みを明らかにできるんじゃないか、それが社会運動の萌芽になるんじゃないか。そういう言葉であれば、もしかしたら10代の人にも通じるかもしれない。…(後略)

富永京子『みんなの「わがまま」入門』左右者、pp.268-269)

 

中高生に向けて社会運動論を語ろうとする中で見いだされた言葉、文体だからなのだろうか。

ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』を読む中で、わたしは何度も、この「ごめんね」感を思い出した。

 

たとえば、最終章「16  ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとグリーン」では、これぞまさに「社会運動」(!)ともいえる「スクール・ストライキ」の話が登場する。英国各地で気候変動問題のデモが行われた2019年2月のことだ。

この時、英国では、生徒の「スクール・ストライキ」への参加を許可する学校とそうでない学校が現れるのだが、本書に登場するブレイディさんの息子が通う公立学校は、スクール・ストライキへの参加を許容しなかった。

これに関して、後日、ブレイディさんと息子さんとの次のような会話が行われる。

 

 「カトリック校の生徒もデモに行けなかったって聞いて、なんか安心した」

エスカレーターを降りながら息子が言った。

「デモを楽しめなかったのが自分たちだけじゃなかったから?」

と尋ねると、息子はうつむきがちに応えた。

「ちょっと悲しかったんだもん。成績とかいろんな意味でイケてる学校の子はデモに参加できて、しょぼい学校は参加させてもらえないなんて、仲間はずれにされてるっていうか、疎外されてる感じがしたから」

「マージナライズド(周縁化されている)って呼ぶんだよ、そういう気分を」

と私が言うと、息子が利いてきた。

「それって、マージン(端っこ)に追いやられてる感じってこと?」

「そう」

ブレイディみかこ(2019)『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』新潮社, pp.245-246)

 

デモに参加すること、デモに参加したいにもかかわらずそれが学校によって禁止されること。いずれも、「公正」や「権利」といった大文字の言葉で、その是非が議論されそうなことばかりだ。

でも、ここで記述されているのは、そんな大文字の言葉で交わされる議論とはかけ離れている。あくまで「仲間はずれにされている」「疎外されている感じがした」こと、そしてそれが「ちょっと悲しかった」という小さな感情のさざなみである。

それに対して、ブレイディさんは「マージナライズド」という言葉を与えるけれども、その言葉そのものも、息子さんの言葉として反芻されるなかで、いつしかそれは、彼が所属するパンク・ラップバンドの歌詞(!)へと変化する。

 

どちらも「社会運動」というあまりにもほど遠いものと、私たちが日々感じる「ちょっと、しんどい」「ちょっと悲しい」といった、ちょっとした感覚・感情とを結びつけてくれる。

これが、今、わたしたちが社会運動をあらためて語っていくために、わたしたちが自分たちと社会とをつなぐことを否定しないため、必要とされる文体なのかもしれない。

そんなことを思わされる2冊だった。

「物語を旅しよう」のサンプル・シナリオが公開されました

 2019年の年度末に、遊学芸保田琳さんにお願いして、TPRG型物語創作教材『物語の世界を旅しよう』をご制作いただきました。その制作の経緯などについては、以前、このブログの記事でもご紹介しておりますので、ぜひこちらをご覧いただければと思います。

kimilab.hateblo.jp

 

このたび、ふたたび、保田さんのお力で『物語を旅しよう』のサンプル・シナリオを、横浜国立大学リポジトリにて、公開できることになりました。

昨年度『物語を旅しよう』を公開してから、TRPGやゲームに対する理解がない者には、ハードルが高い」「高校の物語創作の授業で使ってみたいが、ファンタジー設定だと、高校生には幼すぎる」というような声をいただきました。

「ハードルが高い」という声に対する回答としては不十分かもしれませんが、今、できうる対応のひとつとして、いくつかのヴァリエーションのシナリオを示すことにした、という次第です。

 

f:id:kimisteva:20200320131853j:plain

「物語を旅しよう」サンプルシナリオ- YNUリポジトリ

 「物語を旅しよう」 - 横浜国立大学学術情報リポジトリ

 

私自身は、小学校・国語科のフィールドで仕事をしていますの、「子どもたちの読書経験を豊かにしたい」「今までに自分たちが読書などで触れてきた物語の世界を遊ぶことを楽しんでほしい」という思いから、保田さんには、世界の昔話・童話をモチーフとした2つのシナリオを考えていただきました。

