「隠れたカリキュラム」のなかの量的調査~「ここにいる」を言うための言葉を育てる(2)~
前回の記事で、2022年2月18日に行われた横浜国立大学附属横浜中学校での校内研究会(非公開)での提案授業「Fy74期生のコロナ禍における○○論~根拠の適切さを考えて自分の考えが伝わる文章になるように工夫する~」と、それに対する協議会での反応(に、わたしがショックを受けたこと)について書いた。
この研究会のために、単元を構想し、当日授業を提案してくださった柳屋亮先生にとっては、それこそ休日返上で丁寧に考えてきた授業。
それが一蹴されたように感じたのではないか、と心配になり、前回記事で書いたような私自身の考えをメールでお伝えしたところ、これまた丁寧なご返信をいただいた。
柳屋先生ご自身から、転載の許可もいただいたので、メールの一部をそのまま引用する。
続きを読む「ここにいる」を言うための言葉を育てる~フェミニスト国語教育学に向けて
本日は、横浜国立大学教育学部附属横浜中学校の授業研究会(非公開)でした。
2021年度の研究発表会が、コロナウイルス感染拡大の影響で開催できなくなってしまったこともあり、本年度こそ公開で開催できればよいなぁ、とは思っていたのですが、オミクロン株の影響が著しく、本年度も非公開での開催となりました。
今年も3月中旬頃、こちらのページに「基調提案」「教科提案」「指導案」が掲載されるとのことです。
本年度、研究発表会で公開予定であった授業は、中学2年生・国語科「書くこと」の実践として、同校・国語科の柳屋亮教諭によって行われた、以下の実践。
「Fy74期生のコロナ禍における○○論
~根拠の適切さを考えて自分の考えが伝わる文章になるように工夫する~」
「Fy」というのは、「(横浜国立大学教育学部)附属(Fuzoku)横浜(Yokohama)中学校の頭文字をとった略称*1。
柳屋先生は、これまでにも、『TEACHannel』にて、これからICT導入をしはじめる先生方に向けて「はじめての1人1台端末」というタイトルのコラムを書かれているなど、自身の実践から見出された知見の発信にも取り組まれています。
今回の授業実践を行うことになった附属横浜中学校の「74期生」は、中学校に入学するやいなや、長きにわたる休校期間と、突然の全面オンライン授業に直面した世代にあたります。
そして、そのあまりにも特異なスタートで始まった中学校生活が、いわゆる「通常」のかたちに戻ることはなく、いまでも「ウィズ・コロナ」の学校生活が続いています。
そんな中学校生活を送ってきた生徒たちに、「歴史的な事件」であるとすらいえる自分たちの中学校生活を振り返るとともに、少しだけ距離を置いたところからそれを眺めなおしつつ、社会全体に向けて「私(たち)にとって、コロナ禍の中学校生活というのはこのようなものであった」ということを伝えてほしい。
「個人的なものに過ぎない」「主観に過ぎない」と、自分の経験をとるにたらないものとして切り捨ててしまうのではなく、今、たしかにここに生きている自分たちの経験とそこから編み出されたストーリーを社会へと伝えていくこと、そのことに意義があるのだ、と伝えたい。
そんなことを、柳屋先生と、時間をかけて話し合っていきました。
桐光学園中・高等学校(監修)(2021)『学校! 高校生と考えるコロナ禍の365日』や、内田樹(2020)『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』などを見ながら、「『学校!』だと、「生」の声がそのまま吐露されているだけだけど、生徒たち自身に相対的に振り返ってほしい」「そうすると、視点の取り方としては『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』のように、ある特定の立場・観点を決めたほうがよいのでは?」などと話し合ったことを思い出します。
そんなやりとりを重ねた結果、まず1月から「話すこと・聞くこと」の単元として、生徒たちの「声」を掬い上げるためのインタビューを行ってみようということになりました。
*1:いまだにこの略称には疑問があるのですが、すでに「74期」ともなるともはや変えられないのだろうとも思っています
国語教育相談室:「誰だって落ち込むことはある」の主語・述語
「国語教育相談室」と書いてみましたが、新たにそんなコーナーを始めるというわけではありません。「国語教育相談室」みたいなものが必要ですね、という話です。
先日、教育に関わられている方より、中学校で出題された文法問題について、質問を受けました。
「次の各文の主語と述語を書き抜きなさい」という指示のもと示された複数の文の中に以下のような文があったのだが、この文の主語と述語は何になるのかを教えてほしい、ということでした。
誰だって落ち込むことはある。
文法教育においては、「学校文法」というちょっと特殊な文法の存在を考慮しなくてはいけなかったり、そもそも、私自身が、文法のことをよくわかっていないので、専門家にお聞きすることにしました。
今回、ご相談したのは、文法教育史の専門家・名古屋女子大学の勘米良佑太先生と、文法史の専門家・大阪教育大学の清田朗裕先生です。
