kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

行動主義的児童虐待と子どものレジリエンスー『立派なこどもの育て方(Birthmarked

Netflixで公開されているインディー映画『立派なこどもの育て方(Birthmarked)』(2018年、カナダ映画、エマニュエル・ホス=デマレ監督)を観た*1


Birthmarked Trailer #1 (2018) | Movieclips Indie

この映画、とあるサイトのレビューで、「科学的児童虐待の「コメディ」(scientific child abuse "comedy"」と形容されていて、まあ、なかなかに評判が悪い。ロッテントマトの評価をみると、オーディエンス評価は、まぁそこそこ?くらいなのに、批評家による支持率は11%(18名中2名が「Fresh」評価、16名が「Rotten」)である
たぶん、「(科学的)児童虐待」がコメディとして扱われていて、しかも最後がちょっとほんわかハッピーエンドだというのが悪評の原因なのかなぁ…という感じ。

www.original-cin.ca

 

「科学的児童虐待(scientific child abuse)」とは、なんのことか?

それは、この映画で行われている、心理学者(おそらく、行動主義心理学者)夫妻による、3人の子どもたち(1人は自分たちの子どもで、他の2人は養子)を対象とした養育実験のことである。

この映画の舞台は、1977年。心理学・教育学における「遺伝か、環境か(氏か育ちか)」論争において、遺伝説が圧倒的に優位を占めるなか、環境説をとる2人の研究者夫妻が、ワトソンの名言――「私に1ダースの健康でよく管理された子どもを与え、自分に環境を自由に支配することを許してくれるなら、子どもを医師にでも弁護士だろうと、泥棒にでも望むものに育ててみせる」――よろしく、子ども3人を「望むものに育ててみせよう」とする映画である。

(実際に、映画中に、ワトソンによるアルバート坊やの恐怖条件付け実験の映像が引用される。)


Baby Albert Experiments [with CC]

冒頭に示した予告編にもあるとおり、彼らは、自分たちの子ども(ルーク)をアーティストに、短気で怒りっぽい親の子ども(モーリス)を、平和主義者に、馬鹿な(idiot)親の子どもを知能の高い子に育てようとする。

…のだが、まあ、いくら実験的に統制したところで、そんなにうまくいくはずはなく、いろいろおかしなハプニングが起こっていく、という「ファミリーコメディ」のストーリが展開する。

 

おそらく、そのような「ファミリーコメディ」のようなまとめかたが不評を買っているのだが、個人的には、コメディという仕掛けによって、子どもの発達におけるレジリエンスのようなものを描き出している気がして、むしろ興味深かった。

人里離れた一軒家で、研究者夫妻と3人の子ども、そして研究アシスタント(兼ベビーシッター?)の6人だけで、他のコミュニティと断絶した状況で十数年も暮らしているにもかかわらず、途中で母親からの依頼で様子を見にきた児童精神科医に「こんな状況のなかで育ったのに、ソーシャルスキル的にはまったく問題がない」と判断されたり、何らかのフラストレーションや感情の大きな動きを感じたときには表現行為でそれを昇華するように統制されてきたルークがエロ本ベースの脚本を書いてほかの2人の子どもと上演をして両親を困惑させたり…、なんというか、けっこう「そんなものなんじゃない?」と思える演出が多かった。

 

教育の場にいると、こちらがどんなに精緻に考えて、必死に何かをさせようとさせたところで、案外、子どもたちに拾われているのは別のところだったりして、ため息をついたり、逆に予想外の展開に驚かされたりすることって、けっこうある。

それはたぶん、この映画で扱われているような、実験的統制状況でも同じで、どんなにパーフェクトに、実験プロトコルのとおりに働きかけることができたとしても、子どもに掬い取られる世界はまったく違っていて、それはまったく違った学習を生む。

映画では、知能を育もうとして行われた実験プロトコルのなかで、『アルジャーノンに花束を』的なネズミ実験(ちょっと違うかもしれない)を受けた子どもが、のちに、大学中退して動物愛護運動をはじめたり、

平和主義者として育てられるためにガンジーの教えを教授され、感情的に大きな動きがあった場合には瞑想するようにしつけられているモーリスが、フェンシングのレフェリーになることを望んだり、

