kimilab journal

Literacy, Culture and contemporary learning

言葉と読書と教育と:おすすめブログ紹介

今週のお題「おすすめブログ紹介」。

…ということなので、この機会に、自分がチェックしている、はてなブログのなかで、国語教育や読書教育に関心のある人たちにもぜひチェックしてもらいたいものをご紹介しておこうと思います。

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施設で育つ子どもたちのライフストーリー

 先日、フレンドホーム(週末里親・季節里親)に登録したことをご報告しました。

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新型コロナウイルス感染拡大の影響で、初回活動日が延期になったりしていたのですが、8月下旬、ついに、初回の活動を行うことができました。初回は、ショッピングモールでうろうろウィンドウショッピング的なことをしてきました。

まだ、顔合わせのミーティングと初回の活動しかしていないのですが、そのなかで出会ったり、知ったりする出来事ひとつひとつが新鮮で、とても興味を惹かれます。

「もっと知りたい」と思い、つい、いろいろ調べてしまっているなかで、わたしがお世話になっている施設のポリシーのひとつに、❝子どもたちひとりひとりの「ライフヒストリー」を大切にする❞という趣旨の内容が記載されていました。

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「教育広報講座:哲学編~教育・学習と広報の関係を哲学する」に参加してきました

特定非営利活動法人教育のためのコミュニケーションによる「教育広報講座~哲学編:教育・学習と広報の関係を哲学する」に参加してきました。
当日の様子については、「入門編」「実践編」「哲学編」あわせて、下記のページにレポートが記載されていますので、そちらをご参照ください。

comforedu.org

 

NPO法人教育のためのコミュニケーションには、以前、「教育言説としてのファクトチェック:プレ入門編」にゲストとして(?)お呼びいただいたことがあります。

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もともと、エスノグラフィックな手法を用いる研究者として、教育・学習のフィールドで起きていることをいかに記録するのか、いかに伝えるのか、ということに関心があったこともあり、NPO法人教育のためのコミュニケーションは、とても気になる存在なのです。

今回の「教育広報講座」では、代表理事山崎一希さんご自身が、現在、茨城大学の広報担当として行っている仕事と、そこで考えてきたことの紹介を中心に、集まった人たちと「教育・学習と広報の関係を哲学する」ということだったので、「これは、行かねばなるまい!」と思い、参加してきました。

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トガルための100作品:フィクショナルな言語世界と感情のリアリティ~滅びゆく言語のロールプレイング・ゲーム『ダイアレクト(Dialect)』

先月、2022年7月16日に開催された、言語文化教育研究学会(ALCE)第87回例会「トガルためのビブリオバトル」の主催者の方からお声がけいただき、バトラーとして参加することになりました。



昨年8月から、言語文化教育研究学会(ALCE)のオンラインマガジン『トガル』の読者の皆さんの心に残った「トガル」作品を、広く集めて、トガルための100作品として紹介する、というアンケート企画が実施されているようなのですが、その関連企画として、実際におすすめの作品をビブリオバトル形式で聞きあおう!という企画であったようです。

「トガルための100作品」

トガルための100作品 | Togaru

イベント開催時には、いわゆる「チャンプ作品」だけが『トガル』への記事の執筆&掲載権を得る(?)と聞いていたと思うのですが、その後(経緯はよくわからないのですが)、バトラーとして参加した全員に、記事執筆&掲載権を与えてくださる方針になったそうで、ほとんどどなたからも「票」が得られなかったわたしも、記事を書くことに。

 

今回わたしが、「『トガル』ためのビブリオバトル」でご紹介したのは、以前このブログの記事でもレポートしたことのある、言語学TRPG「ダイアレクト(Dialect)です。

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この記事のもととなるプレイのときには、わたしはプレイヤーではなく、オブザーバーとして参加していたので、当日の楽し気な様子だけをレポートしました。

一方で、私自身がはじめにプレイしたときに感じた、ひりひりとしたなんともいえない寂寥感や、「自分が何かやらなければ」と切羽詰まった感じについては、まったくレポートできなかったので、これを機に、それについて伝えてみよう、と思いました。

そしたら、やっぱりまったく伝わらなかったんですけどね!……でも、こういう機会をいただき、自分のなかで起きた心のざわめきを、言葉にする機会をいただけたことは、本当によかった、と思いました。