国語教育と日本語学(国語学)、バランスよくお話がお聞きできるのでは?というご期待のもと、お二人に(ボランティアで)お考えをお聞きしました。
まず、勘米良先生からのご回答です。
まず、日本語学的な文法論にもとづくとどのように説明できるか、とういことで、三上章『象は鼻が長い』に基づくご説明をいただきました。
これに従うと、「主語」は「落ち込むことは」(今回は、「主語」を問われているため、一文節を書き抜く課題なので「ことは」になるでしょうか)、「述語」は「ある」になりそうです。
しかし、これはあくまで、日本語文法論にもとづく説明。
中学生たちが学校で学習しているのは「学校文法」ですので、「学校文法」ではどのように考えられるのでしょうか。
…というわけで、連文節の考え方を使えば「主部」「述部」という構成で考えられそうです。ただ、「主語(主部)」は、「誰だって」で考えられる、そうすると対応するのが「述部」になってしまって、ちょっとうまくいかなそう…というのが、勘米良先生の見解でした。
続いて、清田先生のお考えです。
清田先生は、はじめに、「学校文法」にもとづく説明をしてくださいました。
考える順序までしっかり説明してくださっていて、わたしのように文法の考え方がよくわからっていない者にとっては、大変ありがたいです。
「学校文法」にもとづくと、2つの「正解」がありそうだ、というのが清田先生の説明でした。
【正解1】「誰だって」(主語)・「落ち込む」(述語)
【正解2】「ことは」(主語)・「ある」(述語)
また、連文節の考え方を使って、「主部」「述部」にわけて考える説明できる、という考え方は同じだけれども、「主部」「述部」の分け方は違うんですね。これはどうしてなんだろう。
そして、日本語学的な文法論に基づく説明もしてくださいました。
複合助動詞!
すごい!この考え方でいうと「落ち込むことがある」全てが「述語」になるのですね。
そして、このような考え方について、勘米良先生は、連文節で(主部・述部として)解釈可能とおっしゃっていました。
結局、このような考え方は、学校文法的にも成立可能なのかそうでないのか。
お二人の先生にお聞きしたいことが溢れてくるばかりです。
今回、お二人の先生にお話しをお聞きして、思ったのは、「文法問題を、正誤問題として扱うのには限界があるのではないか」ということでした。
おそらく今回のような複雑な文法問題が出される背景には、「『は』『が』があるから主語!」「人だから主語!」というような、ナイーブな文法の捉え方(「疑-文法論」、とでもいいましょうか)をしていないかどうか確かめたいからですよね。
そうだとしたら、一文一答式で正誤を問うようなやり方には限界がある。テスト理論の専門的知見も持たないうちに、オリジナルな問題を作成するリスクが高すぎると思います。
そして、もっと大切なことは、子どもたちが「文法」というツールを使いこなして、自分たちの日常の言葉を分析してみたり、新たな文を生成することの手がかりにしていけることですよね。
そうだとしたら、むしろ今回のような、ナイーブな感覚では分析しにくい文法問題をあえて出題したうえで、子どもたちに「なぜ自分はそう考えたのか」を説明してもらっては、どうでしょうか。
子どもたち一人一人によって辿りつく「解」は異なっても、その道筋が適正なものであるかどうか、を評価することはできます。
今回お二人の先生にお話しをお聞きしながら、「謎解き」のように文法問題を考えていくことができました。
二人の先生がそれぞれに違った概念的とツールを使いながら、別々の説明をしてくださるのを聞くのは本当に面白い。
こういうかたちで、文法の考え方が生き生きと活用されていくような場面を、もっと子どもたちと共有できたらいいのに。
…というわけで、子どもや保護者、そのほかいろいろな人たちが、国語教育にかかわる、こういう疑問を感じたときに、問い合わせたり、その問いをもとに専門家が、コンセンサスの形成に向けて議論できる場があったらいいいな、と思ったのでした。
プレイフルに言葉を生みだす体験を共有すること~全国大学国語教育学会2021春大会公開講座「言葉のティンカリングとことばあそび」
全国大学国語教育学会2021春大会の公開講座「言葉のティンカリングと言葉遊び」に参加してきました。
3時間にもわたる(!)記録動画なので、全部を視聴するのもなかなかエネルギーがいると思うけれど、Youtubeページ内にアップロードされている当日資料や、当日のワークショップの様子とそれに対するあすこま先生の感想をまとめた「あすこまっ!」ブログの記事(面白かった!詩創作のワークショップ 全国大学国語教育学会より② | あすこまっ!)を参照しつつ、早送りしながら重要なシーンをチェックしていくのがよいかもしれません。
あすこま先生の記事、「ティンカリングとはそもそも何か?」というところからはじまって、当日のワークショップで経験することができた詩教育のテクニック(「フリーライティング(Freewriting)」「マッピング(mapping)」、「おしゃべりなモノ(Object talking)」)や、ドラフトの共有とそれをめぐるディスカッションがどのような様子だったのか、まとめてくださっていて、ひたすらありがたいです……!