 

①「ハートのない銅像」(オスカー・ワイルド『幸福な王子』をモチーフにしたシナリオ)

『幸福な王子』作:オスカー・ワイルド(語り:日色ともゑ)-おはなしのくに/NHK for School 

 

②「不思議の国の旅人」(ルイス・キャロル不思議の国のアリス』をモチーフにしたシナリオ)


【絵本】 不思議の国のアリス 前編【読み聞かせ】 アリスインワンダーランド

 

 

また、「ハードルが高い」という声におこたえして、もともとのマニュアル・ルールブックに掲載されていたモデル・シナリオよりもシンプルなバージョンとして、③「父の形見と子ども心」を考えていただきました。

こちらは、シンプルな、「探し物をして、届ける」というクエストなので、「どこからはじめていいかわからない」という人や、それまでに知っている昔話・童話がほとんどない子どもたちへのサンプルとして、使いやすいのではないかと思います。

 

そして、「高校生には、幼すぎる」という声にお応えして、このたび、常磐大学ゲーミフィケーション研究会会長に、原案をご作成いただき、エグみのある高校生・大学生向け長編シナリオ④「良心と豊かさの間で」も公開しました。

さらに、遊学芸・保田さんには、この長編シナリオのために作成された「長編用ワークシート」も作成していただき、こちらも同時公開しておりますので、「高校生や大学生に向けてやってみたいのだが…」というご要望には、少し、おこたえできたのかな、と思っています。

小学生向けに作ったはずの『物語を旅しよう』から、こんなシナリオが生まれるとは思っておらず、個人的にはちょっとびっくりしております…。

 

そして、いつの間にか、YNUリポジトリの表示画面が変わっていて、「クリエイティブ・コモンズ・ライセンス」も一緒に表示されていることに気づきました。

昨年度、『物語を旅しよう』を公開したときも、「クリエイティブ・コモンズ・ライセンス」と文化庁の「自由利用マーク」をつけていたのですが、たしかそのときは、このようなかたちで検索結果画面に表示されていたことはなかったと思います。

オープンサイエンス」「オープンアクセス」への議論が進展する中で、大学のリポジトリもこのような対応をするようになっていることは、素直に喜ばしいです。

 

ぜひ、これを機に、また『物語を旅しよう』を使って、遊んでくださる方が増えるといいな!と思っています。

私としても、次年度、教員志望の学生たちや現職の先生方に、『物語を旅しよう』を実際に体験していただける機会を増やしていきたいと思っています。

 

善意の暴走と「心理学化」~『「発達障害」とされる外国人の子どもたち』

2月末に発売されたばかりの、金春喜(2019)『「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』(明石書房)をさっそく入手して、読みました。

 

 

 

本書が発売される少し前に、明石書房のTwitterで本書が発売されることを知ったのですが、その時期ちょうど、外国につながる子どもたちに関連する論文を書き始めていた頃でもあったため、「これは…!」と思い、さっそく予約注文。

 

本書では、あるフィリピンから来日したきょうだい(やその家族)の抱えるさまざまな問題が、いかに、「発達障害」という個人の問題へと回収されていくのか…を、きょうだいにかかわった10人の大人たちの語りから浮かび上がらせています。

それはまさに、この記事のタイトルにも書いた通り、「善意」が暴走し、その善意の暴走がひとつの圧力になって、一気呵成に「心理学化」が行われていくような…そんなプロセスに、わたしには見えました。

 

本書では、まるで芥川龍之介『藪の中』の世界がそのまま現実に出てきてしまったような、きょうだいの「発達障害」化(と特別支援学校への進学の決定)にかかわる、少しずつズレた語りが展開されていて、そのひとつひとつの「ズレかた」、その重なる部分と重ならない部分が、とても興味深いと思いました。

個人的に、もっとも考えさせられたのは、森先生(小学校6年生から日本語指導を担当している先生)と、寺田先生(中学1年生のときの担任の先生)との語りの間のズレでした。

カズキくん(兄)は、中学1年生になって、「発達障害」ということになり、特別支援学級に通うことになるのですが、そのときのことについての、二人の語りがかなりズレているのです。

 