 

当日まったく伝わらなかった内容なので、文字にしたところで、果たして誰かの心に届くのかどうかはわからないのですが、事務局の方から、ブログに転載してもよいという許可をいただきましたので、以下、『トガル』内「トガルための100作品」に掲載された記事を、転載いたします。

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学習マンガの読み比べ@マンガピット~伝記マンガ編

2022年3月末にオープンした、マンガ×学びの拠点「マンガピット」
以前、こちらのブログ記事でも、このときの訪問レポートをアップしておりますが、このたび、教職大学院の授業の一環として、「マンガピット」での出張講義を行ってきました。
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教職大学院の授業は、基本的に、1回あたり2コマ(90分×2コマ=180分(3時間))。そのため、15:00集合・18:00解散の予定でスケジュールを組みました。
具体的なスケジュールはこんな感じです。

マンガピットでの授業スケジュール

はじめに、集まった人たちで「わたしとマンガ」というテーマで自己紹介をしあったあと、その話の流れで、「学び×マンガといえば?」というテーマで自由にいろいろ話しあいをしました。
このフリーディスカッションでは、かなりいろいろな話題が出ました。

「学び×マンガといえば?」

国語科の授業において読解対象の理解を促すための副教材として用いられるマンガ(例:「源氏物語」を理解するための副教材としての大和和紀あさきゆめみし』)や、マンガによって誰かから離される「話」をよく理解できるようになったといったエピソードのみならず、「LLマンガ」の話、『マンガノミカタ』で紹介されているようなマンガ表現の読み方についての話まで出てきました。
mediag.bunka.go.jp

その後、「これも学習マンガだ!」のプロジェクトや、「マンガピット」の蔵書内容についてご案内いただいたのち、本日のメインの学習活動として考えていた「学習マンガの読み比べ」を行いました。

上に示したスケジュールでは「演習1」「演習2」と2つ用意していたのですが、今回は、「演習1:ノンフィクション・知識に関する本としての『マンガ』」のみを行うことにしました。
そのなかでも、今回取り組んでみたのは、「伝記マンガ」の比較です。

「マンガピット」の蔵書には、いくつかの特徴があり、それを言い尽くすことは難しいのですが、「伝記マンガ」に関しては次のような2つの大きな特徴があるといえます。

(1) 複数社が発行する学習まんがシリーズを揃えていること。
(2) 「ストーリーマンガ」として発行されている「伝記マンガ」も所蔵されていること。

そのためスティーブ・ジョブズ」に関しては、なんと4作品の比較が可能(!)です。

今回は、時間が限られていることもあり、そんなにたくさんの比較をすることはあきらめて、2社くらいで比較ができそうな歴史上の登場人物をとりあげて、比べ読みをしてみることにしました。

その結果、今回見てみることになったのは、ジャンヌ・ダルク(2作品)」「宮沢賢治(2作品)」「ヘレン・ケラー(4作品)」、「紫式部(2作品)」の4人。

わたしは、「紫式部」をとりあげ、『清少納言紫式部小学館版 学習まんが人物館)]』(小学館)と『紫式部: はなやかな王朝絵巻『源氏物語』の作者 (学研まんがNEW日本の伝記)]』(学研)を比較してみることにしました。
…が、比較してみると、かなりキャラクター性が違っていて「これ、同じ人物か?」と言いたくなります。

比較して読みながら、「この違いは、監修している研究者の違いによるものかなぁ…?」とぼんやり考えていたのですが、最後に共有した結果わかったのは、同じ監修者によって監修されていた「ジャンヌ・ダルク」であっても、2作品のキャラクターは(真反対ともいえるほど)違っていたということ。
たしかにジャンヌ・ダルクであれば、どんなキャラクターの描かれ方であっても、「それこそが、正解!」とはならないとは思うのですが、通常、学校図書館や公立図書館に設置されている学習マンガは1社分で、そのシリーズのその作品だけでその人物に出会うことを考えると、どの「伝記マンガ」と出会うかで、その人物に対する印象がかなり違ってしまいそうだな…という印象を受けました。