こんな感じで、公開講座「言葉のティンカリングと言葉遊び」がどのようなワークショップだったのかについては、すでに、かなり運営側の皆さんを中心に、情報をオープンにしてくださっているので、ここでは、わたし個人がワークショップのなかで書いたもの、創ったものを共有したいと思います。
わたしは、「誰かがつくった詩に対して、率直に感じたことを言って、そこでもらったコメントから新たなアイデアが創発されたりするようなやりとり」が起きることを、すごくステキなことだと思っていて、もっと、こういうやりとりがいろいろなところに「飛び火」していくといいな!と思っているのですが、なんだか、それを伝えるのが難しい。
なかなか「飛び火」していかない。
だとしたら、もっと、気軽にそういうやりとりを見られるようにしたり、体験できる場を増やしたりして、「ああ、こういう感じのやりとりか!確かにステキ!」「自分もやってみたい!」って思ってもらえるようにしたらいいのかな、と思ったんです。
先日もたまたま参観した小学校の俳句創作の授業のなかで、子どもたちに「どうしてその表現にしたの?」「その表現の工夫を選んだ理由はなに?」と詰問していらっしゃる先生方を目にしました。日本の学校の詩創作(俳句・短歌を含む)の授業だと、あまりに周りの大人たちが、
子どもたちの側にも、自分の詩の良さを伝える言葉がなかったり、まだ限られた言葉しかないうちに、大人たちの側からその言葉をまったく届けることもなく、子どもたちに「どうして?」「理由は?」と聞き続けても、「なぜなら~」「その理由は~」の話型練習にはなるかもしれないけれど、「言葉の使用者でもあり、創造者でもある」という「言葉する人(Languager)」に近づけるチャンスを無駄にしてしまっている気がします。
※「言葉する人(Languager)」については2019年に日本質的心理学会での会員企画シンポジウムのテーマとしてとりあげました。こちらにアップロードされているオンライン報告書をご覧ください。
kimilab.hateblo.jp
そんな話を、メールで、本講座の企画者であり、共同ファシリテーターでもある中井先生にお伝えしたところ、「本当に、詩を書くこと、それを人に見せることもさることながら、人の書いた詩にコメントをすることも多くの先生方が躊躇されていることだと思います。これまであまり意識してこなかったのですが、今回のワークショップで強く思いました。」といううれしいコメントをいただけたのみならず、中井先生からいただいた、わたしの詩へのコメントも公開してよい!ということだったので、わたしの作品とともに、ここに掲載させていただきます。
1. フリーライティング(Freewriting)
まずは、ひとつの単語から連想をふくらませていく「フリーライティング」。
今回とりあげられた「お題」は、①「旅(journey)」と、②「奇妙(Strange)」の2つでした。
こちらが、①「旅(jounery)」という語をもとにおこなった、フリーライティング(連想される語を2~3分でとにかく書き続けていく)なのですが、わたしにとっては、かなり難しかった…。
当日、Sue Dymoke 先生にも質問したけれど、「旅」と聞いた瞬間に、(なぜか)青森県の種差海岸と新島の海岸線に沿って無限に続いていく道路の風景が、視覚的にバッと出てきてしまって、はじめのほうは、自分が見えているビジュアルのなかの要素をひとつひとつ拾い上げている感じになっております。
「これじゃ、いかん。ただ要素を拾ってるだけだ」と思って、他のイメージを連想しようとするんだけど、結局、場所が移動して行ったりきたりするだけ(フルーツパークからみた甲府盆地→ふたたび、新島の海岸線)になってしまい、なんだか、とにかくダメでした(笑)
次の「お題」の「奇妙(Strange)」は、もうはじめからあきらめて、映画『ダレン・シャン』のサーカスの風景(映画は駄作です)が出てきたので、そのビジュアルから思い出す単語をたくさん書きました。
2. マッピング(mapping)
そして、次に行ったのは、「自分にとってのはじめての『旅』」をテーマにした「マッピング(mapping)」。
「マッピング」という名のとおり、地図のイラストを描いていきます。
この「マッピング」をしたあとに、3人でそれを共有しあう活動があったのですが、このマップへの質問やそれをめぐるやりとりのなかで、「秘密」(右上)「自分だけの秘密の場所」(左中央)というキーワードが出てきました。
さらに、自分のなかで面白かったのは、他のメンバーがつくった詩から創発されるイメージがあったこと。
家族でのキャンプの体験について詩を書いていたメンバーが、地図のなかに「まむし」と書いていて、自分のなかではその「まむし」の存在がすごく怖かったのだ、と説明してくれました。
