kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

非可知(unknowable)な世界のサバイバーーともに学んできた4年間を振り返って

今日は、勤務先の大学の卒業式でした。

緊急事態宣言が直前まで続いていたことから、全学行事としての「卒業式」は中止となり、領域単位での「学位授与式」だけが執り行われました。

それでも、やっぱり、今日は「卒業式の日」なんだと思います。

 

今日は、一時、雨が降ったりもしましたが、数日前に一斉に咲いた桜が、かなり久しぶりにキャンパスに来る彼らを出迎えてくれたことが、せめてもの救いでした。

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キャンパス内の桜

実は、今年度送り出す卒業生たちは、わたしが、1年次必修のフィールドワーク授業「教育実地研究」を担当するようになって、はじめての学年の学生たちです。

 

この4年間は、わたし自身が、自分自身の教育・学習論を猛烈に問い直していた期間でもあり、まったく字義通りの意味で、学生たちとの授業の中で自分自身が学ばされてきた、考えを発展させてきた、という実感があります。

 

「教育実地研究」では、インプロパーク・鈴木聡之さん(すぅさん)による、学級づくりを視野においたインプロ(即興劇)のワークショップを経験したあと、当時まだ、効公立小学校で勤務されていた、あおせんさんの教室にみんなで訪問し、みんなで一緒に体育と道徳の授業を観ました。

そのとき、みんなと一緒に観た、プロジェクトアドベンチャーの手法を取り入れた道徳の授業がとても印象的で、そのときに感じたことから自分で考えを深めていった結果が、全国大学国語教育学会でのラウンドテーブルにつながっていったように思います。

そういえば、このブログ記事で使われている写真も、道徳の授業見学後、なぜか突如はじまった、「ヘリウムリング」体験の写真でした!なつかしい!

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 このときの「教育実地研究」受講メンバーの中のなんにんかは、その後、3月末に行われた「ワタリ―ショップ」インプロ×リフレクションにも参加してくれました。


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学生たちが1年生のときに、このように、「いま・ここ」の場で行われている学習に目を向けていく、ということが、わたしの中でもひとつのテーマになっていました。


2年次の必修授業「初等国語科教育法」では、わたしの中で関心がさらに進んで、自分のなかで生じた経験をいかに言葉化していくか、振り返りによって、それを次なる実践へと結びつけていくか、ということがテーマになっていました。

そのため、「対話型模擬授業検討会」の学部レベルでの展開を模索するような試みをしてみたり、
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アクティブ・ラーニング・パターン《教師編》」を用いた模擬授業の振り返りと、そのコメントに対して、ロカルノさんにさらにコメントをしていただく、というような「リレー企画」をやったりしてみました。

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3年次の教育実習とその振り返り、そして、さらにその振り返りにもとづく研究テーマの設定と卒業研究があり…これからいよいよ、学生たちが自分自身で、自分のなかの探求の「種」を育てるために何か自分にもできることがあるかもしれない!と思っていたタイミングで、新型コロナウイルス感染拡大の影響による、授業全面オンライン化の壁に直面してしまいました。

 

わたしのように、フィールドワークをベースにした研究調査を行ってきたものにとって、対面での活動が大幅に制限された状態で、学生たちの「やりたいこと」に基づいた研究調査をサポートしていくことは、本当に、困難なことで……、本当に学生たちが追及したいというテーマに寄り添うことができたのか、それを少しでもサポートすることができたのか、と振り返ってみると、「できなかったこと」「やれなかったこと」ばかりが思い浮かんできます。

 

そんななか迎えた、今日の卒業式。

わたし自身の探求のプロセスをともに走ってきてくれた、多くのことをわたしに学ばせてくれた学生たちから、たくさんの感謝の言葉にあふれた色紙をいただきました。


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わたしにとっては、「やったことないこと」にチャレンジするばかりの4年間でしたし、その活動をともにしてくれた学生たちにとっても「知らないこと」「やったことのないこと」は、たくさんあったのではないかと思います。

そして、最後の年には、わたし自身のみならず、誰にとっても「わからない」ことだらけの世界が訪れ、その「未知(いまだ知らない)」どころか「非可知(知ることができない)」とすらいえる状況のなかで、なんとか創造的にその状況を生き抜いていかざるを得ない状況がありました。

 

誰にも「正解」がわからない、むしろ「正解」なんてどこにもない、非可知な世界のなかで、わたし自身がなんとかここまでやりとげることができたのは、今日、卒業式を迎えた学生たちのおかげだと思っています。

彼らとともに4年間学んできたことの意味は、わたしにとっても、すごく大きい。

 