たしかに、この実験による子どもへの働きかけは、何かの影響を及ぼしているらしいのだけど、それはなんだか、子どもの側のフィルターを通して、なんだか少しだけ違うものに変換されている。

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恵比寿映像祭2020参加作品より

松嶋秀明先生の『少年の「問題」/「問題」の少年』(松嶋, 2019, 新曜社)の第1章では、「レジリエンス」について議論した節(「第2節 非行少年のレジリエンスを育てよう」)があり、わたしはそれを読んではじめて、「カウアイ研究」(「リスクの物語」を検証するために行われたとされる、ハワイ州カウアイ島を舞台とした研究)のことを知った。

1995年にいくつかのリスク要因をかかえて生まれた700人の赤ん坊を40以上にわたって追跡した結果、ハイリスクであっても3分の1は、10代になったときに非行に走ったり、若年妊娠といった不適応に陥ることはありませんでした。さらに彼(女)らが30代をむかえる頃の調査では、全体の3分の2がレジリエンスを発揮していることがわかりました。この数値を多いとみるか少ないとみるかは人それぞれかもしれませんが、いずれにせよ、レジリエンスはそれほど特異なことではないことを示しています。(松嶋, 2019, p14) 

 

わたしが、この「科学主義的児童虐待」のファミリーコメディを「コメディ」として見られるのは、おそらく、ここで描き出されているような、子どもたちのレジリエンスを信じているからではないか、と思う。

もちろん、この映画で描かれているような心理学実験は倫理的な違反があるし、行われるべきではない。「科学的児童虐待」と非難されるべきものであることには、同意する。

しかし、その顛末を「ファミリーコメディ」として描いたことの意図は、子どもたちの側の「思い通りにいかない」力強さを描きだすことにあったのではないか、と思う。

*1:インディー映画ゆえ(?)日本での映画公開はなく、Netflixによって日本での鑑賞が可能になった作品。Netflixの登場によって、こういうことが当たり前に起こるようになったことは、本当にすごいと思う

身体と感情でジェンダーを問う―ダレデモデラルテvol.2「ザ・ベクデルテスト」

即興劇場「ダレデモデラルテ」による公演・第2弾として行われた「ザ・ベクデルテスト」の公演(午前の部)を鑑賞しました。

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ダレデモデラルテvol.2 ザ・ベクデルテスト

◆即興劇場ダレデモデラルテ vol. 2 「ザ・ベクデルテスト」 ご観覧ありがとうございました‼︎ 午前・午後あわせて4つのドラマ。 4人の女性とそれを取り巻く世界。 敬愛する仲間と演じることができて、 皆さまに観ていただけて幸せでした♪ 終演後には嬉しいご感想がたくさん! 喜びと感謝の想いが絶えません。 次回は4月24日(土)開催♪♪♪

井谷信彦さんの投稿 2021年3月19日金曜日

 

「ザ・ベクデルテスト」については、以前、「ワークショップフェス2018」の一環として開催されていた「『ザ・ベクデルテスト』入門」を体験させていただいたことがありました。

映画界で話題になっていた「ベクデルテスト」については、TEDでの、コリン・ストークスのトーク「映画が男の子に教えること」で知っている人もいるかもしれません。

www.ted.com

わたしも、なにかの記事で「ベクデルテスト」という語そのものは聞いたことがあり、そんな知識をもって、ディズニーの『シュガー・ラッシュ:オンライン』を観にいったりして「うほほーい」とか思っていたりした経験があります(映画を観にいったのは、ワークショップを受けたあとですが)。

何言っているかわからないかたは、こちらをご覧ください。


シンデレラらディズニープリンセスの豪華共演シーン公開! 映画「シュガー・ラッシュ:オンライン」特別映像

 

「ワークショップフェス2018」では、「ザ・ベクデル・テスト」について、次のような説明がありました。

2016年BATSで初演されたThe Bechdel Testを紹介します。主人公は3人の名前がある女性です。主人公は3人の名前がある女性です。ワークショップの説明のなかに「…物語は「女が男の話をする」以外にもある、普通の生活の中での複雑さ、豊かさ、関係性等を描きます。ザ・ベクデルテストは女性の物語を女性自身で探究し表現していけるフォ―マットです。(直井玲子「『ザ・ベクデルテスト』入門』」-パフォーマンスラーニング研究会ブログ記事より

 