その話を聞いていて、わたしの中のイメージ・視界があしもとに降りてきて、突然、「はじめての『旅』」の視界がグッとクリアになった感じがありました。そのときに自分の視界のなかに見えてきたのが「ヘビイチゴ」で、その見えてきた色があまりにも鮮やかだったので、わざわざ赤いペンで「ヘビイチゴ」に〇をつけて、さらにイラストも赤く色づけています(左上)。
3. ドラフト(draft)と共有
その後、「ドラフトを書いてください」という指示があって、書いてみた「ドラフト」がこちら。
今だから白状しますが、実は、ドラフトはこんな感じで2ページにわたって書いていたのですが、3人での共有のときに音読をしていたら「その先には 何があるの?」で読み終わりたくなっちゃって、右側のページのものを削除しました。
最終的にできた(提出した)作品がこちら。
ヘビの道にあるへびいちご
酸っぱいかもしれないへびいちごそこは秘密の場所
私だけの秘密の場所ヘビの道にある私だけの場所
交換日記と手紙
かくれんぼとシーソー
飴玉とチョコレートヘビの道の先にあるミニボート
乗れるかもしれないミニボート
用水路の先には真っ暗なトンネルがあるその先には何があるの?
この詩について、英訳をつけて、中井先生にお送りしたところ、こんなコメントをいただきました。
ワークショップの中でも「イメージが先行して浮かんできた」というコメントをしてくださっていたと思います。
ヘビイチゴの詩を読んでいると、同じく私の頭の中でヘビイチゴがなっているちょっとした小径の映像が浮かんできました。
小さい頃住んでいた田舎(とっても山奥)にまさにそのような場所があったのとリンクしているのかもしれません。
その映像と、小さい女の子がこの詩を朗読しているような、まるで映画の冒頭シーンのようなイメージです。
これから物語が始まりそうな最後の行もそのように思わせてくれるのかもしれません。
短時間で作っただけのこれだけの詩から、こんなにいろいろなアイデアを感じ取ってくださっている。さらに、「自分にとって、それがどう見えるか」についてかなり精密に言葉を選びとり、その言葉を、詩の創り手に投げかけてくださっている。
それが、(未熟な)詩の創り手にとっては、本当に、有難いことなのだ、と身をもって実感した瞬間でした。
幸いなことに、わたしは今回の講座で、他者の詩のなかにあるアイデアを感じ取り、色とりどりの言葉でそれを返してくださるメンバーに囲まれながら、詩創作の体験をすることができたので、こんな経験をなんども味わうことができました。
すべての大人たちが、詩の創り手にならんとする子どもたちの詩の前に対峙し、そこに流れるアイデアを掬い取り、これだけクリアカットな言葉で届けられたら…と思わずにはいられません。さらにいえば、それがマッピングやドラフトの共有における、子どもたちのやりとりのなかで起きるとしたら…と思うと、本当にワクワクします。
4. 「おしゃべりなモノ(Object Talking)
最後に、もうひとつのおこなった、ある「モノ」になったつもりで語ることによって詩をつくる、という活動のなかで創った詩も共有します。
忙しい交差点にある信号機(A traffic light in a very busy pedestrain crossing)
喧噪ってなんだろう
そんな言葉の意味すら忘れてしまった
もはやとても静かだ目の前を通り過ぎる景色は
まるで海のよう波が寄せては
また引いていく
その繰り返し
ここはとても静かだ
繰り返される波のなか
目をつむっていると
それがまるで自分の呼吸のように思えてくる私は呼吸する
息を吸う
息を吐く
そしてまた息を吸う私の呼吸のなかで、この街は生きている
そして、これに対する中井先生のコメントは、こちら
もうひとつの信号機の詩は、とてもbusyな交差点なのに、いやそうだからこそ目から入ってくる情報が多量で、音が聞こえなくなってしん、としている空気を経験したような気持ちになりました。
でもその視覚情報すら閉じてしまうと、感じられるのは自分の呼吸だけになるのですね。
その第5連がとても気に入って、日本語も英語もなんども音読しました。ゆっくり。
とても素晴らしい作品をありがとうございます。
中井先生のコメントそのものが、とても詩的で、スーッと心のなかに入ってきます。
どうしたら、こんなに麗しいやりとりを、いろいろなところに、広げていけるのでしょうか。
『あらためて、ライティングの高大接続』往復書簡を受けて
ひつじ書房のウェブマガジン『未草』の中に、今年4月から、「Book Review」の姉妹編として「Letter: Black Sheep and white Sheep」というコーナーが設けられています。
Letters:Black sheep white sheep | 未草
このはじめのシリーズとして、『あらためて、ライティングの高大接続』(ひつじ書房)をめぐる、同署の著者2人(島田康行先生・渡辺哲司先生)と、あすこまさんとの往復書簡が展開されていて、とても興味深いです。