でも、卒業は「終わり」であり、「始まり」です。

わたしの研究室の卒業生たちは、4月から、公立小学校で教員として勤務したり、あるいは教職大学院でふたたび新たな探求を始めていきます。

彼らが実践や研究の現場で、新たな研究=実践をはじめるなかで、わたし自身もまたこれまでとは異なるかたちで、彼らと一緒に学んでいけたら――そんなことを思わずにいられません。

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キャンパス内の桜

 

コモン(共有地)としての「事実」を考える~「教育言説のファクトチェック:プレ入門」

NPO法人教育のためのコミュニケーションによる読書会イベント「教育言説のファクトチェック:プレ入門編」に参加しました。

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「教育言説のファクトチェック プレ入門編」

EVENT|教育言説のファクトチェック<プレ入門編>

 

岩波ブックレットとして発行されている『ファクトチェックとは何か』(立岩陽一郎・楊井人文, 2018, 岩波書店)を読んできて、それを手がかりにしながら、

「教育言説における「ファクト」とは?」「教育言説をファクトチェックすることには、果たして意味があるのか?」などなど、わたしと山崎さんが見出した論点を中心に、いろいろ議論をしつつ、「教育言説におけるファクトチェックの可能性(と限界)を見出していこう、というイベントでした。

  

「ファクトチェック」には、以前から関心を寄せていたのですが、それが決定的になったのは、自分自身が、ミスリード情報をリツイートしてしまったことでした。 

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 しかも、あとからこの記事の中にも誤情報があることが判明。当時、ファクトチェック・イニシアティブ(以下、FIJ)で、インターンをされていた方がこの記事を読んですぐに連絡をくださり、それをきっかけとした、インターンのかたとのやりとりを通じて、ますます「ファクトチェック」への関心が高まりました。

今でも覚えているのですが、わたしのブログ記事への誤情報の指摘してくださるその文体が、とても真摯で、かつ、ニュートラなものだったのです。

誤情報を指摘するとき、人はどうしても、「マウントをとった」ような語り口になったりがちです。でも、そういうものが、一切なかった。

わたしが記事中の誤情報を、即座に訂正すると、むしろ、丁寧に御礼まで伝えてきてくれました(わたしの見落としで完全に修正しきっていなかったので、再修正が必要だった、という間抜けなオチもあるのですが)。

わたしは、そのインターンの方とのやりとりを通じて、ファクトチェックという活動が「透明性」を大切にしているということ、その仕方を、体感的に理解したように思います。

 

ちょうど同じくらいの時期に、文部科学大臣の記者会見のなかで、 「今の教職養成課程では…昭和の時代からの教職課程をずっとやっているわけじゃないですか」「教えている大学のトップの人たちは、まさに昔からの教育論や教育技術のお話をしているわけですから」という発言がなされました。

そして、このような記者会見の内容が、「文部科学大臣が述べた」ということの「事実確認」だけでマスメディアで報道される様子を目にしてきました。

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 報道する側では、たしかにその内容を文部科学大臣が述べた、という「裏」さえとれれば問題ないのかもしれないけれど、一方で、そこで述べられている内容についての「裏」はとられない。

教育政策の動向をみれば、「昭和の時代からの教職課程をずっとやっている」とは言えないはずなのに、それがあたかも「事実」として出回ってしまう、そしてそれが次なる制作の「根拠」とされてしまう…そんな危機感を感じました。

そのようなことを、NPO法人を設立したばかりの山崎一希さんに相談していたところ、今回の読書会イベントに至った、というわけです。

 

 

昨日の読書会では、『ファクトチェックとは何か』(立岩陽一郎・楊井人文, 2018, 岩波書店)から、山崎さんはじめ、皆さんと議論したい論点として、「『事実』ってなに?」という問いを提示しました。

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昨日の読書会では、「『事実』ってなに?」という問いから、「事実」なるものの社会的構成(!)にまで議論が発展していきました。(突然、「ナラティブ・ターン」の話が出てきたり、社会構成主義の話が出てきたりして、聞き手の方には不親切なトークであったと反省しております)「事実」というものが、本質的に存在せず、それが社会的に構成されたものである、と指摘することは、けして、「事実」なるものを見なくてもよい、「事実」を等閑視してよいということとイコールではありません。むしろ「事実」を構築し、維持し、変化させていくような、わたしたちの日々の「事実」をめぐる実践をつぶさに観察し、それともに、わたしたちが幸せに生きることのできる社会・文化を生み出しうるような「事実」構築実践について、考えていくことが必要なのではないか。――昨日のディスカッションの至った地点は、このようにまとめられるのではないか、と思います。

 

 