【4】森先生 中学校で、もう、進路決めていかねばならないし。私としては、様子を見ながら、特別支援の方のクラスであったり、ま、クラスまでいくのか、なんらかの支援は必要だなっていうふうに、思っていたんです。でまぁ、カズキくんが入学して、担任の先生の方(寺田先生)も、特別支援学校で働いた経験もある方だったんですよね。で、すごく、熱心やし、そこらへん、冷静に判断する方だったので、「いや、そうですよ」と

 

【5】寺田先生 カズキくんの場合は、発達障害」ってなってるけども、ほんまにどうか言ったら、微妙です。ライン的には。ただ、その「発達障害」かどうかっていう、ま、教室やから診断はできひんのですけども、その可能性を考えたときに、どうしてもやっぱ、本人とちゃんとコミュニケーションがとれへんことで、ほんまに「発達障害」かどうかってとこで、すんごく悩みました。お母さんの話を聞いたり、そこらへんから、行動的にはあり得るなっていう、超グレーな状態特別支援学級に回した経緯はあります。

(以上、金春喜、2019『「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』明石書房、p192。傍点省略。下線は引用者)

 

ここに、特別支援学級の先生による提案が加わったり、「知能検査」という人工物の利用が加わることによって、「発達障害」であるという「事実」が創り上げられていくわけですが、そのはじめのはじめのきっかけに対する「見え」がここまでズレていることに、問題の根の深さを感じざるを得ません。

 

ここには、一人ひとりの教師の「判断」や「評価」といったものを超えた、集合的なパワーがあるように思えてならないのです。

1対1のインタビューでは、「微妙です」「超グレーな状態」と語る寺田先生が、なんの迷いもなく「いや、そうですよ」と「判断」しているかのように森先生に「見えて」しまうようなパワー。

「ま、クラスまでいくのか、なんらかの支援は必要だな」くらいにしか考えていなかった森先生が、「いや、そうですよ」と言われたくらいで、すんなり納得させられてしまうようなパワー。

それは、本書で論じられているような、ふたりのきょうだいのおかあさん、対、日本の学校の先生たちという対立構造を超えた、もっともっと大きなパワーであるように思います。

わたしには、そのパワーこそが、「善意の暴走」を導いているように見えます。

 

もちろん、本書ではそこまでの分析はなされていません。

本書でなされているのは、この「藪の中」の語りに共通する「現実」としての問題性をあぶりだすことです。

本書では10人の語りに見られるひとりひとりの「現実」とそのずれから浮かび上がってくるものついて、あまり多くを語っていません。

おそらく、これらのズレから何かを見出そうとすることは、今後の課題として残されているのでしょう。

 

残された課題も含めて、本書を読みながら、私たちひとりひとりが考えていくこと、それによって、日常的なやりとりの中で頻繁に顔を出してくる「心理学化」のパワーと距離をとれるようにしていくこと。そのことに、意味があるように思います。

文字が生きていた時代のことを、思い出すために~華雪《和紙に字を植える》

第43回川端康成文学賞・第39回日本SF大賞を受賞した、円城塔の『文字渦』。

 

 

その帯には、「昔、文字は本当に生きていたのだと思わないかい?」と書かれていて、本書の新刊が、店舗の店先に並んでいる頃には、この帯の文言を見るたびに、心を打たれた。兵馬俑から発掘された三万もの漢字がいかに生み出されたかを物語る表題作を読んで居てもたってもいられなくなり、町田市民文学館ことばランドで開催されると聞いた、大日本タイプ組合×円城塔「文ッ字渦~文字の想像と創造~」にいち早く申込をした記憶も、まだ新しい。

 

なにかが道をやってくる(茨城県北サーチ)」の第2期で開催された、華雪(書家)和紙に字を植える》は、まさに、昔、文字が本当に生きていたその時代のことを思い起こしていく作業そのものだった。

 

当日、華雪さんが配布した資料の冒頭には、次のように書かれている。

 

『藝』の字の成り立ちは、ひとが若木を植える姿を象り、木を植え、奉りながら育む様子から、芸を磨く意味へと広がった

『遊』の字の成り立ちは、先祖の霊の依代としての旗を掲げ、行く、ひとの姿を象る。そこから、行く、他所へ行って交わる、という意味が加わっていった。

それぞれの字から、古代中国のひとのあり方の断片を垣間見ることができる。

古い書体を書くとき、最近わたしは、そこに、いまを生きるわたしたちに繋がるなにかを、微かにでも見出したいと思っているのかもしれないとふと気づく。

 