5月10日、著者陣からの「あすこま」ブログ記事における書評へのコメントが公開され、その3日後、あすこまさんから、そのコメントへの返信が公開されました。
このやりとりの中で、「アカデミック・ライティング」を、学術論文やそれに準じた/その方向性を目指したレポートではなくて、小中学校も含む学校教育全体で書かれているような「事実や意見を伝える文章」に拡張して考えましょう、という提案がなされ、それについて、肯定されるかたちで議論が進んでいるようなので、それに対しては、ちょっと違和感をもった。
たとえば、マクミラン社が提供しているオンラインのフリーディクショナリーで「academic writing」を検索すると、次のような語釈が表示される。
ACADEMIC WRITING (noun) definition and synonyms | Macmillan Dictionary
①エッセイや研究論文、その他の学術的文章に使用される、フォーマルで、かつ、事実に関わる書くことのスタイル(a formal and factual style of writing that is used for essays, research papers and other academic texts
Whilst academic writing has its place, this mode tends )②学術的なスタイルで書かれたテクスト(texts that are written in an academic style)
なんでもかんでも辞書的な定義に忠実になるべきとは一切思わないけれど、あまりにも原語の定義から拡張すると、何がなんでも「アカデミック・ライティング」になってしまうようで、わたしにとっては、息苦しい。
わたし自身は、大学院時代に、「vocational Literacy(職業リテラシー)」とか、「venacular Litearcy(ヴァナキュラー・リテラシー)」とかに関心をもって研究をしていた時期があり、
さらにいうと、今、まさに、宮澤先生と進めている「つながりの学習(Connected Learning)」(初版のレポートはすでに日本語で読める→『つながりの学習(Connected Learning)』)と国語教育・読書教育をつなげる研究のなかでも、「アカデミック」でない領域につなぐための言葉やリテラシーの教育について考えていたところでもあったりする。
#全国大学国語教育学会 2021春大会(オンライン)にて、Miyazawa先生 @Miyazawa_1111 と紙面発表します。@TheCLAlliance の『 #ConnectedLearning Research Network: Reflections on a Decade of Engaged Scholarship』で提示された議論の日本における可能性を探ります。https://t.co/3FVnfuVpBw
— Kimi Ishida (@kimi_lab) 2021年5月18日
あすこまさんが本書についてコメントした、はじめの記事でも、大学進学率が半分強に過ぎないこと、アカデミック・ライティングが多様な書き言葉の実践のひとつにすぎないことは指摘されているので、おそらく、その当初のコメントの趣旨を踏まえたうえで、議論が修正されていくのだとは思うのだけれども、現在の議論の流れを見ると、少し不安を覚えてしまう。
私自身は、奇しくも、アカデミックに書くことの文脈のなかで、「アカデミック・ライティング」のスタイルを問い直すという、奇妙な経験をしてきました。博士論文では、1章分もかけて、「自分自身がこの論文をどのような文体で書くべきか」について論じていますし、(さすがにそんなに書く必要はなかったのでは、と今になって反省していますが)いまだに、論文を書こうとするたびに、「この論文は、どういう文体で書くべきか?」をはじめに考えてます。
おそらく、私のように、ヴァン=マーネン(1999)『フィールドワークの物語―エスノグラフィーの文章作法』に影響を受けて文体を捉えなおしたり、ケネス・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』などの議論を受けて、自分自身の研究を伝え、届け、議論するためのメディアそのものについて問い直している研究者は、たくさんいると思います。
そんな文体そのものの問い直しのなかで、「アカデミック・ライティング」とは、「書き手自身を、人々が生を営む世界から遊離した超越的存在(『神様』のような存在)に置き、第三者的に何かを眺めたような視点で書くことで、なんらかの『発見』を見出そうとする文体」ととらえ、実際に、自分自身がアカデミック・ライティングの教育にかかわるなかで、それを学生たちに伝えてきたわたしにとって、「なんでもかんでも、アカデミック・ライティングととらえましょう」という提言は、「暴力的」にすら映るのです。