昨日のトークイベント中、「教育言説のファクトチェック」について考えるための書籍として、佐藤郁也(2019)『大学改革の迷走』松岡亮二(2019)『教育格差』、小松光・ジェミールラプリー(2021)『日本の教育はダメじゃない:国際比較データで問い直す』(すべて、ちくま新書筑摩書房)が話題にあげられました。

 

また、「ファクトチェック」についてもっと学ぶためのおすすめ書籍として、FIJの元インターン生の方からは、立岩陽一郎(2021)『コロナ時代を生きるためのファクトチェック』(講談社)を挙げていただきました。山崎さんからは、ディビット・パトリカラコス(2019)『140字の戦争:SNSが戦場を変えた』(早川書房)をおすすめいただきました。今回の読書会で読んだ『ファクトチェックとは何か』を含む、FIJ・立岩陽一郎さんの書籍リストも作成してみました。よろしければご覧ください。

booklog.jp

こういうブックリストも、もっと作っていっていきつつ、また読書会などを継続していけると面白いのかな、と思います。最後に、昨日のトークイベントでは紹介できなかったけれど、わたし自身が昨日の議論を踏まえて、さらにこのような議論を深めていくために、皆さんと読んで語り合えたら面白いのではないか、と思う本を紹介しておきます。

 

1冊目は、筒井淳也(2020)『社会を知るためには』(ちくまプリマ―新書、筑摩書房)。書影の帯を見るとわかりますが、先行きが見えない世界のなかで「わからない」社会との向き合い方について、社会学の視点から論じた本です。

社会学のなかでの「知る」という行為を相対的に見ることのできる本で、社会入門としても、社会学入門としてもおすすめです。

 

 

2冊目は、佐倉統(2020)『科学とはなにか:新しい科学論、いま必要な三つの視点』(講談社ブルーバックス、講談社)。こちらは科学論です。1冊目と重ねていえば、科学の「正しさ」について批判的に議論しながら、科学至上主義にも陥らず、科学不要論にも陥らない、第三の道を探ろうとしている本です。

 

 

昨年、コロナ禍のなかで、この2冊が生み出されたことは、偶然ではないような気がしています。

ふたたび、この議論を発展できる機会があることを、願っています。

山崎さん、今回ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。

行動主義的児童虐待と子どものレジリエンスー『立派なこどもの育て方(Birthmarked

Netflixで公開されているインディー映画『立派なこどもの育て方(Birthmarked)』(2018年、カナダ映画、エマニュエル・ホス=デマレ監督)を観た*1


Birthmarked Trailer #1 (2018) | Movieclips Indie

この映画、とあるサイトのレビューで、「科学的児童虐待の「コメディ」(scientific child abuse "comedy"」と形容されていて、まあ、なかなかに評判が悪い。ロッテントマトの評価をみると、オーディエンス評価は、まぁそこそこ?くらいなのに、批評家による支持率は11%(18名中2名が「Fresh」評価、16名が「Rotten」)である
たぶん、「(科学的)児童虐待」がコメディとして扱われていて、しかも最後がちょっとほんわかハッピーエンドだというのが悪評の原因なのかなぁ…という感じ。

www.original-cin.ca

 

「科学的児童虐待(scientific child abuse)」とは、なんのことか?

それは、この映画で行われている、心理学者(おそらく、行動主義心理学者)夫妻による、3人の子どもたち(1人は自分たちの子どもで、他の2人は養子)を対象とした養育実験のことである。

この映画の舞台は、1977年。心理学・教育学における「遺伝か、環境か(氏か育ちか)」論争において、遺伝説が圧倒的に優位を占めるなか、環境説をとる2人の研究者夫妻が、ワトソンの名言――「私に1ダースの健康でよく管理された子どもを与え、自分に環境を自由に支配することを許してくれるなら、子どもを医師にでも弁護士だろうと、泥棒にでも望むものに育ててみせる」――よろしく、子ども3人を「望むものに育ててみせよう」とする映画である。

(実際に、映画中に、ワトソンによるアルバート坊やの恐怖条件付け実験の映像が引用される。)


Baby Albert Experiments [with CC]

冒頭に示した予告編にもあるとおり、彼らは、自分たちの子ども(ルーク)をアーティストに、短気で怒りっぽい親の子ども(モーリス)を、平和主義者に、馬鹿な(idiot)親の子どもを知能の高い子に育てようとする。

…のだが、まあ、いくら実験的に統制したところで、そんなにうまくいくはずはなく、いろいろおかしなハプニングが起こっていく、という「ファミリーコメディ」のストーリが展開する。

 