そう考えてみると、「どの学習マンガを図書館に採用するか」を考えるべき立場にいる人たちが、一度、このようなかたちで、複数のシリーズの学習マンガを比較読みしながら、各作品やシリーズの特徴について、あれこれ言い合ったり、自分なりの見方をもっておくことは大切なことであるように思います。

今回は、「学習マンガの読み比べ」企画の第1弾として、自分が興味ある「伝記マンガ」をとりあげてその比較を行ってみました。
…が、「伝記マンガ」ひとつとってもまだまだ切り口はありそうですし、「学習マンガ」に広げてみてもやれることはたくさんありそうなので、教職大学院の授業のみならず、いくつかの機会をつかまえて、「学習マンガ比較」をいろいろな人たちと、継続的にやってみたいと思います。

評論文や説明文にかかわるマンガ比較もやってみたい企画のひとつなので、ぜひ関心のあるかたは、お声がけください。

フレンドホーム(週末里親・季節里親)と社会的養護

フレンドホーム」に登録し、ついに来月あたりから、少しなにか活動できそうかな?という段階まできました。

こども未来横浜のページでは「フレンドホーム」について「児童養護施設で生活している、親や親族の面会の少ない子ども達を、 夏休み・お正月などに迎え入れる横浜市独自の制度です」と記載されています。「横浜市独自の精度です」とありますがが、他の自治体でも「週末里親」「季節里親」などいろいろな名前で、同様の制度があるようです。

shakaidekosodate.com

いわゆる「里親制度」に定められた「里親」になる場合、1年程度の研修があったりしたのち、地方自治体の長による「里親」認定を受ける必要があるようなののですが(「里親について」-こども未来横浜)、「フレンドホーム」の場合は「登録」のみなので、管轄の児童相談所に連絡をして、「フレンドホーム」登録希望の申請をし、その申請が通れば「登録」となります。

…と、このように書くと簡単そうなのですが、けっこう時間はかかるし、何回も説明やヒアリングがあるんだなぁ、という印象でした。

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「見る」の限界と「見えない」の可能性~松本美枝子《具(つぶさ)にみる》

国際芸術センター青森(ACAC)にて、4/16~6/19まで開催している、松本美枝子《具(つぶさ)にみる》を鑑賞する。

今回の展覧会のご案内をいただいてからずっと、わたしは、タイトルの《具(つぶさ)にみる》という言葉そのものが気になっていた。

それは、私がこれまでの松本美枝子さんの作品(仕事)のなかに、遠くにいる人びとに向けた言葉の存在を感じてきたからかもしれない。

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『精選版 日本国語大辞典』の「具・備(つぶさ」の項目を見てみると、次のように記されている。

〘形動〙

① すべてそなわっているさま。もれなくそろっているさま。完全なさま。

※地蔵十輪経元慶七年点(883)序「如来の所説菩薩の所伝、已来未来、一朝に備(ツフサ)に集りたり」

 

② こまかくくわしいさま。つまびらかなさま。詳細。

※書紀(720)神代下(寛文版訓)「乃ち更に還(かへ)り登りて具(ツフサ)に降(あまくた)りまさざる状(かたち)を陳(まう)す」

※平家(13C前)五「或御堂には三百余人、つぶさにしるいたりければ、三千五百余人なり」

 

この二つの意味を備える「具(つぶさ)」。

そこからは、砂粒を一粒一粒拾い上げながら、それを精工に丹念に並べ直すことによって、砂浜全体を完全に構築しなおすような途方もない試みがイメージされる。

目には見えないような一粒一粒に目をこらすような細やかさと、それを並べ上げることによって完全なる全体を創り上げるような壮大さとが、「具」という言葉には備わっている、ように思う。

 

そのようなことを考えつつ会場に足を運んだわたしを、はじめに出迎えてくれたのは、ピンホールカメラによって陸奥湾の波を映し出した作品だった。

陸奥湾の波が、独特のおだやかなスピードで寄せては返していくさまをピンホールカメラでとらえた作品は、とらえどころがなくぼんやりしているようで、「具」という言葉のイメージからは、ほど遠いところにあるようにも見える。

一方、その曖昧な視界のなかで突き刺さるように現れる光や、突然くっきりとした造形を見せる波のかたちは、私たちの記憶のなかにある「像」の姿を照射しているようにも見える。