タラ・ウェストーバー『エデュケーション』を読んだ感想を、このブログにも投稿しました。
本書のタラである著者が、自分自身の揺らぐ記憶を乗り越え、本書を書くことができたのは、(歴史学において通常、採用されている)「アカデミック・ライティング」の視点・技法に依るところが大きいと思います。
「アカデミック・ライティング」の視点・技法がもつパワーは、たしかに大きいし、それでないとできないことはたくさんあります。
ただ、それだけに、そこで通常に採用されている文体では「できないこと」もたくさんあって、わたしのように、質的研究にこだわってきた人たちの多くは、その文体とずっとずっと、格闘してきたのだと思うのです。
そのことを、いま、書かなければならない、と思って、ブログ記事を書きました。
わたしたちの生きる世界には、多様な読むこと・書くことがあり、その多様性を守り育むことが、国語教育の役目だと、わたしは思います。
非可知(unknowable)な世界のサバイバーーともに学んできた4年間を振り返って
今日は、勤務先の大学の卒業式でした。
緊急事態宣言が直前まで続いていたことから、全学行事としての「卒業式」は中止となり、領域単位での「学位授与式」だけが執り行われました。
それでも、やっぱり、今日は「卒業式の日」なんだと思います。
今日は、一時、雨が降ったりもしましたが、数日前に一斉に咲いた桜が、かなり久しぶりにキャンパスに来る彼らを出迎えてくれたことが、せめてもの救いでした。
実は、今年度送り出す卒業生たちは、わたしが、1年次必修のフィールドワーク授業「教育実地研究」を担当するようになって、はじめての学年の学生たちです。
この4年間は、わたし自身が、自分自身の教育・学習論を猛烈に問い直していた期間でもあり、まったく字義通りの意味で、学生たちとの授業の中で自分自身が学ばされてきた、考えを発展させてきた、という実感があります。
「教育実地研究」では、インプロパーク・鈴木聡之さん(すぅさん)による、学級づくりを視野においたインプロ(即興劇)のワークショップを経験したあと、当時まだ、効公立小学校で勤務されていた、あおせんさんの教室にみんなで訪問し、みんなで一緒に体育と道徳の授業を観ました。
そのとき、みんなと一緒に観た、プロジェクトアドベンチャーの手法を取り入れた道徳の授業がとても印象的で、そのときに感じたことから自分で考えを深めていった結果が、全国大学国語教育学会でのラウンドテーブルにつながっていったように思います。
そういえば、このブログ記事で使われている写真も、道徳の授業見学後、なぜか突如はじまった、「ヘリウムリング」体験の写真でした!なつかしい!
このときの「教育実地研究」受講メンバーの中のなんにんかは、その後、3月末に行われた「ワタリ―ショップ」インプロ×リフレクションにも参加してくれました。
学生たちが1年生のときに、このように、「いま・ここ」の場で行われている学習に目を向けていく、ということが、わたしの中でもひとつのテーマになっていました。
2年次の必修授業「初等国語科教育法」では、わたしの中で関心がさらに進んで、自分のなかで生じた経験をいかに言葉化していくか、振り返りによって、それを次なる実践へと結びつけていくか、ということがテーマになっていました。
そのため、「対話型模擬授業検討会」の学部レベルでの展開を模索するような試みをしてみたり、
kimilab.hateblo.jp
「アクティブ・ラーニング・パターン《教師編》」を用いた模擬授業の振り返りと、そのコメントに対して、ロカルノさんにさらにコメントをしていただく、というような「リレー企画」をやったりしてみました。
3年次の教育実習とその振り返り、そして、さらにその振り返りにもとづく研究テーマの設定と卒業研究があり…これからいよいよ、学生たちが自分自身で、自分のなかの探求の「種」を育てるために何か自分にもできることがあるかもしれない!と思っていたタイミングで、新型コロナウイルス感染拡大の影響による、授業全面オンライン化の壁に直面してしまいました。
わたしのように、フィールドワークをベースにした研究調査を行ってきたものにとって、対面での活動が大幅に制限された状態で、学生たちの「やりたいこと」に基づいた研究調査をサポートしていくことは、本当に、困難なことで……、本当に学生たちが追及したいというテーマに寄り添うことができたのか、それを少しでもサポートすることができたのか、と振り返ってみると、「できなかったこと」「やれなかったこと」ばかりが思い浮かんできます。
そんななか迎えた、今日の卒業式。
わたし自身の探求のプロセスをともに走ってきてくれた、多くのことをわたしに学ばせてくれた学生たちから、たくさんの感謝の言葉にあふれた色紙をいただきました。
わたしにとっては、「やったことないこと」にチャレンジするばかりの4年間でしたし、その活動をともにしてくれた学生たちにとっても「知らないこと」「やったことのないこと」は、たくさんあったのではないかと思います。