おそらく、そのような「ファミリーコメディ」のようなまとめかたが不評を買っているのだが、個人的には、コメディという仕掛けによって、子どもの発達におけるレジリエンスのようなものを描き出している気がして、むしろ興味深かった。

人里離れた一軒家で、研究者夫妻と3人の子ども、そして研究アシスタント(兼ベビーシッター?)の6人だけで、他のコミュニティと断絶した状況で十数年も暮らしているにもかかわらず、途中で母親からの依頼で様子を見にきた児童精神科医に「こんな状況のなかで育ったのに、ソーシャルスキル的にはまったく問題がない」と判断されたり、何らかのフラストレーションや感情の大きな動きを感じたときには表現行為でそれを昇華するように統制されてきたルークがエロ本ベースの脚本を書いてほかの2人の子どもと上演をして両親を困惑させたり…、なんというか、けっこう「そんなものなんじゃない?」と思える演出が多かった。

 

教育の場にいると、こちらがどんなに精緻に考えて、必死に何かをさせようとさせたところで、案外、子どもたちに拾われているのは別のところだったりして、ため息をついたり、逆に予想外の展開に驚かされたりすることって、けっこうある。

それはたぶん、この映画で扱われているような、実験的統制状況でも同じで、どんなにパーフェクトに、実験プロトコルのとおりに働きかけることができたとしても、子どもに掬い取られる世界はまったく違っていて、それはまったく違った学習を生む。

映画では、知能を育もうとして行われた実験プロトコルのなかで、『アルジャーノンに花束を』的なネズミ実験(ちょっと違うかもしれない)を受けた子どもが、のちに、大学中退して動物愛護運動をはじめたり、

平和主義者として育てられるためにガンジーの教えを教授され、感情的に大きな動きがあった場合には瞑想するようにしつけられているモーリスが、フェンシングのレフェリーになることを望んだり、

たしかに、この実験による子どもへの働きかけは、何かの影響を及ぼしているらしいのだけど、それはなんだか、子どもの側のフィルターを通して、なんだか少しだけ違うものに変換されている。

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恵比寿映像祭2020参加作品より

松嶋秀明先生の『少年の「問題」/「問題」の少年』(松嶋, 2019, 新曜社)の第1章では、「レジリエンス」について議論した節(「第2節 非行少年のレジリエンスを育てよう」)があり、わたしはそれを読んではじめて、「カウアイ研究」(「リスクの物語」を検証するために行われたとされる、ハワイ州カウアイ島を舞台とした研究)のことを知った。

1995年にいくつかのリスク要因をかかえて生まれた700人の赤ん坊を40以上にわたって追跡した結果、ハイリスクであっても3分の1は、10代になったときに非行に走ったり、若年妊娠といった不適応に陥ることはありませんでした。さらに彼(女)らが30代をむかえる頃の調査では、全体の3分の2がレジリエンスを発揮していることがわかりました。この数値を多いとみるか少ないとみるかは人それぞれかもしれませんが、いずれにせよ、レジリエンスはそれほど特異なことではないことを示しています。(松嶋, 2019, p14) 

 

わたしが、この「科学主義的児童虐待」のファミリーコメディを「コメディ」として見られるのは、おそらく、ここで描き出されているような、子どもたちのレジリエンスを信じているからではないか、と思う。

もちろん、この映画で描かれているような心理学実験は倫理的な違反があるし、行われるべきではない。「科学的児童虐待」と非難されるべきものであることには、同意する。

しかし、その顛末を「ファミリーコメディ」として描いたことの意図は、子どもたちの側の「思い通りにいかない」力強さを描きだすことにあったのではないか、と思う。

*1:インディー映画ゆえ(?)日本での映画公開はなく、Netflixによって日本での鑑賞が可能になった作品。Netflixの登場によって、こういうことが当たり前に起こるようになったことは、本当にすごいと思う

身体と感情でジェンダーを問う―ダレデモデラルテvol.2「ザ・ベクデルテスト」

即興劇場「ダレデモデラルテ」による公演・第2弾として行われた「ザ・ベクデルテスト」の公演(午前の部)を鑑賞しました。

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ダレデモデラルテvol.2 ザ・ベクデルテスト

◆即興劇場ダレデモデラルテ vol. 2 「ザ・ベクデルテスト」 ご観覧ありがとうございました‼︎ 午前・午後あわせて4つのドラマ。 4人の女性とそれを取り巻く世界。 敬愛する仲間と演じることができて、 皆さまに観ていただけて幸せでした♪ 終演後には嬉しいご感想がたくさん! 喜びと感謝の想いが絶えません。 次回は4月24日(土)開催♪♪♪

井谷信彦さんの投稿 2021年3月19日金曜日

 