正直なところ、わたしはこの説明をはじめて見たときに、すごい違和感を覚えました。

映画界で取り組まれているダイバーシティに向けた取り組みとしての「ベクデルテスト」については、なんとなくその意図はわかるけれども、それをインプロ(即興演劇)のフォーマットにしたときに、あえて、「男」「女」という性別二分法に基づく必要があるのだろうか、と思ったのです。むしろ、そういう二分法的なジェンダーの捉え方を崩していくことこそ、重要なのではないか、と。

 

そういう疑問をいろいろなところでお話ししていたところ、けして、このような疑問を抱いているのがわたしだけではないこともわかってきました。

そんななか、即興劇場ダレデモデラルテの公演で、「ザ・ベクデルテスト」の公演にトライされると聞き、「これは!」と思って鑑賞したのでした。

 

今回はじめて、「ザ・ベクデルテスト」の公演そのものを鑑賞してみて、あらためて、感じたのは、プロのアクター(パフォーマー)が演じることの意味でした。

たしかに、ジェンダー二分法にもとづくフォーマットであるのだけれども、ジェンダー二分法に基づくフォーマットのなかで、「女性」というアイデンティティをとりあげて、それをプロの身体でパフォーマンスしていくことによって、そこにある何かが覆されたり、新たな可能性が模索されていくことのの可能性を感じました。

そこにあるのは、あくまで、実験の俎上にのせられるための「女性」というカテゴリーであり、実際に、インプロ(即興劇)のパフォーマンスのなかで問われていくのは、それそのものではない

 

そう考えてみると、「ザ・ベクデルテスト」は、ジェンダー二分法や「女性」というカテゴリーについて、生身のアクター(パフォーマー)の身体や感情のすべてを使って実験を行っていく場、といえるのかもしれません。

「プロのアクター(パフォーマー)の身体・感情によって、ジェンダーについての問題を身体的・感情的に考えるための実験場」であり、「実験を通して、ジェンダーに対する新たなパフォーマンスを創り上げていく場」。

そんなキーワードが自分のなかに、浮かび上がってきました。

 

そして、そういう「ザ・ベクデルテスト」の公演を実現していた、即興劇場「ダレデモデラルテ」というコミュニティのデザインそのものも、興味深いものでした。

これまで、インプロ(即興演劇)の公演を鑑賞しにいくことも、インプロ(即興演劇)のワークショップを体験することもありましたが、「ダレデモデラルテ」の公演は、そのちょうど「中間」にある場だという感じがしました。

ダレデモデラルテが、固定のホストメンバー(4名)にゲストを迎える、というかたちで、公演を行っていることが、そのような「中間」にある「稽古場」的な感覚を生み出しているのかもしれません。

継続したコミュニティだからこそ醸成されている関係性と、初めての人たちが入ることで何かが起きる、という創発的な学びの場としての要素――それらが、がよいバランスで混ざり合っているように思いました。

第1回目の公演の様子については、ダイジェスト映像が視聴できるようですので、ぜひご関心のあるかたは、下記の映像を見ていただき、その「中間」的な感じのいったんを感じていただければと思います。

冒頭に引用した投稿でも紹介されているように、次回の公演は、4月24日(日)午前とのこと。楽しみです!

子どもの「お仕事」―映画『モンテッソーリ 子どもの家』

フランス最古のモンテッソーリ学校に通う子どもたちを、2年3カ月にわたって観察・記録し続けた、教育ドキュメンタリー映画モンテッソーリ 子どもの家』を観にいきました。

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モンテッソーリ 子どもの家』

わたしは、映画を鑑賞後に、公式ホームページを見たので、幸いなことに、そこに掲載されている宣伝文句を(鑑賞前に)目にせずに済みました。が、これをはじめに見ていたら、映画館に行くのを躊躇したかもしれない、少なくとも、映画の見方には影響したかもしれない…と思いました。

そう考えてみると、映画のレビューサイトに「モンテッソーリ教育の宣伝映画だ!」みたいな批判を書く人の気持ちもわからなくもないな…と思います。

日本における映画の宣伝の仕方のひどさについては、『バードマン』のときも、『パラサイト』のときも話題になり、それをネタにした記事も目にするようになりましたが、いったいなんなんでしょうね。