そして、最後の年には、わたし自身のみならず、誰にとっても「わからない」ことだらけの世界が訪れ、その「未知(いまだ知らない)」どころか「非可知(知ることができない)」とすらいえる状況のなかで、なんとか創造的にその状況を生き抜いていかざるを得ない状況がありました。
誰にも「正解」がわからない、むしろ「正解」なんてどこにもない、非可知な世界のなかで、わたし自身がなんとかここまでやりとげることができたのは、今日、卒業式を迎えた学生たちのおかげだと思っています。
彼らとともに4年間学んできたことの意味は、わたしにとっても、すごく大きい。
でも、卒業は「終わり」であり、「始まり」です。
わたしの研究室の卒業生たちは、4月から、公立小学校で教員として勤務したり、あるいは教職大学院でふたたび新たな探求を始めていきます。
彼らが実践や研究の現場で、新たな研究=実践をはじめるなかで、わたし自身もまたこれまでとは異なるかたちで、彼らと一緒に学んでいけたら――そんなことを思わずにいられません。
文部科学大臣記者会見「令和の日本型学校教育」を担う教師の人材確保・質向上に関する検討本部」について
萩生田文科相は、1月19日の記者会見で、文部科学省内に「「令和の日本型学校教育」を担う教師の人材確保・質向上に関する検討本部」を立ち上げることを表明しました。
この件に関しては、教育新聞が「「教師を再び憧れの職業に」 文科相、検討本部設置を表明」(2021/1/19)と報じるほか、Yahoo!ニュースに前屋毅さん(フリージャーナリスト)の記事「「憧れの職業」になっていないのは教員の責任なのか、萩生田文科相の気になる言い方」(2021/1/20)が掲載される他、それほど話題になっているわけではないようですが、私はこの省内の検討本部立ち上げと、それに対する文科相の説明に、大きな違和感を覚えました。
検討本部の立ち上げに関する違和感というのは、簡単にいえば、「なんで、それ、必要なの?」ということです。
記者会見では、これについて、はじめに次のように説明されています。
最後に、本日、私の下に「『令和の日本型学校教育』を担う教師の人材確保・質向上に関する検討本部」を設置することとしましたのでご報告いたします。
…(中略)…
この点、中央教育審議会においても、「『令和の日本型学校教育』を実現するための、教員養成・採用・研修の在り方」について、今後更に検討していくこととされており、また、教育再生実行会議におけるご議論においても、個別最適な学びを実現するためには教師の指導力の向上も重要であるとのご意見を多くいただいていることから、当面の取組とともに、中長期的な実効性ある方策を文部科学省を挙げて検討していくために、私の下に検討本部を設置することといたしました。
私自身が先頭に立ち、質の高い教師の確保に向けて取組を進めてまいりたいと思います。
ここで言及されているとおり、 すでに、この件についてはすでに、中央教育審議会でも議論が進められているのです*1。
中央教育審議会の「『令和の日本型学校教育』を実現するため…」は、昨年(2020年)10月に中間報告を出しています。
「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(中間まとめ)(令和2年10月 初等中等教育分科会):文部科学省
その中で、教員養成・採用・研修について議論について言及された部分は、以下のとおり(概要PDF, p11)
なお、1/26に答申そのもののまとめも出されましたが、その内容を見ても、中間まとめから、(2)と(3)のレイアウト(概要版に示されているスライドのレイアウト)が変更されたくらいで、内容としては、それほど大きな変更はなさそうでした。
「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)(中教審第228号):文部科学省
さてこれらの中に「(5) 教師の人材確保」として示されている内容の本文にあたると、以下のような記述があります。
● 近年、採用倍率の低下や教師不足の深刻化など,必要な教師の確保に苦慮する例が生じており、教育の仕事に意欲を持つより多くの志望者の確保等が求められている。(本文PDF, p71)
記者会見の中で「この点、中央教育審議会においても、…更に検討していくこととされており」と言われているのは、おそらく、このことを言っているのだろうと思います。
そうだとしたら、これまでどおり、中央教育審議会による議論の経過を見守り、答申を受けて、その政策的実現に努めれば良いのではないでしょうか。
なぜ、わざわざ中間報告が出されて数か月の段階で、その中の1項目について、突然、検討本部を設置することになったのか、がよくわかりません。