「ザ・ベクデルテスト」については、以前、「ワークショップフェス2018」の一環として開催されていた「『ザ・ベクデルテスト』入門」を体験させていただいたことがありました。

映画界で話題になっていた「ベクデルテスト」については、TEDでの、コリン・ストークスのトーク「映画が男の子に教えること」で知っている人もいるかもしれません。

www.ted.com

わたしも、なにかの記事で「ベクデルテスト」という語そのものは聞いたことがあり、そんな知識をもって、ディズニーの『シュガー・ラッシュ:オンライン』を観にいったりして「うほほーい」とか思っていたりした経験があります(映画を観にいったのは、ワークショップを受けたあとですが)。

何言っているかわからないかたは、こちらをご覧ください。


シンデレラらディズニープリンセスの豪華共演シーン公開! 映画「シュガー・ラッシュ:オンライン」特別映像

 

「ワークショップフェス2018」では、「ザ・ベクデル・テスト」について、次のような説明がありました。

2016年BATSで初演されたThe Bechdel Testを紹介します。主人公は3人の名前がある女性です。主人公は3人の名前がある女性です。ワークショップの説明のなかに「…物語は「女が男の話をする」以外にもある、普通の生活の中での複雑さ、豊かさ、関係性等を描きます。ザ・ベクデルテストは女性の物語を女性自身で探究し表現していけるフォ―マットです。(直井玲子「『ザ・ベクデルテスト』入門』」-パフォーマンスラーニング研究会ブログ記事より

 

正直なところ、わたしはこの説明をはじめて見たときに、すごい違和感を覚えました。

映画界で取り組まれているダイバーシティに向けた取り組みとしての「ベクデルテスト」については、なんとなくその意図はわかるけれども、それをインプロ(即興演劇)のフォーマットにしたときに、あえて、「男」「女」という性別二分法に基づく必要があるのだろうか、と思ったのです。むしろ、そういう二分法的なジェンダーの捉え方を崩していくことこそ、重要なのではないか、と。

 

そういう疑問をいろいろなところでお話ししていたところ、けして、このような疑問を抱いているのがわたしだけではないこともわかってきました。

そんななか、即興劇場ダレデモデラルテの公演で、「ザ・ベクデルテスト」の公演にトライされると聞き、「これは!」と思って鑑賞したのでした。

 

今回はじめて、「ザ・ベクデルテスト」の公演そのものを鑑賞してみて、あらためて、感じたのは、プロのアクター(パフォーマー)が演じることの意味でした。

たしかに、ジェンダー二分法にもとづくフォーマットであるのだけれども、ジェンダー二分法に基づくフォーマットのなかで、「女性」というアイデンティティをとりあげて、それをプロの身体でパフォーマンスしていくことによって、そこにある何かが覆されたり、新たな可能性が模索されていくことのの可能性を感じました。

そこにあるのは、あくまで、実験の俎上にのせられるための「女性」というカテゴリーであり、実際に、インプロ(即興劇)のパフォーマンスのなかで問われていくのは、それそのものではない

 

そう考えてみると、「ザ・ベクデルテスト」は、ジェンダー二分法や「女性」というカテゴリーについて、生身のアクター(パフォーマー)の身体や感情のすべてを使って実験を行っていく場、といえるのかもしれません。

「プロのアクター(パフォーマー)の身体・感情によって、ジェンダーについての問題を身体的・感情的に考えるための実験場」であり、「実験を通して、ジェンダーに対する新たなパフォーマンスを創り上げていく場」。

そんなキーワードが自分のなかに、浮かび上がってきました。

 

そして、そういう「ザ・ベクデルテスト」の公演を実現していた、即興劇場「ダレデモデラルテ」というコミュニティのデザインそのものも、興味深いものでした。

これまで、インプロ(即興演劇)の公演を鑑賞しにいくことも、インプロ(即興演劇)のワークショップを体験することもありましたが、「ダレデモデラルテ」の公演は、そのちょうど「中間」にある場だという感じがしました。

ダレデモデラルテが、固定のホストメンバー(4名)にゲストを迎える、というかたちで、公演を行っていることが、そのような「中間」にある「稽古場」的な感覚を生み出しているのかもしれません。

継続したコミュニティだからこそ醸成されている関係性と、初めての人たちが入ることで何かが起きる、という創発的な学びの場としての要素――それらが、がよいバランスで混ざり合っているように思いました。

第1回目の公演の様子については、ダイジェスト映像が視聴できるようですので、ぜひご関心のあるかたは、下記の映像を見ていただき、その「中間」的な感じのいったんを感じていただければと思います。

冒頭に引用した投稿でも紹介されているように、次回の公演は、4月24日(日)午前とのこと。楽しみです!