今回に関していうと、ドキュメンタリー映画そのものの魅力を、そのまま受け取れなくなってしまう、という意味で、罪すらあると思いました。

…というわけで、この記事をご覧くださっている方は、ぜひ(予告映像の方ではなく)こちらをご覧いただいて、以下の記事を読んでいただきたいと思います。(最後に、予告編の動画もそのままくっついているのですが、予告編だけ視聴するよりはずっと良いと思います)


映画『モンテッソーリ 子どもの家』本編映像

ドキュメンタリー映画のいくつかのシーンを、かなりシンプルに、ぶつ切りでつなぎあわせたような本編映像ですが、これを視聴していただくだけでも、「教育ドキュメンタリー」の映像として、とても学ばせられるところがあります。

映像を撮影する監督の視点を追いながら、そこに共感や違和感を覚えることによって、教育現象を観察したり、それを記録に残すことについて、自分が今まで何を大切にしてきたのか、を振りかえる機会にもなり、そのような意味で、「もう一度、見たい」と思わせる映画でした。

 

この映画について、3月13日には、岩岩さや子さん主催で「語り合う会」が開催されました。

そのときに話題になったことのひとつが、上記、本編映像の冒頭にもテロップで登場する「お仕事」という言葉。

この映画のなかでも何度も「お仕事」という言葉が登場するのですが、モンテッソーリ学校に通う子どもたちが、自分の行っている作業を「お仕事」と呼ぶのはもちろんのこと、先生たちも(!)自分自身の仕事(子どもへに教具の使いかたを示したり、相談にのったりしていることなど)も「お仕事」と呼んでいたので、素朴に、「この『お仕事』というのはどういう言葉なんだろう?」という疑問がわいてきました。

 

この言葉、定義があるようでどうもそうではないような気がする。

映画を視聴していると、「お仕事」という言葉は、実践をスムーズに組織するうえでなくてはならない言葉だけれども、「お仕事」を定義せよ、と言われるとなんとも難しそうです。もしかしたら、不可能である、とすらいえるのかもしれません。

まさに、モンテッソーリ教育という言語ゲームのなかにあるツール(としての言葉)、という感じがします。

 

「語る会」では、渡辺貴裕先生(東京学芸大学)から、デューイ・スクールにおける「仕事(occupation)」概念に関する論考*1をご紹介いただき、「『仕事』というのが新教育において共通する、一種の流行りだったのでは?」というような話も出たりしました。

また、その後、個人的にリサーチをするなかで、モンテッソーリ学校の先生たちが、子どもたちに「Buon Lavono!(ブォン・ラヴォーノ)」(直訳すると「良い仕事を!」で、イタリア語としての使われ方としては「お疲れさま!このあとも仕事頑張って!」みたいなニュアンスらしい)と言っているという投稿記事を見たり、モンテッソーリガンジーに共有された視点として「作業(Lavono)」への視座がある、というような論考*2を読んだりして、どうも、この「お仕事」は「Lavono」で、デューイ・スクールの「Occupation」とは違うらしい…?というところまでたどり着いたりもしました。

…が、やっぱり、フィールドワーカーとしてこの映画を見るかぎり、この「お仕事」は、子どもたち同士の、また子どもと大人がかかわるときの実践に埋め込まれた言葉、そしてその実践を編み出し、新たなかたちで組織化していく言葉と見たほうが、良いような気がしています。

「語る会」のなかでは、わたしが個人的に抱いていた、「(映画中にみられるような)高度に設えられた教具がないような環境において、モンテッソーリ教育は成り立つのか?(モンテッソーリは「ここでも教育はできる」というのか否か)」という問いに対して、その場に参加していた複数の方々から、「教具がなくても、モンテッソーリの哲学・思想があれば、そこにあるもので、素材を工夫して、モンテッソーリ教育は行うことができる」「少なくとも、モンテッソーリは、その状況において(状況が完全に『無』であることはありえない)なにかを教具と見立て、あるいは教育可能性を見出し、そこから教育を始めるだろう」と。

 

そうであるとしたら、まさにそういう状況のなかで、何か「見立て」たものを、教育的実践を編み出すためのツールとして、「お仕事」という言葉が位置付けられるのではないか、と考えました。

 

あらためて、教育・学習という実践に埋めこまれ、それを成り立たせる言葉、について考えさせられた時間でした。

 

 

 