おそらく、同じような疑問を持たれたからではないかと思いますが、記者会見の中でも記者から、その検討本部の「具体的な運営方法と検討事項」って何なの?、と質問を受けています。
それに対する回答のなかで「目指すべき出口」として示された内容が、こちら。
最後、目指すべき出口は何かと言ったら、私、常に申し上げているように、教師という職業を再び憧れの職業にしっかりとバージョンアップしてですね、志願者を増やしていくということにしたいと思います。
そのためには、働き方改革や免許制度や、あるいはせっかく少人数やICT教育が始まるのに、今の教職養成課程では、もう誤解を恐れず申し上げれば、昭和の時代からの教職課程をずっとやっているわけじゃないですか。
そうすると、こんなに学校のフェーズが変わるのに、教えている大学のトップの人たちは、まさに昔からの教育論や教育技術のお話をしているわけですから、この辺も含めてちょっと大きく変えていかないと、時代に合った教員養成できないし、
また、その目指す教員の皆さんが、何となく今までは大変な職業だというのが少し世の中に染み付いてしまっていますけれど、やっぱり夢のある、やりがいのある仕事なのだということをしっかり理解してもらえるような、そういう教師像っていうものを求めて検討していきたいなと思っています。
教育新聞では、この冒頭の一文がタイトルで取り上げられていたわけですが、それに便乗するかたちで、突然出てきた「教職養成課程」への非難(?)がなかなかな内容です。「誤解を恐れず申し上げれば」という前置きをしつつ…
「昭和の時代からの教職課程をずっとやっている」
「昔からの教育論や教育技術のお話をしている」
…という批判が述べられます。
なぜ、突然このようなことを言いだしたのか。その根拠が、わたしにはよくわかりません。
さきほどお示しした、中央教育審議会の中間報告でも、「(5)教師の人材確保」は検討事項として挙げられていますが、その中に、教職養成課程の問題を指摘している部分はありません。
ではもうひとつ挙げられている教育再生実行会議の方かもしれない、と思って会議資料を見てみたのですが、最近の会議資料を見てみても、教職養成課程について述べられているのは「教職養成課程における『教育格差』の必修化」(松岡亮二「『教育格差』縮小のための政策提言」)くらいしか少し探したくらいでは見当たらず(探し方が悪いのかもしれませんが…)、ちょっとよくわかりません。
それもそのはずで、教職養成課程に関しては、2016年の教育職員免許法改正と「教職コアカリキュラム」の作成、2017年の教育職員免許法施行規則の改正を受けて、いま、「改革の真っ最中」という感じなのです。
これについては、2018年12月7日に行われた日本教職大学協会の研究大会で、文部科学省総合政策教育局長が発表された際の資料にも、わかりやすくまとめられています(『2019年度日本教職大学院協会年報』, p68)
このようは法改正、政策の実行をおこなっているただ中に、「昭和の時代」から変わっていない、「昔」から変わっていない、という非難の言葉を向ける意味は、いったいなんなのでしょうか。
佐藤郁也(2019)『大学改革の迷走』(ちくま新書)の第2章「PDCAとPdCaのあいだ―和製マネジメント・サイクルの幻想」では、大学改革のなかでよく求められる「PDCA」が実際には、書類としての「P」と「C」の作成ばかりが強調される(=「PdCa」という)ミス・マネジメントサイクルになっていることが批判されています。が、今回の検討本部の立ち上げは、もはや「PdCa」ですらない。
「PdPd」(あるいは「PPPP」?)で、「Plan」の作成ばかりが目的化して、その根拠となるような「C」や「A」がないを合理化するために、「昭和時代」「昔」といったステレオタイプ的な見方が使われているのではないでしょうか。
同書のなかでは、大学改革が「道徳劇」となってしまっており、大学がその「道徳的」というドラマの中の主要キャラクター(=「馬鹿(愚か者)」)として位置付けられていることが、批判的に論じられています。
今回の批判も、大学における教職課程の教員を「馬鹿(愚か者)」役として位置付けることで、「道徳劇」としての教育改革を推し進めようとしているもののように見えます。
このような「道徳劇」を続行させ、一部のうまくいった大学や教員だけを「英雄」として位置付け続けたとしても、教師が「憧れの職業」になることはないでしょう。
教師をふたたび「憧れの職業」にしたいのであれば、誰も「馬鹿(愚か者)」にも「悪漢」にもならない、新たな「劇」を、みんなのパフォーマンスによって創り上げていく必要があるのだと思います。
*(2021/1/28) 1/26に、中央教育審議会答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して」が公開されたことにともない、記事内容を加筆しました。答申については、以下のページをご参照ください。