子どもの「お仕事」―映画『モンテッソーリ 子どもの家』

フランス最古のモンテッソーリ学校に通う子どもたちを、2年3カ月にわたって観察・記録し続けた、教育ドキュメンタリー映画モンテッソーリ 子どもの家』を観にいきました。

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モンテッソーリ 子どもの家』

わたしは、映画を鑑賞後に、公式ホームページを見たので、幸いなことに、そこに掲載されている宣伝文句を(鑑賞前に)目にせずに済みました。が、これをはじめに見ていたら、映画館に行くのを躊躇したかもしれない、少なくとも、映画の見方には影響したかもしれない…と思いました。

そう考えてみると、映画のレビューサイトに「モンテッソーリ教育の宣伝映画だ!」みたいな批判を書く人の気持ちもわからなくもないな…と思います。

日本における映画の宣伝の仕方のひどさについては、『バードマン』のときも、『パラサイト』のときも話題になり、それをネタにした記事も目にするようになりましたが、いったいなんなんでしょうね。

今回に関していうと、ドキュメンタリー映画そのものの魅力を、そのまま受け取れなくなってしまう、という意味で、罪すらあると思いました。

…というわけで、この記事をご覧くださっている方は、ぜひ(予告映像の方ではなく)こちらをご覧いただいて、以下の記事を読んでいただきたいと思います。(最後に、予告編の動画もそのままくっついているのですが、予告編だけ視聴するよりはずっと良いと思います)


映画『モンテッソーリ 子どもの家』本編映像

ドキュメンタリー映画のいくつかのシーンを、かなりシンプルに、ぶつ切りでつなぎあわせたような本編映像ですが、これを視聴していただくだけでも、「教育ドキュメンタリー」の映像として、とても学ばせられるところがあります。

映像を撮影する監督の視点を追いながら、そこに共感や違和感を覚えることによって、教育現象を観察したり、それを記録に残すことについて、自分が今まで何を大切にしてきたのか、を振りかえる機会にもなり、そのような意味で、「もう一度、見たい」と思わせる映画でした。

 

この映画について、3月13日には、岩岩さや子さん主催で「語り合う会」が開催されました。

そのときに話題になったことのひとつが、上記、本編映像の冒頭にもテロップで登場する「お仕事」という言葉。

この映画のなかでも何度も「お仕事」という言葉が登場するのですが、モンテッソーリ学校に通う子どもたちが、自分の行っている作業を「お仕事」と呼ぶのはもちろんのこと、先生たちも(!)自分自身の仕事(子どもへに教具の使いかたを示したり、相談にのったりしていることなど)も「お仕事」と呼んでいたので、素朴に、「この『お仕事』というのはどういう言葉なんだろう?」という疑問がわいてきました。

 

この言葉、定義があるようでどうもそうではないような気がする。

映画を視聴していると、「お仕事」という言葉は、実践をスムーズに組織するうえでなくてはならない言葉だけれども、「お仕事」を定義せよ、と言われるとなんとも難しそうです。もしかしたら、不可能である、とすらいえるのかもしれません。

まさに、モンテッソーリ教育という言語ゲームのなかにあるツール(としての言葉)、という感じがします。

 

「語る会」では、渡辺貴裕先生(東京学芸大学)から、デューイ・スクールにおける「仕事(occupation)」概念に関する論考*1をご紹介いただき、「『仕事』というのが新教育において共通する、一種の流行りだったのでは?」というような話も出たりしました。

また、その後、個人的にリサーチをするなかで、モンテッソーリ学校の先生たちが、子どもたちに「Buon Lavono!(ブォン・ラヴォーノ)」(直訳すると「良い仕事を!」で、イタリア語としての使われ方としては「お疲れさま!このあとも仕事頑張って!」みたいなニュアンスらしい)と言っているという投稿記事を見たり、モンテッソーリガンジーに共有された視点として「作業(Lavono)」への視座がある、というような論考*2を読んだりして、どうも、この「お仕事」は「Lavono」で、デューイ・スクールの「Occupation」とは違うらしい…?というところまでたどり着いたりもしました。

…が、やっぱり、フィールドワーカーとしてこの映画を見るかぎり、この「お仕事」は、子どもたち同士の、また子どもと大人がかかわるときの実践に埋め込まれた言葉、そしてその実践を編み出し、新たなかたちで組織化していく言葉と見たほうが、良いような気がしています。