「老い」をめぐる悲劇的なナラティブと出会いなおす―『インプロがひらく〈老い〉の創造性』

高齢者パフォーマンス集団「くるる即興劇団」を主宰されている園部友里恵さんより、「くるる即興劇団」のアクションリサーチ本『インプロがひらく〈老い〉の創造性』(新曜社)をご恵投いただきました。

 

「くるる即興劇団」という名前を知って、すぐに興味を持った背景には、わたし自身の「老い」や「(中途)障害」に対する接しかたの特殊さ(?)みたいなものが起因していたように思います。

注文を間違える料理店」について知ったときも、そうだったのですが、「ああ!わたしが感じていたことを、一緒に楽しんで話してくれる人が、家族以外にもいたんだ!」という感じ。なんだか、ホッとするような、うれしいような……肩に乗っていた大きな荷物がフワーッと降りていく感覚がありました。

 

というのも、わたしが高校生のときに母が脳梗塞で倒れて、半身麻痺+失語症になり、それから言語のリハビリーテーションに付き添いにいったり、「失語症友の会」などの集まりに行ったりして、さまざまな失語症の方や認知症の方にお会いするなかで、その個性豊かな現れに、毎回、新鮮な驚きを感じるばかりだったのです。

母がとてつもなくポジティブで、半身麻痺になろうが失語症になろうが、私以上にアウトゴーイングな人間だった、というのも大きいのだと思います。

ようやく、まったく話せない状態から少しコミュニケーションができるようになった、ということで、看護師の方が母に「この人(私を指して)は、誰ですか?」と聞いたときに「魏志倭人伝」と答えたことは、わたしにとって、一生もののエピソードになりましたし、その後も、母が、話したり書いたりするときに起こすミステイクが、毎回、興味深くて、大学で受講していた言語心理学言語障害論とあわせて面白くてたまらない!という感じだったのです。

 

一方、そんな「面白い」「興味深い」というワクワク感は共有されることもないまま時は過ぎ、そんななか2年前に、Eastside Institute のImmersion Programを受講しにいく直前、Eastside Instituteに関わるメンバーが行っている「Joy of Dementia」というワークショップの記事(ワシントンポストの記事)を紹介され、「ああ、これだ!」と思いました。

www.washingtonpost.com

 

ニューヨークでのImmersion Programの最終日には、プログラムに参加しているメンバーたちと、私たち自身の「認知症」とのかかわりや経験、イメージについて対話しあう機会を得ることもでき、そのなかで、あらためて、日本・米国というローカリティを超えて、老いや認知症に対する「悲劇的なナラティブ(tragetic narrative)」が人々の基底に流れているか、ということを実感しました。

本書の「はじめに」で紹介されている、園部先生と「じーちゃん」「じいちゃん」との関わりをめぐるエピソードは、それだけでも、私にとってはとても読む価値のあるもので、それこそ、フワッと肩の荷が下りていく感じがしました。

もちろん、第5章で葛藤しながら、園部先生は、逡巡しながら、老いや認知症の「悲劇的なナラティブ」やそれを前提としたポジティブな語り(「ボケないようにしなくちゃ」)に向き合われていることについて、語られており、実態はそんなにイージーなものではありません。

きっと、園部先生ご自身が、高齢者の皆さんが「悲劇的なナラティブ」を語られれるのを目のあたりにして悩まれたり、落ち込まれたりすることもあるのだろう、と思います。

それでも、このようなかたちで、老いや認知症をめぐる「悲劇的なナラティブ」を相対化しうるような物語が生まれ、世に出されたことは、本当に素敵なこと。

ぜひここから、私たちの、老いや認知症をめぐる物語を語り直していければ、と思わせてくれる本でした。

「ほっといてください」の感情共有装置―宇佐美りん『推し、燃ゆ』

ようやく、宇佐美りん『推し、燃ゆ』を読んだ。

芥川賞受賞作であり、かつ本屋大賞にもノミネートされていることもあり、とにも書くにも評判は高いのだが、本の「あらすじ」を見ようとしても、ほとんど、帯コピー(「推しが炎上した。ファンを殴ったらしい。」)と同内容の分しか見ることができない。

さらにいえば、帯の裏面に記載されているコメントも、なんだか、てんでバラバラで、とにかく「推しが、燃えた」=「推し、燃ゆ」=タイトルしかわからないところが、まず、面白い。

 