私たちがあるものを見て、そこからある「像」を浮かび上がらせるためには、何かを「見る」ことと同時に何かを「見ない」ことが重要で、そうでないと、私たちはそこにある多大な情報の洪水のただなかにいるしかない。そのときわたしは、何も「見えて」いない。

そのように考えてみると、《具(つぶさ)にみる》こととは、ふだんの意識ではこぼれおちてしまうような、細かな粒を見ようと目をこらし、それを見ながら、自分自身が世界のなかを動きまわり、一つ、また一つ、「見る」ことを繰り返していくしかない。その果てしない、一つ、一つを「見る」ことの繰り返しによって、それを積み重ねながら、全体像を描こうとすること。それが「具にみる」ということなのだろう。

 

ある限られた角度から何かを「見て」、それを記憶したあとに、世界のなかを歩き、他の角度から同じものを「見る」ことで、世界の全体像が(遅遅としながらも)ゆっくりとその姿を現していく。

 

一方、世界はわたしたちがひとつひとつ丁寧に見ようとするその瞬間にも、大きく変わっていってしまう。だから本当は、ある瞬間の世界の全体像を完全に再現することは不可能なのだ。

このことを、ハッとするような経験とともに思い起こさせてくれるのが、《46番目の街》である。

青森大空襲をモチーフにしたこの作品は、青森市内の夜景を映し出した高精細の写真と照明、音響を組み合わせたインスタレーション作品だ。

展覧会入口側から歩き、夜景の写真を観ようと壁側に近づいていくと、突然、高い熱をもった強い照明に照射されるような感覚に陥る。光源をみようとしても、光があまりも強いなかで何も見えず、ただ近くにある暗い鉄の物体が強い光に照らされて厳しい光を放っている。その影を見た瞬間に、なぜか、ハッとした恐怖を感じる。

松本美枝子《46番目の街》(1)

一歩、二歩と先に進み、あらためて振り返ってみると、そこにあったはずの美しい夜景の写真は、完全に白い闇のなかに消失している。

残っているのは、さきほど恐怖とともに見た黒い鉄の物体と、その影がむきあう姿だ。

そのあまりにも似た二つの暗い物体とその影との間に、白い闇がある。

消そうとして消えたものとも思えない、あまりにも残酷な、記憶の消失。

松本美枝子《46番目の街》(2)

岡真理『記憶/物語(思考のフロンティア)』岩波書店)の議論を思い出すまでもなく、歴史的に残酷な瞬間を「具にみる」とは、そもそも、このような経験ではないのか、と思い知らされる。

あったはずのその瞬間、たしかに存在したその瞬間は、少し角度を変えて見直そうと思った瞬間に、いつの間にかその姿かたちを消してしまっていたり、かろうじてその存在を保っていたとしてもその姿かたちを大きく変貌させたりする。

その瞬間はその瞬間のものでしかなく、私たちが「具にみる」ことは、不可能であるのかもしれない。

そのくらいに、世界は、わたしたちが認識するよりもはるかに早く、知らないところで変わり続けている。

 

展示会場にある高精細な写真群は、それでもなお、写真家とテクノロジーの力によって、世界を「具に見る」ことに挑戦した形跡のように見える。

世界は知らぬまに変わり続けており、それをすべて見ることは不可能だ。だからこの挑戦ははじめから不可能な挑戦ではあるのだが、だからこそこの試みは可憐であり、そのなかで映し出される写真は、悲しく、美しい。

 

そして映像作品《もつけの幽霊》は、これら一連の「見ること」に迫る作品のちょうど裏側にあるかのように「見えない」世界を「見えない」まま、虚構によってつなぎあわせることによって、「見ること」の限界を融解させていくような可能性を提示する。

映像中、語り手が何度も「見た」と語る「見えない」ものの存在は、「見た」歴史的な瞬間のはかなさと、「見えない」ものを語りによって「見える」ものへと変えていくことの両方とを感じさせる。

 

「見る」ことの限界と、「見えない」ことの可能性。

それは、冒頭にみたピンホールカメラの写真映像で感じたことと、実は、ほとんど同じことであったことに気づく。わたしたちが日常的に「見る」「見ない」を組み合わせることで、はじめて何かが「見えて」くるように、「見える」「見えない」を組み合わせることによって、また違った「見える」を生み出すこともできるのだ。