「語る会」のなかでは、わたしが個人的に抱いていた、「(映画中にみられるような)高度に設えられた教具がないような環境において、モンテッソーリ教育は成り立つのか?(モンテッソーリは「ここでも教育はできる」というのか否か)」という問いに対して、その場に参加していた複数の方々から、「教具がなくても、モンテッソーリの哲学・思想があれば、そこにあるもので、素材を工夫して、モンテッソーリ教育は行うことができる」「少なくとも、モンテッソーリは、その状況において(状況が完全に『無』であることはありえない)なにかを教具と見立て、あるいは教育可能性を見出し、そこから教育を始めるだろう」と。

 

そうであるとしたら、まさにそういう状況のなかで、何か「見立て」たものを、教育的実践を編み出すためのツールとして、「お仕事」という言葉が位置付けられるのではないか、と考えました。

 

あらためて、教育・学習という実践に埋めこまれ、それを成り立たせる言葉、について考えさせられた時間でした。

 

 

 

「老い」をめぐる悲劇的なナラティブと出会いなおす―『インプロがひらく〈老い〉の創造性』

高齢者パフォーマンス集団「くるる即興劇団」を主宰されている園部友里恵さんより、「くるる即興劇団」のアクションリサーチ本『インプロがひらく〈老い〉の創造性』(新曜社)をご恵投いただきました。

 

「くるる即興劇団」という名前を知って、すぐに興味を持った背景には、わたし自身の「老い」や「(中途)障害」に対する接しかたの特殊さ(?)みたいなものが起因していたように思います。

注文を間違える料理店」について知ったときも、そうだったのですが、「ああ!わたしが感じていたことを、一緒に楽しんで話してくれる人が、家族以外にもいたんだ!」という感じ。なんだか、ホッとするような、うれしいような……肩に乗っていた大きな荷物がフワーッと降りていく感覚がありました。

 

というのも、わたしが高校生のときに母が脳梗塞で倒れて、半身麻痺+失語症になり、それから言語のリハビリーテーションに付き添いにいったり、「失語症友の会」などの集まりに行ったりして、さまざまな失語症の方や認知症の方にお会いするなかで、その個性豊かな現れに、毎回、新鮮な驚きを感じるばかりだったのです。

母がとてつもなくポジティブで、半身麻痺になろうが失語症になろうが、私以上にアウトゴーイングな人間だった、というのも大きいのだと思います。

ようやく、まったく話せない状態から少しコミュニケーションができるようになった、ということで、看護師の方が母に「この人(私を指して)は、誰ですか?」と聞いたときに「魏志倭人伝」と答えたことは、わたしにとって、一生もののエピソードになりましたし、その後も、母が、話したり書いたりするときに起こすミステイクが、毎回、興味深くて、大学で受講していた言語心理学言語障害論とあわせて面白くてたまらない!という感じだったのです。

 

一方、そんな「面白い」「興味深い」というワクワク感は共有されることもないまま時は過ぎ、そんななか2年前に、Eastside Institute のImmersion Programを受講しにいく直前、Eastside Instituteに関わるメンバーが行っている「Joy of Dementia」というワークショップの記事(ワシントンポストの記事)を紹介され、「ああ、これだ!」と思いました。

www.washingtonpost.com

 

ニューヨークでのImmersion Programの最終日には、プログラムに参加しているメンバーたちと、私たち自身の「認知症」とのかかわりや経験、イメージについて対話しあう機会を得ることもでき、そのなかで、あらためて、日本・米国というローカリティを超えて、老いや認知症に対する「悲劇的なナラティブ(tragetic narrative)」が人々の基底に流れているか、ということを実感しました。

本書の「はじめに」で紹介されている、園部先生と「じーちゃん」「じいちゃん」との関わりをめぐるエピソードは、それだけでも、私にとってはとても読む価値のあるもので、それこそ、フワッと肩の荷が下りていく感じがしました。

もちろん、第5章で葛藤しながら、園部先生は、逡巡しながら、老いや認知症の「悲劇的なナラティブ」やそれを前提としたポジティブな語り(「ボケないようにしなくちゃ」)に向き合われていることについて、語られており、実態はそんなにイージーなものではありません。

きっと、園部先生ご自身が、高齢者の皆さんが「悲劇的なナラティブ」を語られれるのを目のあたりにして悩まれたり、落ち込まれたりすることもあるのだろう、と思います。

それでも、このようなかたちで、老いや認知症をめぐる「悲劇的なナラティブ」を相対化しうるような物語が生まれ、世に出されたことは、本当に素敵なこと。

ぜひここから、私たちの、老いや認知症をめぐる物語を語り直していければ、と思わせてくれる本でした。

「ほっといてください」の感情共有装置―宇佐美りん『推し、燃ゆ』

ようやく、宇佐美りん『推し、燃ゆ』を読んだ。

芥川賞受賞作であり、かつ本屋大賞にもノミネートされていることもあり、とにも書くにも評判は高いのだが、本の「あらすじ」を見ようとしても、ほとんど、帯コピー(「推しが炎上した。ファンを殴ったらしい。」)と同内容の分しか見ることができない。