一読後、なによりもまずはじめに思い出したのは、岩井俊二監督映画『リリイ・シュシュのすべて』。
この240秒版TVSpotの最後に流れる、ブラック画面上のメッセージー《僕にとって》《リリイだけが、》《リアル。》――は、『推し、燃ゆ』の基底に流れているものと、とても似通っている。


映画『リリイ・シュシュのすべて』TVspot 240秒

 

しかし、『リリイ・シュシュのすべて』において、世界が、中心的な視点人物のみならず、その周囲の《14歳》たちすべてにとって「灰色(グレー)」であったのに対し、『推し、燃ゆ』では、もっぱら、語り手の視点のみに靄がかかり、そこから見える視界だけがぼやけている。

 

語り手自身がもっている特殊なレンズによって、ある時はクリアに見え、かと思ったら突然靄に覆われてまったく視界不良になったりそんな世界の「見え」を、驚くべきほど正確に記述している、という点が、この作品があれほどまでに絶賛される所以なのだと思う。

もっとも単純な例をあげれば、悪天候のなか、母親の運転する車の後部席に乗って、海岸沿いの道を走るシーンがある。

 

 目をひらく。雨が空と海の境目を灰色に煙り立たせていた。海辺にへばりつくように建てられた家々を暗い雲が閉じ込めている。推しの世界に触れると見えるものも変わる。あたしは窓に映るあたしの、暗いあたたかそうな口のなかにかわいた舌がいるのを見て音もなく歌詞を口ずさむ。こうすると耳から流れる推しの声があたしの唇から漏れでているような気分になる。あたしの声に推しの声が重なる、あたしの眼に推しの眼が重なる。

 母がハンドルを切る。ワイパーの範囲から外れた雨が窓を垂れていき、タッターッ、タッターッ、と規則的な音とともにぬぐわれた窓ガラスがまた曇る。並んだ木は輪郭を失い、鮮やかすぎる緑色だけが目に残る。

(宇佐美りん『推し、燃ゆ』、pp.31-32)

 

車で移動しているのだから、そもそも映る景色は変わっている。悪天候時によくあるように、その薄暗さも移り変わっているのかもしれない。

そんなことを考えてしまうくらい「目をひらく」の直後の文に感じた明るさや温度感が、次の段落の最後には失われている。窓ガラスは、また曇っているのに、それでも、読者のイメージする視界いには、鮮やかな緑色が残る。その世界は、薄暗い世界のなかでも、美しくクリアーだ。

 

瞬間瞬間で変わっていく、焦点のぼやけかた、視界の明暗を、このくらいの正確さで描出しながら、悪い方向に向かっていくけれどもなんだか靄がかかったようにぼやけていてよく見えない世界と、推しの光のなかで何もかもがクリアーに見通せる世界とが対比的に描きだされる。

 

そしてそれによって、描き出されるのは、第三者的な記述のなかでは、「ほっておいてください」*1という言葉で象徴的に表現されてきた、ファンたちの世界だ。

宇佐美りんさんは、『好書好日』のインタビューで「一方通行だから、いい」という推しの感情のありようが、あまりにも理解されないままでいることが、本書を書く原動力になったと語っている。

宇佐見りんさん「推し、燃ゆ」インタビュー アイドル推しのリアル、文学で伝えたかった|好書好日

 

「ほっといてください」という言葉で象徴されるような、一方通行的な愛情。

一方向的で、自分の側を見返されることがないという安心感のなかでこそ得られる心理的な癒しや支え。

それは、一方で、自分自身の暴力性に対する無自覚さとして批判されるべき対象ではあるが、その一方で、それがなければ生きていけない、というほどの切実さをもって、一方向の愛情を必要とする人々がいることも事実なのだ。

 

カズオ・イシグロが述べるように、小説家の役割が「感情(emotion)を物語に乗せて運ぶこと」なのであるとしたら、『推し、燃ゆ』は、「ほっといてください」としか言えないがゆえに批判・非難されてきたファンたちの感情を、物語に乗せて、社会に共有しようとする企てなのだろう。

「時空を超えて伝わる『感情』を描き出す」作家、カズオ・イシグロの野心 | WIRED.jp

 

遠くから思いを馳せざるをえない時代のアートー「メゾン・ケンポクの何かはある2020」アーカイブサイト

昨年(2020年)1~3月に開催されていたメゾン・ケンポクの「何かはある」。

メゾン・ケンポクの『何かはある』(メゾン・ケンポク、茨城県北各地)