『藝』の字の起源と思われる3つの象形文字を見ながら、半紙を縦にしたり横にしたり、表にしたり、裏にしてみたり、はたまた筆の握り方を変えてみたり、墨の付け方を変えてみたりしながら、"紙の上に文字をかく"という行為のなかで、その漢字の起源をひたすら想像しつづける。

f:id:kimisteva:20200302101039j:plain

「藝」の字の起こりを想像する

かく文字ごとに、筆にさわる半紙の感覚や、手と筆との関係を変えるごとに、そこにはいろいろな起こりの意味が立ち現われてくる。

最終的に、わたしの心に浮かんだのは、その若木を植えようと、人が手を添え、手をかけた途端に、若木そのものが人のエネルギーを吸い取るかのように、急速に爆発的に伸びていくような、人と木との主従関係が突然反転していくような、そんなイメージだ。

 

そんなイメージをもちながら、今度は、数多かいた文字のなかからひとつを選び、すき絵技法によって、それを紙に植えこんでいく。

f:id:kimisteva:20200302101537j:plain

すき絵技法で、和紙に字を「植える」

 

「紙に墨でかく」という行為とは、また異なるかたちで、「藝」の起源を思う。

若木に吸い取られていったと思っていたエネルギーは、実は、巡回するように、人の中に戻っていて、そこには、若木と人との一体化したエネルギーの循環がつくりだされていたのではないか…という考えが浮かんでくる。

 

数日たって、実際に、字の「植え」られた西ノ内紙が、届く。

届いたものを見てみると、それは「植え」られた、というよりも、むしろ「生け」られたといったほうが良いのではないか、という思いがよぎる。

f:id:kimisteva:20200302102504j:plain

文字を生ける

 もちろん、「生ける」には、「草木を植える」という意味もある。

けれど、そのもともとの意味は、もっと多様でゆるやかだ。オンラインの辞典を見るだけでも、すぐこれらの意味にたどりつける(「生ける」-デジタル大辞泉))

 

㋐命を保たせる。生き続けさせる。
「これらを―・けて媒鳥(をとり)にて取らば」〈宇津保・藤原の君〉
㋑生き返らせる。
「この馬―・けて給はらむ」〈古本説話集・五八〉
㋒魚を生かして飼う。
「(鱸(すずき)ヲ)生洲(いけす)へ―・けておきました所が」〈滑・八笑人・三〉

 

「生き返らせる」「命を保たせる」こと。

「生ける」という言葉には、命を失うこととと隣りあわせの生の姿が含まれている。

 

文字は、昔、本当に生きていたのだとして、それを、今、私たちのいる世界につなげ、ふたたび文字の命を考えてみる行為はまさに、「生ける」なのだと思う。

 

西ノ内紙になった、「藝」の文字は、その生と死の間を揺れ続けているように、わたしには見える。

f:id:kimisteva:20200302103820j:plain

生と死のさかいをゆれる

 

 

見捨てられた街の「石」と「魔女」の物語~松本美枝子《海を拾う》

メゾン・ケンポクの『何かはある』 の一環として、2020年1月31日(金)~3月1日(日)まで開催されている、松本美枝子《海を拾う》を見てきました。

ホームページなどを見ても、あまり詳しい作品の説明がなく、フライヤーにも、「今回の展示では、日立の人、および地質と地形に着目し、市内各所を周遊して鑑賞する作品を制作、展示します」としか記載されていません。

なので、いったい、どんな作品なのか、どんな体験ができるのか、わたし自身も直前までまったくわからぬまま、日立に向かうことになってしまったのですが、「写真展」という言葉でイメージされる展示を真向から裏切る実験的でドラマティックな作品だったので、ぜひ、そのことを皆さんにご紹介したいと思いました。

はじめから、情報を知ってしまうと、鑑賞体験を大幅に減退させてしまうような仕掛けもいくつかあり、どのような角度で、何を、レビューとして書くことが良いのかわからず、試行錯誤した結果、自分自身の見たこと、感じたことをそのまま、飾らずに書いていくというスタイルを選ぶことになりました。