さらにいえば、帯の裏面に記載されているコメントも、なんだか、てんでバラバラで、とにかく「推しが、燃えた」=「推し、燃ゆ」=タイトルしかわからないところが、まず、面白い。

 

一読後、なによりもまずはじめに思い出したのは、岩井俊二監督映画『リリイ・シュシュのすべて』。
この240秒版TVSpotの最後に流れる、ブラック画面上のメッセージー《僕にとって》《リリイだけが、》《リアル。》――は、『推し、燃ゆ』の基底に流れているものと、とても似通っている。


映画『リリイ・シュシュのすべて』TVspot 240秒

 

しかし、『リリイ・シュシュのすべて』において、世界が、中心的な視点人物のみならず、その周囲の《14歳》たちすべてにとって「灰色(グレー)」であったのに対し、『推し、燃ゆ』では、もっぱら、語り手の視点のみに靄がかかり、そこから見える視界だけがぼやけている。

 

語り手自身がもっている特殊なレンズによって、ある時はクリアに見え、かと思ったら突然靄に覆われてまったく視界不良になったりそんな世界の「見え」を、驚くべきほど正確に記述している、という点が、この作品があれほどまでに絶賛される所以なのだと思う。

もっとも単純な例をあげれば、悪天候のなか、母親の運転する車の後部席に乗って、海岸沿いの道を走るシーンがある。

 

 目をひらく。雨が空と海の境目を灰色に煙り立たせていた。海辺にへばりつくように建てられた家々を暗い雲が閉じ込めている。推しの世界に触れると見えるものも変わる。あたしは窓に映るあたしの、暗いあたたかそうな口のなかにかわいた舌がいるのを見て音もなく歌詞を口ずさむ。こうすると耳から流れる推しの声があたしの唇から漏れでているような気分になる。あたしの声に推しの声が重なる、あたしの眼に推しの眼が重なる。

 母がハンドルを切る。ワイパーの範囲から外れた雨が窓を垂れていき、タッターッ、タッターッ、と規則的な音とともにぬぐわれた窓ガラスがまた曇る。並んだ木は輪郭を失い、鮮やかすぎる緑色だけが目に残る。

(宇佐美りん『推し、燃ゆ』、pp.31-32)

 

車で移動しているのだから、そもそも映る景色は変わっている。悪天候時によくあるように、その薄暗さも移り変わっているのかもしれない。

そんなことを考えてしまうくらい「目をひらく」の直後の文に感じた明るさや温度感が、次の段落の最後には失われている。窓ガラスは、また曇っているのに、それでも、読者のイメージする視界いには、鮮やかな緑色が残る。その世界は、薄暗い世界のなかでも、美しくクリアーだ。

 

瞬間瞬間で変わっていく、焦点のぼやけかた、視界の明暗を、このくらいの正確さで描出しながら、悪い方向に向かっていくけれどもなんだか靄がかかったようにぼやけていてよく見えない世界と、推しの光のなかで何もかもがクリアーに見通せる世界とが対比的に描きだされる。

 

そしてそれによって、描き出されるのは、第三者的な記述のなかでは、「ほっておいてください」*1という言葉で象徴的に表現されてきた、ファンたちの世界だ。

宇佐美りんさんは、『好書好日』のインタビューで「一方通行だから、いい」という推しの感情のありようが、あまりにも理解されないままでいることが、本書を書く原動力になったと語っている。

宇佐見りんさん「推し、燃ゆ」インタビュー アイドル推しのリアル、文学で伝えたかった|好書好日

 

「ほっといてください」という言葉で象徴されるような、一方通行的な愛情。

一方向的で、自分の側を見返されることがないという安心感のなかでこそ得られる心理的な癒しや支え。

それは、一方で、自分自身の暴力性に対する無自覚さとして批判されるべき対象ではあるが、その一方で、それがなければ生きていけない、というほどの切実さをもって、一方向の愛情を必要とする人々がいることも事実なのだ。

 

カズオ・イシグロが述べるように、小説家の役割が「感情(emotion)を物語に乗せて運ぶこと」なのであるとしたら、『推し、燃ゆ』は、「ほっといてください」としか言えないがゆえに批判・非難されてきたファンたちの感情を、物語に乗せて、社会に共有しようとする企てなのだろう。

「時空を超えて伝わる『感情』を描き出す」作家、カズオ・イシグロの野心 | WIRED.jp