今年開催が予定されていた「何かはある2021」も、新型コロナウイルス感染拡大の影響により、一部プログラムが休止したり、開催形態が変更になっているようです。

maisonkenpoku.com

いま、振り返ってみると、昨年度の「何かはある」も、まさに、新型コロナウイルスによる社会生活への影響が少しずつ、そして、確かにはっきりと、生活のなかで感じられてきていた時期に開催されていました。

 

その「何かはある2020」のアーカイブ・サイトが公開された、とのお知らせをいただきました。

maisonkenpoku.com

このブログにも記事を掲載した、松本美枝子《海を拾う》レビューや、華雪さんによるワークショップ《和紙に文字を植える》のレポートも、アーカイブサイトに記事をご掲載いただいています。

 

kimilab.hateblo.jp

 

kimilab.hateblo.jp

 

松本美枝子《海を拾う》に関しては、上記ブログ記事でもご紹介しているわたしのちいさなレビューと一緒に、小松理謙虔さん(ローカル・アクティビスト)によるかなり詳細な作品レビュー「石が問う、産業と地域、そして芸術」も掲載されています。

-松本美枝子《海を拾う》レビュー「石が問う、産業と地域、そして芸術」/小松理謙虔さん(ローカル・アクティビスト) 

同じ作品に対する複数のレビュー(しかも、小松さんのレビューは、私が書いたようなライトでフワフワッとしたものではなく、小松さんご自身のこれまでの経験に根差しながら、本作から地域とアーティストとの関わりに関する深い考察を導き出した、かなり骨太なレビューです!)が、ひとつのページのなかに並べられていて、それらを見ることができる、というのは、なかなか素敵なこと。

普段から、自分が見た/経験した作品やプロジェクトに対しては、いくつかのレビューサイトを見比べたりもするけれど、それが本サイトのなかで、主催者側の企画として実現されている、というのが素敵です。

さらにいえば、もともと、松本美枝子《海を拾う》の映像によるドキュメント/レビューとして制作された鈴木洋平監督による派生作品《短編映像|海を拾う》も掲載されていて、文字(テクスト)によるレビューとはまた異なった視点で、《海を拾う》という作品を「経験」(ここはあえて「経験」と言いたい)することができます。


松本美枝子「海を拾う」

 

 松本美枝子さんといえば、2014年に行われた「鳥取藝術祭」での美枝子さんの仕事がとても印象的でした。

芸術祭の「広報」という枠で行われたものであるにもかかわらず、「鳥取藝術祭に来られない人」、遠くからこのプロジェクトに思いを馳せる人たちに向けた、写真+テキストによる作品(とあえて言いたい)が実現されていて、非常に感銘を受けた記憶があります。 

kimilab.hateblo.jp

 そんな松本美枝子さんが、『未知の細道』での連載のなかで、同様に、現地に来られない人たちにとっての「演劇」のありかたを探った、長島確とやじるしのチームによる「←(やじるし)」のプロジェクトについての記事を書かれていたのも、とても面白い。

www.driveplaza.com

さらにいえば、昨年は、ヨコハマ・パラトリエンナーレ2020の《BOOK PROJECT|そのうち届くラブレター》にも、アーティストとして参加されていて、山本高之《悪夢の続き》への「応答」として、誰かによる「見せたい風景」をピンホールカメラで撮影された写真群を作品として展示されていたのが印象的でした。


山本高之《悪夢の続き》 Takayuki Yamamoto The Nightmare Continues, 2020

(BOOK PROJECTの感想も書こうと思って書けていない…できていないことが多すぎますね)

 

新型コロナウイルスの影響で、「現地に行くことができない」「遠くから思いを馳せることしかできない」という状況のなかで、今後、松本さんがどのようなプロジェクトを今後展開していくのか、ますます楽しみになるようなアーカイブサイト公開のお知らせでした。

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松本美枝子《海を拾う》展示作品の一部

 

ミスリード情報をリツイートしてしまった話――フェイクニュースとの付き合い方

先日、BuzFeed  Japanによるファクトチェック記事「新型コロナワクチン、「感染予防効果なし」は誤り」が公開されました。

www.buzzfeed.com

マスメディアによる、いわゆる「反ワクチン」報道については、これまでも話題になってしましたが、それに対して、BuzzFeed  Japan がファクトチェックを行い、専門家にヒアリングを行いその見解を紹介する、というかたちで切り込んだかたちになります*1