あまりに、「そのまま」なので、作家にとっては「新たな発見」といえるようなものもないだろうし、まだ本作を見ていない人たちには「作品性」が見えにくいようなレビューになっているようにも思いましたが、そのまま、これをレビューとして公開することにしました。

よろしければ、ぜひお読みください。

そしてぜひ、今週末に、この奇妙なな街とそこで展開される物語を経験してもらえたら、と思います。

 

* * * * 

松本美枝子《海を拾う》

 

「日立」は、とても不思議な街だ。ひどく現実感が失われている。

駅前にある、発電所用大型タービン。左手を見ると近未来を思わせるメタリックグレーの建物に埋め込まれた巨大な天球。そういえば、日立出身だという友人たちは、口をそろえたように、この街のことを「見捨てられた街」と言っていた。パパ・タラフマラ《SHIP IN A VIEW[船を見る]》でも、原風景としての「日立」は、自然と人工物とがひしめきあう混沌とした工業港湾都市として描き出される。

 


パパタラフマラ ship in a view

 

 これらの記憶も、わたしのこの街に対する現実感を失わせていく。妹島和世がデザインの監修をしたという全面ガラス張りの駅舎も、そんな現実感のない世界の中に、すっかり包み込まれている。

 

松本美枝子《海を拾う》の物語は、そんな、日立の駅舎から、始まる。


f:id:kimisteva:20200226140944j:image

ロータリーから続く透き通った空間を抜けて、海に近づくと、ガラスケースの中に、いくつかの小石が展示されているのが見える。よく見てみると、なんだか奇妙な小石である。色がいくつかの層に分かれているものもある。展示近くに設置された解説によると、どうやら、このあたりの山には、かつて海底火山だった時代の地層が含まれているのだという。


f:id:kimisteva:20200226141138j:image

そんな解説に誘われるように、古い趣のある料亭にたどりつく。出迎えてくれたのは、一人の女性。そこから始まるのは、その料亭の2階でカフェを営む「魔女」の物語だ。――いや、「魔女になりたい」と思っていたらいつしか「魔女」になっていた少女と、その家族の物語と言ったほうが良いかもしれない。

 

魔女の宅急便』は、キキが海辺の街に降り立ち、パン屋さんにお世話になるところから物語が始まるけれど、そんなふうにして、見習い魔女が大人になり、ケーキやプリンを作り始めたら、こんなふうになるのかもしれない、とふと思う。

 

 

 

「cafe miharu」としてひらかれたその料亭の、すこし奇妙な間取りの中に、「プロローグ」からはじまる5つの物語の断片と、岩や石、地図の写真が、展示されている。


どことなく不思議なつながりを持つ廊下や階段、部屋のところどころには、ずっと昔からその場にあったとも、この展示期間にあわせてそこに置かれたともいえるものたちが並ぶ。まず目に入るのは、廊下の棚に、大小入り交じり並べられた何組もの雛人形。そして、二列に整然と並べられたニワトリの木製玩具たち。ぼうっと、あらゆるものを見過ごしていると、いつの間にか、異世界の中に迷い込んでしまいそうになる。


幾つもの雛人形を見ていると、「雛人形、大好きなんですよ。妹が集めてて。」とうれしそうな声がして、現実に引き戻される。が、雛人形をいくつもいくつもいくつも集めてきた姉妹……それは、果たして現実なのだろうか。現実にしてはあまりに幻想的だ。


f:id:kimisteva:20200226144015j:image

このようにして、奇妙なフィクションと曖昧な現実が入り混じった物語が展開される。小説でいえば、それはまるでマジックリアリズム魔術的リアリズム)のようでいて、どこかそれとも違う。そんな不思議な世界とその世界での出来事が、ツアー型演劇のように目の前に広がっていく。

 

物語の最後は、「秘密」の場所だ。
私たちは、そこでふたたび「日立」の原風景に再会する。


かつての海底火山が、幾重にも重なる歴史の中で山の岩石となり、それが巡り巡って、ふたたび、海の中に、小石となって戻ってくる。その繰り返しの中で創り出されてきた、混沌の街「日立」。


この作品が誘うのは、「見捨てられた街」として語られるその街の奥深くに、これまた幾重にも重ねられた物語の地層なのだ。