そして今日は、同じBuzz Feed ニュースで、「反ワクチン」報道記事の削除が相次いでいることが取り上げられていました。

www.buzzfeed.com

 

新型コロナウイルス関連の報道に関しては、実は、わたしも反省(懺悔)しなければならないことがあり、そのことについて、ここで記しておきたいと思います。


1月中旬頃、都営大江戸線運転士の集団感染(新型コロナウイルスへの集団感染)に関して、運転士らが使用していた洗面所の蛇口を介して感染が広がったのではないか、というニュースが複数のメディアで報じられました。

以下に示す読売新聞の独自取材記事がもととなり、読売新聞で報道されたあと、共同通信でも報道があり、NHKニュースや民放でも放映されました。

www.yomiuri.co.jp

大江戸線運転士の集団感染、蛇口経由拡散か(共同通信) - Yahoo!ニュース

洗面所の蛇口介し感染か 都営大江戸線の新型コロナ集団感染 | 新型コロナウイルス | NHKニュース

 

そして、このニュースに関しても同様にBuzzFeed Japanで検証したところ、このニュースが「ミスリードであるという評価がなされました。

www.buzzfeed.com

 

じつは、私、読売新聞の独自取材記事が、オンラインで公開されていた時に、この記事を自分自身のTwitterリツイートしていました。

その後、1月23日に、フォローしていたファクトチェック・イニシアティブのアカウントで、以下のツイートを拝見し、驚いて記事本文を見てみたところ、「洗面所の蛇口が感染ルートであった」という説明が、あくまで、対応した保健所から出されたひとつの可能性に過ぎず、専門家からも疑義が呈されていたことがわかりました。

 

 

メディアリテラシー教育研究者の端くれとして、フェイクニュース(とまでは言えないですが)の拡散を防止するどころか、拡散に加担してしまった(!)ということにショックを受けると同時に、わからないことだらけで、かつ日々変化していく未知のウイルスの存在に直面している現在、今回のような情報の拡散を完全に防ぐことは(ほぼ)不可能である、ということも思い知りました。

 

たとえば、NHK for School『週刊メディアタイムズ』には「フェイクニュースを見抜くには」という回があり、ここで示されているポイント(資料PDF)を見てみると…

 

「発信元を探る」

「他のメディアを調べてみる」

「文章の表現に着目」 

 

…とあり、完全な「フェイクニュース」はもちろん、今回のような真偽の不確かさをもつニュースであっても「他のメディアを調べてみる」は有用だと思っていたのですが、読売独自取材→共同通信(通信社)→報道各社…というルートで、同じニュースが掲載されていると、さすがにこれに対して、真偽が不確かな情報だと思うのは難しい。

その段階になると、むしろ読み手の側の「ニュースリテラシー」によって、情報の確からしさを、他のニュース同様に吟味するなかで、自分自身の対応を決めていく必要がありそうです。SNSの拡散という段階で防ぐのは難しいし、情報のスムーズな流通が滞るというデメリットの方が大きそうです。

 

そうであるとすると、私たちができるのは、「ミスリード」するような情報は存在する、ことを前提に、ニュースと付き合っていくことなのだと思いました。

予防線として、今回、私がそうであったように、ファクトチェック団体のSNSをフォローしておく、など、いつでもファクトチェック情報にアクセスできる環境を整えておくことは有用そうです。そして、自分が拡散した情報が、誤情報あるいは真偽が不確かな情報だと思ったときに、それを積極的に拡散していく(…といっても、そういう情報はなかなか拡散してもらえないのですが)ということが、求められるのかもしれません。

 

そういう自分自身のメディア環境をデザインすることも含めて、「ニュース・リテラシー」「メディア・リテラシー」を考えていく必要があるように思います。

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大日本タイポ組合「文ッ字」展・展示作品より

 

*1:この記事内容について、当初、「ファクトチェック・イニシアティヴがファクトチェックを行い…」と記載していましたが、読者の方から、実際に検証を行ったのはBuzzFeedであるというご指摘をいただきましたので、記事内容を訂正しました(2021/1/27)。